ペドロ・ドミンゴ・ムリージョ(DON PEDRO DOMINGO MURILLO, 1757 - 1810, 53歳)
1809年7月16日にラパスで発生した初期の革命運動(*1)を率いた中心的なカウディージョ(*2) はドン・ペドロ・ドミンゴ・ムリージョ(don Pedro Domingo Murillo)である、とされています。
彼は、ラパス県インキシビ郡スリ(Suri, provincia Inquisivi del Departamento de La Paz)で1757年5月12日に、ラパスの良家の子供として生まれました。父親は当時、教会の司祭見習いをしていたファン・シリアコ・ムリージョ(Juan Ciriaco Murillo)(ペドロが誕生してまもなく司祭に昇格)、母親はクリオージョの娘マリア・アスセンシア・カラスコ(Doña Maria Ascencia Carrasco)。
スクレにあるサン・フランシスコ・ハビエル大学法学部で学びました。1778年、ポトシで、Manuela de la Concha Olmedoと結婚しています。
1785年、父親が亡くなると、その財産のほとんどをペドロ夫妻に残しました。これに対し彼の叔母Catalina Phelipaが裁判を起こします。当初はペドロの完勝と思われた裁判でしたが、ペドロの大学卒業、弁護士学位取得偽造疑惑が浮上し、新たな偽装工作をするもそれが発覚し窮地に立たされ、逃亡することになります(この偽装工作についてはWikiのスペイン語版を参照ください)。1789年、彼の罪は赦免され、その後は鉱山で働きました。
1805年、彼はスペイン政府に対する反乱グループの結成を図ったが発見され、裁判にかけられます。
1809年、専制政治と不当な略取、圧政に対抗するボリビアにおける初期の自由化運動がボリビア各地で活発になります。同年、5月25日にスクレで武力衝突が発生します。
1809年、ペドロは、スペイン反抗勢力である愛国の志士団のリーダーとなり、同年、7月16日にラパスにおいて反乱を起こししまた。数日後には、ラパスのカビルド(市会)を組織し、インテンデンテ(王室監察官)追放。さらに、”Junta Tuitivaの宣言(Proclama de la Junta Tuitiva)”と呼ばれる文書を公表し、スペイン王領アルト・ペルーからの分離と自治を宣言しました。
しかし、ラプラタ副王軍がこれを解散させ、ペドロは捕らえられます。1810年1月29日、彼は絞首台に引き出され、民衆の面前で刑が執行されました。彼の残した最後の言葉は、「私の仲間たち。私は死ぬ。しかし、私が残した松明の火は、誰も消すことができない」であったと伝えられています。その言葉の通り、この独立運動はその後も続き、1825年のボリーバルによるボリビア独立へとつながっていくことになります。

*1)1809年5月25日にアウディエンシアが設置されていたスクレで、7月16日にラパスで圧政からの自由を求める反乱が勃発する。反乱は直ぐに鎮圧されるが、自由独立を求める運動はこの後も続き、1825年の独立へとつながっていくことから、1809年の蜂起は、ボリビアでは大きな意味を持っている。
*2) カウディージョ(Caudillo)は英語のleaderに相当するスペイン語で、本来、頭目や親方を示す俗語である。19世紀から20世紀にかけての中南米の独立運動の指導者の呼称。地域的な有力者、権力者が武装し、カウディージョとなり、その国の独立運動を率いた。






