2010年12月10日

スペインの植民地統治体制


 アメリカ大陸におけるスペインの植民地統治体制は時代により変化しましたが、基本的には、以下の体制が採られました。この時代に用いられた行政区分を示す用語は、現在でも中南米の多くの国々で使われています。

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 アウディエンシア(Audiencia)は、もともとは司法を所管する高等裁判所の機能を持つ組織でしたが、次第にその権限が拡大され、行政権、官吏の任命権、教会の監督権を含む強大な権力を持つ組織へと発展していきました。

 中でも、現スクレに設置されたチャルカス・アウディエンシアは、その管轄範囲が広大であったことから、南米各地に設置されたアウディエンシアの中でも重要な位置を占めました。


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歴史が動いた日:1809年5月25日の自由の叫び(スクレ)


 1809年5月25日にスクレで発生した「チュキサカの反乱」は、一般には「自由の叫び(El Grito Libertario del 25 de Mayo de 1809)」と呼ばれ、当時スペイン植民地であった中南米における独立運動の起爆剤になったといわれる特筆すべき出来事として記録されています。

 当時のスペイン本国は、1808年、ナポレオンの侵攻を受け、スペイン国王カルロス4世が退位に追い込まれるという危機的な状況にありました。

 このような情勢の中、中南米のスペイン植民地では、スペインからの独立を求める動きが次第に活発化していきます。その最初の衝突がこの日の反乱でした。

 スクレの中心にある中央広場の名前は「5月25日広場(Plaza 25 de mayo)」。この反乱が起きた日付が広場の名前に付けられています。

 この時の様子を少し詳しくご紹介します。当時のスクレは、チュキサカと呼ばれていました。4つの名前を持つ世界遺産の古都スクレの一つの呼び方でした。ちなみに、「チャキサカ」は、現在スクレ市のある県の名前になっています。


 1809年5月24 日の夜、チャルカス・アウディエンシアの長官ホセ ・デ・ラ・イグレシア(señor José de la Iglesia)は、裁判官たちを裁判所に臨時に招集し、秩序を維持、確保するために事前に採るべき方策を検討します。

 5月25日の早朝、Santo Domingo郡のFélix Bonet神父がSantiesteban将軍を伴って、チュキサカの長官ラモン・ガルシア・レオン・イ・ピサロ(Ramón García León y Pizarro)を訪ね、ここ数日来、市中で陰謀や密約を感じさせる不穏な動きが見られるので用心するよう警告します。

 ピサロは、この動きに厳しい態度で臨むことにしますが、実際に逮捕できたのは貧者の保護者 ハイメ・スダーニェス博士だけでした。この逮捕の知らせを受け、スクレ市内の全ての教会の鐘が打ち鳴らされます。その中でもサン・フランシスコ教会の鐘は激しく叩かれました。このためこの鐘にはヒビが入りました。現在、この鐘は、自由の鐘(Campana de la Libertad)と呼ばれています。

サン・フランシスコ教会にそびえる二つの鐘楼

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 異常な鐘の音を聞いたスクレ市民が中央広場に集まり、スダーニェス逮捕の知らせを聞き、スダーニェスの釈放を要求する運動を始めます。

 その時、広場に集まった民衆は静まりかえり、まるで全てが終わったかのようでした。しかしそれは、まもなく始まる独立戦争につながるドラマの始まりでした。

 ピサロが許可した一斉射撃により犠牲者が出たことに憤慨したスクレ市民は、市議会の建物に向かい、5門の大砲が保管されていた保管庫の門を打ち破り、大砲に砲弾の代わりに石を詰め、県庁舎に照準を合わせました。世界に鳴り響く大砲の大きな音と共に、戦いが始まりました。それは、アメリカの自由化のためにチュキサカの子供達に捧げられた血の洗礼でした。ピサロの辞任とスダーニェスの開放を求め、民衆による暴動は次第にその激しさを増していきます。

 5月26日午前3時、ピサロは、「民衆の勝利と満足の中で、王立アウディエンシア裁判所は、チュキサカ政府から支配権を引き継いだ」ことを公表・公示した上で、武器を放棄し囚人を開放しました。

豆知識


 当時のスクレは、ペルー副王領ではなくリオ・デ・ラ・プラタ副王領の管轄でした。1776年、スクレのあるアルト・ペルー(現ボリビア)がペルー副王領からリオ・デ・ラ・プラタ副王領に転入されています。しかし、チュキサカの反乱のあった翌年の1810年、アルゼンチンの独立を期に、アルト・ペルーはペルー副王領の管轄に戻っています。

 スクレでの反乱は、まもなく鎮圧されてしまいますが、1825年のシモン・ボリーバルによるアルト・ペルーの解放までの16年間、平穏だったわけではありません。

 スクレ近郊のタラブコ村では、1816年3月12日、フンバテ(Jumbate)の戦いで、かつてインカ帝国東部方面の国境警備を担っていた勇猛なタラブコ族の集団がスペイン軍を打ち破り、以降、スペインによる支配を受けることなく自治を維持します。この戦いで、スペイン軍兵士の心臓をタラブコ族兵士が食べたと伝えられています。詳細は過去記事をご覧下さい。


引用:La Leyenda tiene un nombre: Chuquisaca


旅行者のためのおまけ:発音


Plaza 25 de mayo : プラサ ベインティシンコ デ マジョ

 Zの発音は「ザ」と濁らず「サ」です。月の表記は一般に小文字を使います。
 「mayo」は、「マヨ」、「マリョ」でも通じますし、そのように聞こえる発音をする現地の人も結構います。
 「25」の発音は、この他に「ベインテ イ シンコ」とも表記可能ですが、ここでは固有名詞化しているので、上記の発音以外は不可です。


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2010年12月07日

スクレ観光(人):アニセト・アルセ・ルイス


アニセト・アルセ・ルイス ANICETO ARCE RUIZ  1824 - 1906 82歳


 スクレの目抜き通り、中央市場やサン・フランシスコ教会のある一角に付けられている名前が、「アニセト・アルセ」。1888年から1892までボリビアの第27代大統領を勤めました。

 
[スクレの目抜き通り、アニセト・アルセ通り]

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 アニセト・アルセは、ボリビア独立の前年、1824年4月17日、タリハで生まれ、1906年8月14日、スクレのティリスパジャ(Tirispaya)で没しました。

 スクレのフニン高等学校(Colegio de Junín)で学び、その後、チュキサカ大学(サン・フランシスコ・ハビエル大学)に入学します。大学では法学と鉱山学を学び、後に、Huanchaca銀山の経営権を取得します。また、数学、法学、政治学の教授を歴任しました。

 アメリア・アルガンドーニャ(Amelia Argandoña)と結婚。厳格で、責任感が強く、怠惰を非難し、反乱者に対しては暴力で制裁を加えました。彼は若い頃、チャコを探検しましています。

1847年 メスティーソの軍人マヌエル・イシドロ・ベルスが反乱を起こします。
1848年に、ラパスの民衆が金持ちの家を略奪し、軍を攻撃して反乱を起こします。Yamparaezの戦いで勝利したベルス(Manuel Isidoro Belzu Humerez)が臨時大統領に選出されます。ベルス臨時大統領は1851年に憲法公布し、正式に憲法に基づく大統領となります。一方、アルセは、1850年、下院議員に選出されますが、ベルス大統領の迫害を受け、チリのコピアポ(Copiapó)に政治亡命します。そこで彼は鉱山で働くことになります。

1888年、アルセは、64歳の時に大統領に就任し、国内外に通じる道路網の整備を図り、最初の鉄道を敷設し、スクレ-ポトシ間のピルコマージョ河に架かる橋(過去記事参照)やスクレ-コチャバンバ間のリオグランデに架かる橋を建設するなど、大きな功績を残しました。

 その当時、ボリビア国は銀の採掘で繁栄しており、それを国の近代化に活用しました。軍学校を創立し、銀行法を公布しました。

 このような功績を称え、スクレの最も重要なサン・フランシスコ教会に隣接するアーケード通りは、「アニセト・アルセ」と名付けられています。

1906年、アルセは、スクレのカテドラルで開催された祭式に参加していた時テロの犠牲となり殺害されました。享年82歳でした。
(この死因についての記述は西語版wikiにはなく、Museo de Charcasの肖像画の説明書によっている)

 アルセの死後、彼の全ての財産は、国に寄贈されました。ここまでできる政治家は、世界的に見ても少ないのではないかと思います。


彼の銅像は、ボリーバル公園の旧鉄道駅舎に面した場所に建っています。
この銅像(座像)は、1946年、ボリビアの鉄道建設に貢献した元大統領を称え、鉄道公社が建立(こんりゅう)しました。

アニセト・アルセ肖像画


アニセト・アルセの銅像


アニセト・アルセの銅像横向き


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2010年12月03日

いよいよ連載開始:「スクレの偉人たち」


 いよいよスクレにまつわる偉人、有名人の紹介記事をスタートします。ご紹介するのは、スペインによるインカ帝国侵略からボリビアの独立の頃までの約300年間に活躍した人たちです。

 スクレに直接関係しない人物も含まれますが、この時代の大きなうねりの中で欠くことのできない人物もご紹介していきます。

 公園などにある彫像の著名人も、概ねこの期間に集中していると思います。

 公園の彫像が誰なのかを知っていると、世界遺産の古都を歩く楽しみが何倍にも増します。これはスクレに限らず、ボリビアでもヨーロッパでも同じだと思います。

 日本語で書かれ、公開されているものをこの記事で改めてご紹介するつもりはありません。日本語では書かれていない、日本では誰も知らないことをご紹介するのがこのシリーズの目的であり、こだわりです。まあ、スクレの偉人を書くほど日本の歴史学者も暇ではないと思いますが。

 実は、スペイン語でもほとんど紹介されていない歴史上の人物もいます。たとえば、スクレの創設者ペドロ・デ・アンスレス (Pedro de Anzures)。スクレの創設者であったこと、ピサロ配下の有能な将軍であったこと以外の情報は、スペイン語サイトでもほぼ皆無です。

表記方法について


 日本語表記では、現地に行った時に役に立たないので、できるだけスペイン語も交えて書きたいと思います。また、発音はボリビアにおける発音で記載します。たとえばスペインでは「LL」を「リョ」と発音しますが、中南米では「ジョ」と発音します。

 Murilloは「ムリーリョ」とも「ムリージョ」(本サイトの表記)とも発音、表記可能だということです。また、「y」は、スペインでは「リャ、イァ」、中南米では「ジャ」と発音します。表記上の大きな違いはこの二つくらいです。例外は、スペイン本国に係る記述です。これはスペインの発音を優先したいと思います。

 著名人の名前(日本語)の次に、スペイン語、誕生年と没年、死亡時の年齢を記載しています。驚くほど早く大成し早死にした人や、憎まれながらも天寿を全うした人など、人生は面白いものだと思います。単なる年表ではなく、年齢という情報はその人物を知るのに役立つのではないかと思います。

 人物の場合、肖像画がないとイメージが湧かないので、ほとんどの人物の記事に肖像画も合わせて掲載する予定です。自分で撮影した肖像画の画像を使いますので、どこまでできるか。

 なお、ご紹介する人物の順序は、特に定めていません。ネコ師の気分次第です(笑)。一定数の人物をご紹介した段階でカテゴライズしてIndexを作ります。

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2010年11月25日

「光り物」には目がくらむ:スクレの教会と都市デザイン


 以前書きましたように、スクレにはたくさんの教会があります。
 なぜ、ボリビアの小さな都市に過ぎないスクレにこんなにたくさんの教会があるのか不思議です。

 一説には、200の教会があるそうです。おいおい、そのくらいちゃんと数えろよ、と言いたいのですが、スクレ市内には少なくとも20以上の教会、礼拝堂、修道院があるのは間違いありません。何しろ、100~200mのブロックごとに1カ所は教会があるので。まさに、街角には必ず教会があるという感じです。

 歴史的に、教会は権威と富の象徴だったようです。富の半分以上は教会に集められました。それは、土地、宝石、貴金属、さまざまな形を取りますが、そのような富が教会に集められ、その威信を維持するために、さまざまな豪華な建造物が建てられていったようです。

 これらの建造物は、一点豪華主義ではなく、数も問題だったのだと思います。

世界遺産スクレを象徴するカテドラルの祭壇

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豪奢なラ・メルセ寺院の祭壇

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サント・ドミンゴ教会の祭壇

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夕日に佇むセサール

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 大司教座のあるカテドラルが1カ所あれば事足りる、と考えるのは、合理主義、無信教の表れかも知れません。

 17世紀のスクレでは、富は教会に集中していました。以前グアダルーペの聖母の記事で書いたように、その富は寄進によるものもありましたが、当時の教会は金融機関を兼ねていたということも、富の集中を加速しました。ポトシ銀山から得られる莫大な富は、ポトシやスクレの教会の新築、改築に使われました。

 さて、教会に使われている膨大な量の分厚い金箔(すでに「箔」ではない)。どこから来たのでしょうか? 

 これについては現在の所、不明です。ただ、ポトシ銀山からの副産物だったのではないかと思います。銀山では、量は少ないものの金や他の貴金属も同時に産出します。

 銀はさびで黒く変色するのに対して、金は変色せず光り輝いています。

 ヨーロッパの古い小説を読むと、「銀製の食器を磨く」という文章によくお目にかかります。銀は磨く必要があるようですね。なにしろ、黒く変色するので。(銀、銀純度、sterling silver 925, 950)についてはカンクーンの記事で書いたと思いますのでそちらをご覧ください)

 ところが、「金の食器を磨く」という文章は見かけません。教会の金の聖具も磨いたりなどしません。拭くだけです。

 金は、全ての文明で高く評価されている金属です。光り輝く金属は他にもありますが、「さびない」ということが他の金属と違う点だと思います。

 今も昔も、このさびない金属を巡って多くのエゴがぶつかり合いました。

 教会の装飾に使われているのは金だけではありません。たくさんの宝石が使われています。どうしてでしょうか。それが、ルビーでもサファイヤでもかまわないのですが、当時入手できる「光り物」だったからではないでしょうか。そのほとんどは寄進によるものだと思います。

 以前、たしかコスタリカの記事で書いたと思いますが、教会の建築デザインは光を重視しています。なぜ、教会の入り口は東に作られるのか。

 「光り物」は人々の心を高揚します。そして惑わします。その光に惑わされ、虜になっている人もたくさんいると思います(うちの息子もその一人です)。

 「色」とは、光の反射の程度を表していて、全く反射しなければ「黒」。さまざまな反射を考慮して教会の設計がなされました。

 我々日本人にとって、彫像の聖人がその場所に置かれている意味を知り、理解することは困難です。しかし、教会内部の光のバランス、光による演出は、我々でも楽しめるのではないかと思います。その役者が光り物と言われる宝石や貴金属です。

 古都スクレの建設当時、他の建築制約が一切ない中で、なぜ、東西南北に45度傾けて都市建設が行われたのかが疑問です。多くのスペイン入植地は東西南北を基準に都市の区画が決められています。ネコ師は、都市建設を行った(実質的)設計者の出身地の都市デザインに依っているのではないか、との仮説を立てています。これに関しても、一部、過去記事でご紹介しています。

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2010年10月17日

スクレのグアダルーペの聖母の伝承

 スクレのグアダルーペの聖母の肖像画は、1601年、フライ・ディエゴ・デ・オカーニャ(Fray Diego de Ocaña)によって描かれたもので、住民の信仰の証として全身、宝石や貴金属で覆われています。



スクレのグアダルーペの肖像


 この肖像画は4世紀の間、ボリビアの歴史の中で最も崇拝されているもので、チュキサカの守護聖人と考えられています。

 その褐色の顔は、イエスの母、ナザレのマリアのような、そして、敬虔な多くの住民女性のような穏やかな表情をしています。

 公式な記録によれば、このグアダルーペの聖母の肖像画は、1601 年に、アロンソ ・ ラミレス大司教の要請で、ヘロニモ修道会士が描いたことが確認されています。
 

 この肖像画は、布地に描かれたもので、その大きさは、縦1メートル26センチ、横90センチです。

 カトリックの住民達は、この保護者を得たことで満足し、多くの貢ぎ物を持ち寄りました。この時からグアダルーペの聖母に貢ぎ物を捧げる風習が始まりました。当時の聖堂参事会長 Juan Larráteguiは、「スクレのカトリック教徒の女性の中で、聖母に何も捧げ物をしない者は一人もいなかった。全ての女性が、エメラルドやルビーなど高価な宝石、真珠のネックレス、金製品など大量の装飾品を奉納した」と記録に残しています。

 マントの部分は、後に金と銀の板に置き換えられました。

 グアダルーペの聖母の伝説は、例外なくスクレにもあります。

 研究者 Luís Ríos Quirogaによれば、次のような伝説が伝わっています。

 あるとき、グアダルーペ寺院が現在建っている場所に、一匹のラバがやってきました。その背には、不思議な箱が乗っています。これを興味深く思った人達が、ラバが小川で水を飲んでいる間に、この箱を取ろうとしましたが、ラバが逃げ出してしまい、失敗しました。

 そこで、大司教に相談し、その場所を祝福する儀式をすることになりました。すると、再びラバが現れましたが、今度は抵抗せず、逃げません。人々はラバの背から不思議な箱を降ろし、ふたを開けました。すると中から、グアダルーペの聖母の肖像画が出てきました。

 この時から400年間、グアダルーペ祭は毎年開催されています。

posted by ネコ師 at 12:27| Comment(0) | ボリビア・スクレの歴史/人物 | 更新情報をチェックする

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