2011年01月27日

スクレの歩き方(人):フアナ・アスルドゥイ・デ・パディージャ


フアナ・アスルドゥイ・デ・パィージャ(Juana Azurduy de Padilla, 1780-1862, 81歳)

 
 今日は、スペインからアルトペルーが独立する時の英雄、革命リーダー、愛国の女戦士フアナ・アスルドゥイ・デ・パディージャをご紹介します。

 スクレの空港は、フアナ・アスルドゥイ・デ・パディージャ空港といい、彼女の名前が付けられています。

 彼女は夫のマヌエル・アセンシオ・パディジャと共にリオ・デ・ラプラタ副王からの解放のための戦いに参加し、反乱軍の指揮をとりました。

 2010年3月、アルゼンチン大統領クリスティーナ・フェルナンデス・デ・キルチネルがスクレに来た時、「自由の家」で行われたセレモニーで、フアナのアルゼンチンでの軍の階級として「陸軍中将」を授けました。

 ボリビアのヒロインの遺灰の前で、神秘な雰囲気の中で、フェルナンデスはアルゼンチン軍の権威の象徴であるの1本のサーベルを、フアナの代理としてエボ・モラレス大統領に手渡しました。彼女の演説は、なかなか魅力的なものでした。

 「アルゼンチンの大統領として、女性として、政治活動家として、私は、ここにいることを誇りに思います。彼女の前で、彼女の遺骨の前で、私はアルゼンチン軍の将軍の名誉と栄光に満ちたサーベルを、彼女のために、また、アルゼンチン国民のために、ボリビア大統領に渡します。しかし、とりわけ、いつも、歴史はゆがめられ、隠されます。」

 クリスティーナは、式典で、昨年亡くなったアルゼンチンのフォーク歌手メルセデス・ソーサの「Juana Azurduy」を歌いました。ソーサがフアナ・アスルドゥイに捧げた歌です。

 クリスティーナは、このメルセデス・ソーサの曲でフアナを知ったと告白しています。

 このアルゼンチン大統領は、きれいな人だなぁ、と実況中継をテレビで見ながら思っていました。エボ大統領が鼻の下を伸ばしっぱなしでした。


 メルセデス・ソーサの歌はYoutubeで聞くことができます。まず、この歌をお聞き下さい。歌詞の本当の意味、そして、クリスティーナの行動、言動の意味は、この記事を読めば分かると思います。



 歌詞の日本語訳は、下のようなものだと思います。ネコ師の勝手な訳ですが。

【「フアナ・アスルドゥイ」歌詞和訳】

 フアナ・アスルドゥイ、アルト・ペルーの花、あなたよりも勇敢な隊長は他にいない。

 フフイのもっと向こうであなたの声とあなたの勇ましいギャロップの音が聞こえる。ドーニャ・フアナ・アスルドゥイ。

 私は未熟な祖国に恋をして、寝不足のまま大地を駆け巡る;スペインは、女性たちと戦わなければ、この大地を通り過ぎることはできない。

 フアナ・アスルドゥイ。アルト・ペルーの花。あなたよりも勇敢な隊長は他にいない。

 大砲が轟く。あなたのライフルを貸してください。革命はジャスミンの香りでやってくる。

 アルト・ペルーの太陽の土地では、未だにトゥパクアマルを呼ぶ声がこだましている。
女性が守備する土地。自由なアマゾン

 あなたの部隊に入り、あなたの命令を伝えるラッパ手になり突撃したい。フアナ・アスルドゥイ、アルト・ペルーの花、あなたより勇敢な隊長はいない。

スペイン語歌詞


Juana Azurduy,
flor del Alto Perú,
no hay otro capitán
más valiente que tú.

Oigo tu voz
más allá de Jujuy
y tu galope audaz,
doña Juana Azurduy.

Me enamora la patria en agraz,
desvelada recorro su faz;
el español no pasará,
con mujeres tendrá que pelear.

Juana Azurduy,
flor del Alto Perú,
no hay otro capitán
más valiente que tú.

Truena el cañón,
préstame tu fusil
que la revolución
viene oliendo a jazmín.

Tierra del sol
en el Alto Perú,
el eco nombra aún
a Túpac Amaru.

Tierra en armas que se hace mujer,
amazona de la libertad.
Quiero formar
en tu escuadrón

y al clarín de tu voz,
atacar. Juana Azurduy,
flor del Alto Perú,
no hay otro capitán
más valiente que tú.

フアナ・アスルドゥイ・デ・パディージャの生涯


 フアナ・アスルドゥイ・デ・パディージャ(Juana Azurduy de Padilla)は 1780年7月12日、チュキサカ(現スクレ)で生まれました。彼女はスペイン系とインディオのメスティソでした。彼女の母親の家系は裕福でしたが、父親はスペイン人により殺されました。

 彼女はチュキサカで育ち、12歳の時、修道女になるためにスクレのサンタ・テレサ修道院に入ります。修道院で彼女があまりにも頻繁に反抗的態度をとることから、最終的に17歳の時に修道院を追放されました。彼女は、ケチュア語とアイマラ後を話すことができました。

 1802 年、マヌエル・アセンシオ・パディージャ(Manuel Ascencio Padilla)と結婚しました(1805年の説も)。

 1809年5月25日の 独立革命の勃発後、フアナと彼女の夫は、民衆の軍隊に参加し、副王の罷免の後、管轄庁長官にフアン・アントニオ・アルバレスが任命されることになります。

 フアナの場合が特別例外なのではなく、当時の女性の多くがその後の戦いに組み込まれていきます。

 フアナは彼女の夫に積極的に協力し、アルト・ペルーを解放するためにブエノスアイレスから派遣されて来る軍隊と一緒に行動するために、「Los Leales」として知られていることになる騎兵中隊を組織しました。

 戦闘の最初の年、予期しなかったペルーの王党派の動きにより、彼女は自分の子供を放棄することを余儀なくされ、たくさんの戦闘に参加することになります。

 チャルカス・アウディエンシアは、2つの地域に分けられ、その一つは解放軍が、他はスペイン王に忠実な軍隊によってコントロールされていました。

 1810 年、マヌエル・ベルグラノ(Manuel Belgrano)の解放軍に統合され、フアナの戦闘ぶりに非常な感銘を開けたマヌエルは、彼女にシンボルとしてサーベルを贈呈します。

 彼女の特筆すべき活躍は、1816 年3月8日のビジャール(Villar)地域で起きました。

 彼女の夫は、チャコ地域に行かなければならず、この地域の戦略策定を妻に任せます。この場所は、攻撃の標的となっていました。しかし、フアナは、大胆な襲撃で、相手軍の連隊旗を敵の将軍から彼女自身の手で奪い取り、ラプラタの丘の占拠を指示します。

 この行動により、ブエノス・アイレス政府は、1816 年8月13日、フアン・マルティン・デ・プイレドン(Juán Martín de Puyrredón)によって署名された令よって、リオ・デ・ラプラタ連合地域の総帥をフアナ・アスルドゥイとすることに決定し、この地域の独立軍の基本である義勇軍の階級を陸軍中将(teniente coronel)としました。

 ペルーを解放したいホセ・デ・サン・マルティン将軍の軍隊に編入になった後、戦争の戦略が変更になりました。サン・マルティンは、太平洋側からリマを攻撃することにします。そのためには、チリを完全に解放する必要がありました。この決定を不安定な状態のアルト・ペルーの解放軍に伝えます。この時、フアナとその夫は、極度の危機的な状態のもとにあり、彼女らの4人の子供たちは餓死しました。

 その直ぐ後、彼女は5 番目の息子を妊娠していました。しかし、夫は既にビジャールの戦いで戦死していました (1816 年9月14日)。この戦いで負傷したフアナを助けようとして夫が亡くなりました。彼の遺体は、ラグーナの村で王党派により吊されました。そして、フアナは絶望的な状況でした: 未亡人になり、妊娠しており、しかも、王党派が効果的に領土を制圧している状況でした。

 フアナは娘を出産後、ゲリラ(カウディージョ)のマルティン・ミゲル・ゲメス(Martín Miguel Güemes)の下へゆき、アルト・ペルー北部での作戦に参加しました。マルティンが死に、北部のゲリラは崩壊します。フアナは、(現アルゼンチンの)サルタ地域でひどく貧しい生活を余儀なくされました。

 1825年、スクレ元帥によるボリビアの独立宣言後、フアナは、新しい政府が資産を彼女の故郷に返すように何度も働きかけますが認められません。スクレ元帥は、彼女に年金を支給しますが、彼女が77歳になった1857年、ホセ・マリア・リナレス政府の下でその年金は廃止されることになります。フアナは、夫と5人の子供を革命で亡くし、孤独と極貧の中、1862年、81歳で亡くなります。亡くなったのはアルゼンチンのフフイ(Jujuy)でした。・・と思ったのですが、Wiki(Es)に書いてあるとおり、スクレなのだそうです。

 彼女の亡骸は共同墓地に埋葬されますが、それから100年後、彼女の遺骨は掘り出され、スクレの自由の家に彼女の遺骨が安置されています。

 
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 フアナが率いた反乱部隊は、大部分が男性で、一部女性もいました。この反乱にはたくさんの女性が戦闘に参加しています。女性部隊の隊長がフアナだったわけではありません。

 下の写真は、スクレから2時間半のところにあるプレスト村の広場に建つフアナ・アスルドゥイの銅像です。昨年建立されたばかりの新しいものです。

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2011年01月25日

1月24日は3名の司祭がアイマラ族に喰われた日


 今日1月24日、職場の人たちが組合の動員でスクレ市内を行進し、お墓まで行くという耳寄りな情報をキャッチ。何の行進か聞いたら、なんともおぞましいボリビアの歴史が明らかになりました。

 1899年、ボリビアは内戦状態に突入します。その原因は、首都をスクレからラパスに遷都しようとする動きに対し、これに反対する勢力が衝突したというものでした。

 1899年1月24日、最初の虐殺がラパスに近いCosmini、Ayo Ayoという所で発生します。アイマラ族のインディオ達は、神に祈るために教会に居残った3人の司祭を捉え、殺害した上、遺体をバラバラに切断し、その足と心臓を食べたと伝えられています。

 以前、タラブコの記事で、タラブコ族(ケチュア語族)がスペイン人の心臓を食べた記事を書きましたが、アイマラ族のインディオも人間を食べたのか、と驚きました。ボリビアにいるのはどんな国民なんだ、という感じです。

 タラブコ村でスペイン人が心臓を食べられた話は過去記事「タラブコ村のカーニバル(詳細情報)」をご覧下さい。写真は、「スクレ近郊のタラブコ村のカーニバルとカニバリズム」にもたくさん掲載しています。ここでの戦闘は「フンバテの戦い」といわれ、1816年3月12日に発生しています。Ayo Ayoの虐殺より83年も前のことです。

 スクレの共同墓地にはこの戦いで亡くなった人たちの慰霊碑があります。

 ポルコ、ポトシの銀山により栄えたスクレですが、銀を掘り尽くし、時代はスズ(錫)に移っていました。ラパスの近くで錫鉱山がたくさん見つかり、物流の拠点はラパス移っていました。斜陽の銀鉱山資本家からなる保守党と新興の錫鉱山資本家からなる自由党との衝突でした。この内戦は最後の市民戦争と呼ばれています。

 保守党はこの戦いに敗れ、首都機能はラパスに移管されます。スクレに残ったのは首都という名と最高裁判所だけ。他の行政機能は全てラパスに移りました。

 首都が移ったのには、こんな血なまぐさい出来事があったのです。虐殺は他にもいくつか起きました。この戦争については日本語では紹介されていないようです。

 スクレとラパスの関係は、このような歴史も踏まえ、市民の間にかなり感情的なものを感じます。この虐殺を聞いたインカ帝国東部方面国境守備隊タラブコ族は、「いつかアイマラを喰ってやる」と血が騒いでいるかも知れません。冗談ですが。

 ボリビア独立後の歴史は、内乱の連続で気が滅入ります。独立までの歴史の方が書いていて面白いのですが、その後の歴史はパスすることにします。

 ネコ師の任期も残す所あと4ヶ月。できるだけスクレの魅力を伝えたいと思います。

 今度、スクレの墓地にも行ってみたいと思います。そのうち、スクレの墓地という記事でも書こうかと思います。サンフランシスコ教会の向かいにあるサンタクルス広場も以前は墓地でしたし、カテドラルの裏側も墓地でした。スクレ市の拡大に伴い、墓地はどんどん郊外に移転されていきますが、墓地の移転に見る世界遺産スクレの発展過程というテーマも面白いかも知れません。私は書きませんが。


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2011年01月04日

スクレ観光(人):アントニオ・ホセ・デ・スクレ


アントニオ・ホセ・デ・スクレ(Antonio José de Sucre, 1795 - 1830, 35歳)


 今日は、いよいよアントニオ・ホセ・デ・スクレです。世界遺産の古都スクレは、ボリビアの初代大統領であるアントニオ・ホセ・デ・スクレ大元帥にちなんで名付けられました。スクレが31歳の時のことです。

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 スクレは、南米ではとても有名で、スペインから南アメリカを独立に導いた英雄として知られています。スペイン語版のWikipediaをご覧下さい。他の言語と比較して圧倒的なボリュームです。

 スクレについては、日本語版のWikipediaでも詳しく紹介され、その記述もよくまとまっているので、本記事では、日本語版Wikipediaを補足する形で、誰も知らないスクレについて書きたいと思います。

 スクレは、ベネズエラ東部のクマナで生まれ、スペイン領アメリカの独立戦争の勃発とともに独立派の軍に入り、士官としてベネズエラ東部で戦歴を重ねました。

 ボリビアの国名となったボリビア建国の英雄シモン・ボリバルも実はベネズエラ人。カラカスの出身です。シモン・ボリバルがボリビアの初代大統領となり、第二代大統領がスクレでした。しかし、シモン・ボリバルは名目的な大統領であったことから臨時大統領と位置づけ、スクレを初代大統領とする見方もあるようです。

 スクレは1826年から1828年まで2年間大統領を努めます。そして、大統領を辞任した理由が、この国籍にありました。ボリビアの支配層の人たちがベネズエラ生まれのよそ者のスクレの支配を嫌って、反乱を企てたのが原因でした。

 スクレは非常に若くして出世し、1824年に現ペルーのアヤクーチョの戦い(Batalla de Ayacucho)でスペイン軍を撃破し、大元帥(Gran Mariscal )に昇格します。ボリビアの大統領を辞任後、1830年、コロンビアで暗殺されます。35歳でした。 早死にした英雄というと、なんとなく坂本龍馬を思い出します。龍馬は、スクレが暗殺された6年後の1836年生まれ、31歳で暗殺されています。

 シモン・ボリバルは、中南米の旧スペイン植民地が小国に分かれ分裂していたのでは、再びスペインの植民地になってしまうことを危惧していました。そのため、パナマ会議を招集し、統合を呼びかけますが、各国は批准しません。ボリバルは、スクレに期待しますが、スクレはボリバルの政治姿勢を嫌い、隠遁生活を望みます。

 このことは、現在の状況から見れば、ボリバル、スクレ、そして、中南米諸国にとって不幸だったのではないかと思います。中南米諸国は、その後、統合する機会を失い、他の欧米諸国の”国家”と比べ、さまざまな指標において県レベルの国々が一つの独立国として成立することになり、不効率な行政を招き、国の発展を妨げることになります。

 この辺までが一般的なスクレの情報です。スクレの人生をもう少し詳しく見ていきましょう。


 1821年、スクレはエクアドルの独立派の救援に赴き、翌1822年、キト郊外のPichinchaの戦いでスペイン軍を破り、キトに入城します。

 そこには、マリアナ(Mariana Carcelén Marquesa de Solanda:1805-1871)という17歳の美貌の娘がいました。彼女はキトで有数の大富豪の娘でした。戦いの影響を避けるため、当時、彼女は家族と共にサント・ドミンゴ修道院に避難していました。この娘は本当に美しかったようです。(下の画像はスクレ市の自由の家に掲げられているマリアナの肖像画です)

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 スクレの入城を知った彼女は好奇心からスクレを見に出かけ、そこで二人は直ぐには恋に落ちました。二人は結婚の約束をしますが、スクレはペルー戦線に参加しなければならず、それは直ぐには実現しませんでした。

 1824年、ペルーのアヤクーチョの戦いで、スクレの率いる6千の歩兵と騎兵は、9,320名からなる重装備のペルー副王軍を壊滅させます。3時間続いたこの戦いで、スクレ軍の被害は戦死者300名(309名の数字もある)、負傷者600名でしたが、副王軍の死者は1,400名(1,800名とも)、捕虜は数千名にのぼりました。この戦いの勝利は、南アメリカのスペインからの独立を決定づけるものとなりました。

アヤクーチョの戦いの降伏文書署名

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 その後、スクレは、ボリバルの命令によりアルト・ペルーに部隊を移動し、ペルー副王残党軍を完全に制圧することになります。

 1825年4月、アルト・ペルーを解放し、ラテン・アメリカ大陸部での解放戦争は終結します。

 1825年8月6日、アルト・ペルー共和国議会は、独立におけるボリバルとスクレの功績を讃え、国名をボリビア共和国と決定し独立を宣言しました。また、首都名を(チュキサカから)スクレと定めました。
 
 ボリバルはラパスに入って臨時大統領になりますが、スクレに政務を預けて去り、スクレは1826年にボリビアの初代大統領に選ばれました。

 1828年、スクレがキトを離れてから6 年の歳月が流れていました。その時、スクレはボリビアの大統領を努めていました。スクレは、マリアナとの結婚の約束を果たす決心をします。Vicente Aguirre大佐に、彼女と結婚するための委任状を送ります。その時マリアナは23歳になっていました。この代理人を立てた結婚式は1828年4月20日にキトで行われました。

 その2日前の4月18日、(スクレ市にいる)スクレは、サン・フランシスコ軍司令部で反乱兵士の放った2発の銃弾を頭と腕に受け瀕死の重傷を負います。スクレはこの日大統領を辞任しています。(サン・フランシスコ軍司令部は、サンフランシスコ教会を接収して設置されていました。現在、その一部が「軍事歴史博物館」になっています)

 彼は、病床からマリアナに次のような手紙を書いています。

  「君はもう少しで死者と結婚するところだったよ」

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 なお、ボリビアの第三代大統領ペドロ・ブランコは、大統領に指名された数日後にラ・レコレタ修道院で暗殺されています。

 同年、大統領を辞任したスクレは、キトに向かいます。キトでは妻の実家で静養し隠遁生活を送りますが、時代が彼を求めていました。エクアドルとペルーの国境争いが発生し、スクレはエクアドルの司令官として戦いに参加し、ペルー軍を殲滅します。

 1830年、スクレはコロンビアの国会議長に選出されますが、ボゴタから家族の待つキトに戻る途中のBerrueco山中で、同年6月4日、森の中で待ち伏せた複数の暗殺者に狙撃され、頭に弾を受けて即死しました。享年35歳でした。

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 スクレが暗殺された時、妻のマリアナは25歳でした。

 25歳で未亡人になった彼女ですが、スクレが暗殺されてから13ヶ月後にIsidoro Barriga y López de Castroというコロンビア人の将軍と再婚しています。

 スクレとマリアナとの間には、1829年7月10日に娘のテレサが生まれました。しかし、再婚数ヶ月後の1831年11月15日、スクレの忘れ形見テレサは、抱いていた義父の手から庭に落ち亡くなっています。これを犯罪と見るか事故と見るかは意見が分かれるようです。

 ボリバルは、自分の後継者と考えていたスクレ暗殺の知らせを聞き、ひどく落胆したと伝えられています。そして、ボリバルもスクレ暗殺と同じ年の12月に病死しています。

 最後に、再婚した後にマリアナが言った言葉で、この記事を締めくくりたいと思います。「スクレ」に悲哀を感じてしまいます。

 "Con Sucre me casaron, con Barriga me casé"

 「スクレとは、家族の薦めによる結婚だったけど、バリガとは自分の意志で結婚したのよ」

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2011年01月02日

スクレの歩き方:チャルカス・アウディエンシア(LA REAL AUDIENCIA DE CHARCAS)

 
 新年最初の記事は、チャルカス・アウディエンシア(LA REAL AUDIENCIA DE CHARCAS)です。古都スクレの歴史を知るのに、この存在は欠かせません。

旧チャルカス・アウディエンシアのあった建物


スクレのチャルカス・アウディエンシアのあった建物


スクレのチャルカス・アウディエンシアのあった建物


チャルカス・コロニアル博物館


 旧チャルカス・アウディエンシアの建物と同じ通りにある歴史博物館です。ここについてこちらの記事は、「チャルカス・コロニアル・人類学博物館」をご覧下さい。。

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概要


 チャルカス・アウディエンシアとして知られる「チャルカス・ラプラタ王立聴訴院(La Audiencia y Cancillería Real de La Plata de los Charcas)」は、アルト・ペルー(現在のボリビア)地域におけるスペイン入植地の最高裁判所でした。(Audienciaは、聴訴院の他、行政立法院とも訳される)

 1776年まではペルー副王領に属していましたが、その後はリオ・デ・ラプラタ副王領に所属することになりました。リオ・デ・ジャネイロの独立運動が激化(1810年5月25日の五月革命)したことから、1810年に再びペルー副王領に所管が移ります。その本部は、ラプラタ市(現スクレ市、1776年にチュキサカ市に市名を変更)に置かれました。

 このように書いても実態がよく見えませんね。アウディエンシアの権限は非常に大きく、その所管が変わるということは大変なことでした。リオ・デ・ラプラタ副王領に所管が移るまでは、リオ・デ・ジャネイロの港からスペイン本国に直接荷物を送ることができず、ペルーのリマ経由で送られていたようです。

 1782年にチュキサカ管轄庁(Intendencia de Chuquisaca)が設置されますが、チャルカス・アウディエンシアの長官が管轄庁長官を兼務しました。

設立と所管地域


 王立チャルカス・アウディエンシアは、スペイン国王フェリペ二世(Felipe II )の勅令(Real Cédula)により、ペルー副王領の組織として、1559年9月4日に設立されました。

 チャルカス・アウディエンシアの権限が及ぶ地理的範囲は、スペイン王室が行った配分に従い、時代により変化しました。

 当初は、チャルカス郡(Provincia de Charcas)のみに限定されたものでした。これは、1561年5月20日、ペルー副王コンデ・デ・ニエバス(Provincia de Charcas)が行った郡とアウディエンシアの領域に関する宣言に基づくものでした。:ラプラタは四方に100レグア(419Km)以上の領域を持つ”。(1レグア=4.19Km, 100レグア=419Km)

 1563年8月29日、フェリペ二世は、チャルカス・アウディエンシアが管轄する範囲を大幅に拡大しました。この時に拡大されたのは、トゥクマン総督領(la Gobernación del Tucumán)、フリエス総督領(Gobernación del Juríes)、ディアギタス総督領(Gobernación del Diaguitas)、サンタ・クルス・デ・ラ・シエラ総督領(la Gobernación de Santa Cruz de la Sierra。これは、Gobernaciones de Andrés Manso、Gobernaciones de Ñuflo de Chavesを総合したもの)、モクソス郡(Provincia de Moxos)、チュンチョス郡(Provincia de y Chunchos)、さらには、クスコ市に至るまでの土地も領域に含まれていました(従属管轄区)。

 このようにして、裁判管轄権の範囲は、北はprovincias de SayabambaおよびCarabaya、西はアタカマ砂漠から太平洋まで、東はモクソス郡(Moxos)とチュンチョス郡(Chunchos)まで、南はチャコ、トゥクマン、フリエス、ディアギタス(Chaco y Tucumán, Juríes y Diaguitas)の各郡に及ぶ非常に広大なものとなりました。

 さらに、1566年10月1日には、リオ・デ・ラ・プラタとパラグアイの各総督領もチャルカス・アウディエンシタの裁判管轄の範囲に入りました。

 1568年11月30日、チャルカス・アウディエンシアは、「コジャオ(Collao)からラプラタまで」を管轄するという調整が行われ、クスコ市およびその属領はリマ・アウディエンシアの管轄に復帰します。

 このようなチャルカス・アウディエンシアの権限拡大は、リマ・アウディエンシアの権限縮小を意味するものでした。

 1573年5月26日、コジャオ(Collao)について、二つのアウディエンシアの間で所管境界の確定が行われます。

 コジャオはラプラタ市に向かってUrcosuyo 街道ではAyoviri村(エンコミエンダJuan Pancorvo)から始まり、Urcosuyo街道ではOmasuyos街道のAsilo村(エンコミエンダJerónimo de Castilla)から、Arequipa街道では、チャルカス領に向かってAtuncana村(エンコミエンダCarlos Inca)から始まる。

 1680年のインディアス法の法規集、法律Ⅳ(王立ラプラタ・アウディエンシア・公使館、チャルカス郡[la Ley IX (Audiencia y Chancilleria Real de la Plata, Provincia de los Charcas)]、第Ⅱ巻XV編(インディアスの王立アウディエンシア・公使館について)に、このアウディエンシアの機能と職権範囲が規定されました。
(ちなみに、法律XVはリマ・アウディエンシアについて規定しています)

 チャルカスのラ・プラタ・デ・ラ・ヌエバ・トレド市(ラプラタ市の正式名:現スクレのことです)に置かれたアウディエンシアは、(陛下の)長官(vn Presidente)、5名の裁判官(Oidor、聴聞官ともいう)、(陛下の)検察官(vn Fiscal)、裁判所上級執行官(vn Alguazil mayor)、vn Teniente de Gran Chanciller(この訳語が分かりません)、さらに大臣、役人から構成されていました。

1650年のペルー副王領と各地域に置かれたアウディエンシアの管轄範囲


1650年のアウディエンシアの管轄範囲図


チャルカス・アウディエンシアの所管地域の縮小


 1661年12月6日、ブエノス・アイレス・アウディエンシアの設置に伴い、南部の領地(Río de la Plata、Paraguay、Tucumán)が分離されます。しかし、1671年12月31日、このアウディエンシアは廃止となり、密輸取り締まりをさらに強化するため、これらの領土は再びチャルカス・アウディエンシアに帰属することとなります。このチャルカス・アウディエンシア管轄下への復帰は、その管轄下に置かれた南部の統治者にとって、長距離の移動に多大な労力を要することから大変不便なものでした。

 カルロス3世によるボルボン改革の一環として、1776年にリオ・デ・ラ・プラタ副王領が設置され、チャルカス・アウディエンシアが所管していた領域は、この副王領の行政範囲に移管されることになります。

 1783年4月14日、ブエノス・アイレス・アウディエンシアが再度設置され、Río de la Plata、 Paraguay、Tucumánにおけるチャルカス・アウディエンシアの司法権限が移管されます。

 1776年のリオ・デ・ラ・プラタ副王領の設置当時、チャルカス・アウディエンシアは、26の代官領(corregimiento)を所管していました。それらの代官領は、チャルカス郡を構成するスクコ市、ラプラタ市、ラパス市のいずれかに帰属していました。これは、Río de la Plata、Paraguay、Tucumánおよび Santa Cruz de la Sierraの各総督領に属する代官領も同様でした。

 1787年5月3日、スペイン国王の勅令(Real Cédula)により、スクコ・アウディエンシアが設置され、リマとチャルカスのアウディエンシアが所管していた領地の司法権が移管されました。

教会司教区の所管区分について


 次に、教会の管轄範囲を見てみましょう。旧ペルー副王領にある教会は、以下の区分で各司教区を分割管理しました。ご覧のとおり、ラプラタ大司教区(Dependían del arzobispado de La Plata)が広大な地域を所管していたことが分かります。そして、ラプラタ大司教区の大司教座は、世界遺産スクレのメトロポリタン・カテドラルに置かれました。

・スクコ司教区:Lampa, Azángaro y Carabaya の代官領
・ラプラタ大司教区:La Plata-Potosí, Oruro, Parma, Carangas, Chayanta, Cochabamba, Porco, Tarija, Tomina, Yamparaes, Lipes, Atacama, Apolobamba, Pilaya y Paspaya y Pomabamba.の各代官領
・ラパス司教区:: La Paz, Larecaja, Sicasica, Pacajes o Berenguela, Omasuyos, Chucuito y Paucarcolla の各代官領
サンタ・クルス・デ・ラ・シエラ司教区:Mizque代官領

【引用・参考URL、文献】

http://www.esacademic.com/dic.nsf/eswiki/121814
http://sarielalarico.blogspot.com/
HISTORIA DE BOLIVIA, Sexta edición, José de Mesa, Teresa Gisbert, Carlos D. Mesa Gisbert, 2007

アウディエンシアについての補足説明


 上の説明では、結局、「アウディエンシア」って何なの? という疑問が残ると思うので、もう少し詳しく説明します。

 16世紀初頭、スペインのアメリカ大陸植民地の管理は、「インディアス枢機会議」が行っていました。この組織は、もともとは1511年、スペイン国王フェルナンド2世の時代に組織されたカスティーリャ枢機会議がその母体になっていますが、1524年8月、カルロス1世によって国王直属の枢機会議に格上げされ、「インディアス枢機会議(Consejo Real y Supremo de las Indias)」となりました。

 スペイン植民地に設置された「アウディエンシア」は、スペイン本国のインディアス枢機会議や通商院が制定した法令を植民地で施行するインディアス枢機会議所管の組織で、その名前には「王立(Raal)」、その幹部の肩書きには「陛下の(vn)」が付き、スペイン王室の利益を直接代表する組織でした。

 その権限は、司法権の他に、徴税、教会の管理と多岐にわたり、立法権も有していました。これらの権限は副王の権限と重複したため、副王と対立することもありました。

 スペイン王室はこの時代、その財政がたびたび破産の危機を迎えます。そのたびに植民地からの効率的な上納を確保する工夫が行われ、植民地への締め付けが強化されます。

 スペイン王室から見れば、アメリカ大陸の植民地管理の方法は、任命した副王による委託管理と、インディアス枢機会議を通じた王室による直轄管理の二つの方式を同時期に採用していたことになります。

 従って、副王が所管する副王直轄領、総督領、長官領といった副王領内統治のための行政区分とは別に、司法所管区分としてスペイン王室派遣の役人からなるアウディエンシアを通じた管轄区分があり、かつ、副王とアウディエンシアの権限がかなり重複しており、行政・立法は副王、司法はアウディエンシアという単純な区分ではなく、司法・立法・行政の権限が入り乱れた非常にわかりにくい統治構造になっています。副王がアウディエンシアの長官を努めることもありました。

 ネットで検索しても、アウディエンシアの意味が結局よく分からないのは、この複雑な構造のせいではないかと思います。

 当時の統治体制(行政区分)については、過去記事をご覧下さい。

 最初の写真がチャルカス・アウディエンシアのあった建物ですが、実は、手前の建物だけではなく、見えている建物全てがチャルカス・アウディエンシアの建物でした。

 この通りの名前は、「アウディエンシア通り」といい、その通りの中程にチャルカス・アウディエンシアの本部として使われた建物が残っています。現在は、アンディナ・シモン・ボリバル大学(Universidad Andina Simon Bolivar)の校舎として使われています。

スクレにあるチャルカス・アウディエンシアの本部のあった建物(現在は大学の校舎)

 
Charcas_Audiencia05.jpg


 1809年5月25日の「自由の叫び」は、この建物に逮捕監禁されていたスダーニェス博士を救い出すことから始まった反乱でした。

関連地図


 本記事関連市内地図(クリックすると拡大できます)

スクレ市内地図(チャルカス・アウディエンシア関係)

 
追記

 チャルカス・アウディエンシアの正式名称に使われている「Cancillería Real」をどう訳したらよいのか適訳が見つかりません。法律、行政に係るあらゆる書類を起草したり証明したりする組織のようです。
http://es.wikilingue.com/ca/Canciller%C3%ADa_Real

 Cancilleríaという単語には意味がたくさんあり、日本の領事館の西語訳はこの単語を用いています。


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2010年12月20日

スクレの歩き方:スクレの歴史


 世界遺産に登録されている古都スクレのことを知るには、その歴史を知るのが一番です。古い街を散策するとき、その歴史を知っているのと知らないのとでは、受ける印象が全く違ってきます。

 そこで、当地の資料を参考にしながら、スクレの歴史をご紹介することにします。
 スクレの歴史を知るには、まず当時のスペインの植民地管理の状況からおさらいしておきましょう。

 スペインは、新大陸の植民地を統治するにあたり、数名の副王を任命し、それぞれの地域の管理に当たらせました。植民地の拡大によりその区分は変化しますが、18世紀初頭、中南米の植民地は、メキシコとペルーの2つの副王領(virreinato)に分けられ、それぞれに副王が配置されていました。

副王領の成立

 ① ヌエバ・エスパニャ副王領: メキシコシティを首都とし、メキシコ、及び中米、北米、カリブ海とフィリピン諸島のスペイン領を統治(1535年設置)
 ② ペルー副王領: リマを首都として、南米全域を統治(1542年設置)
 ③ ヌエバ・グラナダ副王領: 1717年、ボゴタを首都とする副王領が成立
 ④ リオ・デ・ラプラタ副王領: 1776年、ブエノスアイレスを首都とする副王領が成立

 副王領は、さらにいくつかに区分され、行政と司法を司る行政立法院(聴訴院、聴聞院ともいう):アウディエンシア(Audiencia)が置かれました。

年表

 スクレ関連の年表を作ってみました。

1531年 フランシスコ・ピサロ ペルーに到着、侵略を始める。
1532年 インカ皇帝アタワルパがスペイン人フランシスコ・ピサロ率いるコンキスタドールにより処刑され、インカ帝国は崩壊。
1535年 ペルー副王領が作られる。 
1538年 現スクレが「La Plata」として設立(チュキサカ県の資料では1538年、スクレ市の資料では1540年となっています。)
1540年4月16日に、これまでPorco鉱山に近いValle La Plata(ラ・プラタ渓谷)と呼ばれていた地域が正式にLa Plataと命名された。
1541年 ピサロ暗殺される
1545年 ポトシ銀山発見
1548年 ヌエストラ・セニョーラ・デ・ラ・パス(現ラパス)が建設
1553年 Charcas司教区設立に際し、La Plata市に昇格
1559年 チャルカス(現スクレ)に聴問庁(アウディエンシア)が設置される。
この頃から独立まで現ボリビアの地域は「アルト・ペルー」と呼ばれる。
1559年 東部のチャコ地方にサンタ・クルス・デ・ラ・シエラが建設。
1561年 スペインの領土拡大の一環として、Cédula Realによる100の規則からなる政治的権限が与えられた。
1572年 9月24日、副王トレドがインカ最後の皇帝トゥパク・アマル2世を処刑、インカ帝国滅亡。
1610年 当時のLa Plata市のセンサスによれば、730戸の家屋が確認されている。
     主要建物(二階建て) 68戸
     1階建ての良い家屋  249戸
     San Lázaro教区のスペイン人、メスティソ、インディオの貧困層家屋 217戸
     San Sebastián教区のスペイン人、メスティソ、インディオの貧困層家屋 196戸
     注:San Lázaro教会はスクレで最初に建設された教会です。
 使者として訪れたCarrió de la Vanderaは当時のLa Plataの様子を、「大宮廷を思わせるような多くの大きな家がある。街は良く計画されて造られており、全ての副王領の中で最も美しく、良く整備された街だ」と評している。(注:ペルー副王領 1542年設立)(*1)

1809年 ラパスとチュキサカでクリオーリョによる独立運動が起こる
1824年 南米の解放者シモン・ボリーバルがアヤクチョの戦いでスペイン軍を撃破し、スペイン勢力を一掃

 1825年8月6日、シモン・ボリーバルの協力により、スクレ元帥がアルト・ペルーをスペインから解放。

 同年8月26日、スクレでアルト・ペルー共和国の独立が宣言されボリビア共和国と改名した。


 スクレ市の中心は、1825年8月6日にボリビア独立宣言書に署名し、また、ここを首都と定めると記載した、そして、その名称をAntonio José de Sucre将軍の名にちなんでスクレ市と命名した自由の家のある『5月25日広場(Plaza 25 de mayo)』。スクレ市のシンボルは、常春の気候を象徴したカーネーションです。

チャルカス・アウディエンシアの写真

 どのガイドブックにも載っていない写真をご紹介します。webでスクレ関連のサイトをスペイン語版や英語版でたくさん見ていますが、チャルカス・アウディエンシアの建物をご紹介するのは、このサイトが初めてだと思います。スクレ市役所のガイドブックにも載っていません。

 
Charcas_Audiencia1.jpg


 チャルカス・アウディエンシアについては、別記事で書きたいと思いますので、今日は写真だけアップします。

 かつて南米大陸の半分を管轄し絶大な権力を誇ったチャルカス・アウディエンシアがあった建物です。この建物は現在、個人が所有しており、事務所等に使われています。

4つの名前を持つ都市スクレ

 スクレは、4つの名前を持つ都市として知られています。チャルカス、ラプラタ、チュキサカ、そして、スクレです。これに「白い街」を加えることもあります。いつの時代にその名前で呼ばれていたのかは、以下の通りです。

 チャルカス (Charcas)  (1538年まで)
 ラ・プラタ (La Plata) (1538-1776)
 チュキサカ (Chuquisaca)(1776-1825)
 スクレ   (Sucre)   (1825~  )

 ちなみに、ラ・プラタの正式名は、「Ciudad de la Plata de la Nueva Toledo」と言います。

「Plata」とはスペイン語で「銀」という意味なので、ポトシ銀山を管理するための都市としてこの名がつけられた、という思い込みの記事がありますが、それは間違いです。

 ラ・プラタの名前は1538年につけられました。これは、ポトシ市の南西34Kmにある「ポルコ銀山(Mina de Porco)」にちなんで付けられたもので、この銀山はインカの時代に既に発見されています。スペイン人が知ったのは、1538年、アルトペルーに遠征中のGonzaloとHernando Pizarroによっています。スペイン語wikiのスクレの項目の記事は間違いです。

 ポトシ銀山が発見されるのは、その7年後の1545年のことです。現地のインディオが発見しています。この時には既に「ラ・プラタ」と呼ばれていました。

出典、参考webサイト
http://lamar.colostate.edu/~mvanbure/spanish%20history.htm
http://nushen.blogspot.com/2008/03/blog-post.html、他
*1:スクレ市役所刊行の資料より


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スクレ観光(人):コルネリオ・サアベドラ


 コルネリオ・フダス・タデオ・デ・サアベドラ

(Cornelio Judas Tadeo de Saavedra)(1759-1829, 70歳)

 今日は、コルネリオ・フダス・タデオ・デ・サアベドラについて紹介します。突然、長い名前が出てきましたが、ボリビア出身で、アルゼンチンの最初の大統領、とボリビアでは言われている人物です。回りくどい言い方をしているのには分けがあります。

Cornelio Saavedra


Cornelio Saavedra


 1759年、コルネリオは、ペルー副王領コレヒミエント・ポトシ(ポトシ代官領)のオトゥヨ(Otuyo)村のアシエンダ”La Fombera”で生まれました。この場所はボリビア国に属しています。彼の父はブエノスアイレス生まれのSantiago Felipe de Saavedra y Palma、母はポトシ生まれのTeresa Rodríguez de Güiraldesでした。1767年、コルネリオが8歳の時、一家はブエノスアイレスへ引っ越しました。Colegio Real de San Carlos高等学校 (現在の Colegio Nacional Buenos Aires) に入学し、哲学とラテン語文法を学びました(1773-1776)。しかし、彼は実家の農場の管理を任されていたため、高校を修了することができませんでした。

 1788年4月17日、29歳の時、María Francisca Cabreraと結婚します。1798年8月15日、長姉(ちょうし)が他界します。その前年、彼はブエノスアイレスの市議会(Cabildo)に勤め、様々な役職を経験し、政治家としてのキャリアを積み始めていました。その当時、ブエノスアイレスはラプラタ河副王領の首都になっていました。

 1797年、政治家になる初めての機会が訪れ、市議会の評議員(Regidor)に任命され、1801年、市長に選ばれます。同年、彼は2番目の妻、Doña Saturnina Otárola del Riveroと結婚します。彼女は、市議会評議員で副王領で最も裕福な商人でもあったJosé Antonio Gregorio de Otálora大佐の娘でした。

 軍人としての活動は、イギリスによる最初の侵略のあった1806年から始まり、都市の回復行動に参加しました。

 イギリスの反撃を警戒して、新しい副王Santiago de Liniersは、民兵の大隊を組織するよう命じました。

 民兵組織の中で最も数が多かったのは貴族の軍団で、ブエノスアイレス生まれの歩兵で構成されました。3つの大隊が組織され、各大隊では、大隊長を独自に選出しました。貴族軍団は、サアベドラを大隊長に選出しました。これは、歩兵第1連隊の名で現在まで残っており、貴族の歴史的名声を回復しました。

 翌年の初め、イギリスによる最初の攻撃が行われました。サアベドラは、モンテビデオに軍を進めましたが、時既に遅く、モンテビデオの包囲を防ぐことができませんでした。
 この結果、サクラメント入植地の全ての防衛施設を撤去し、都市の守備強化のためにブエノスアイレスへ運びました。

 しばらくして、イギリスによる第2回目のブエノスアイレス侵攻が始まりました。侵略軍は8,000名の兵士と18門の大砲を持っていましたが、これは、最初の侵略の時の兵士1,565名、大砲6門、迫撃砲2丁をはるかに凌ぐ大規模なものでした。

 Miserere包囲の戦闘における最初の勝利の後、7月5日、ブエノスアイレスに入りました。都市は、抵抗のために準備が整っており、主人も奴隷も女性や子供までもが都市の防衛に参加していました。

 二日後、イギリスのJohn Whitelocke 将軍は、攻撃を停止し、モンテビデオを放棄し、駐留するイギリス軍を撤退させることに同意します。

 占領していたイギリス軍を撤退させた後、ブエノスアイレスの住民同士の関係に変化が見られました。

 それまで、アメリカ大陸で生まれたクリオージョ(criollos)は、政策に係る意思決定や論争から常に排除された存在でした。クリオージョたちによる民兵が組織され、軍の介入なしに勝利を勝ち取ったことで、様々な階層の人たちが存在感を持ち、様々な場面で意見を表明し、現状の改善を嘆願するなど、政府に対して影響力を持つようになりました。

 サアベドラは、そのような状況中で重要人物の一人でした。それは、彼が多くの連隊に対して命令を発することができ、彼のスタンスが、この紛争の調停に決定的な役割を果たすためでした。

 1808年以降、彼はその目標を達成するための道筋を討議するため、”Sociedad de los Siete”の会議に参加しています。サアベドラは、他の革命活動家とは異なり、革命を推し進めるための方策を慎重に計算し、重点化することを強調しました。

 1810年、ブエノス・アイレスでの5月革命に積極的に参加し、革命後の評議会の代表に就任します。これを初代アルゼンチン大統領であると考えるのが、サアベドラの出身国ボリビアの国民です。アルゼンチンでは、1814年に就任した最高執政官Gervasio Antonio de Posadasを最初の大統領としているようです。

引用:Wikipedia スペイン語版、翻訳:Nekoshi


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2010年12月10日

スクレ観光(人):ハイメ・デ・スダーニェス


ハイメ・デ・スダーニェス JAIME DE ZUDAÑEZ  1772 – 1832, 60歳


zudanhez.jpg


 ハイメ・デ・スダーニェスは、スペインからの独立戦争のきっかけとなった「チュキサカの反乱」のリーダーの一人として活躍し、南米独立の英雄として知られています。その後、チリ、アルゼンチン、ウルグアイで軍人、政治家として活躍しました。

 ハイメ・デ・スダーニェスは、1772年7月25日、父 Manuel Ignacio de Zudañez、母 Manuela Ramírez de la Torreの子供として、チュキサカで生まれました。

 1772年7年26日、スダーニェスは、 Nicolás de la Palenque によって洗礼を受け、1789年5月25日、教会法規により学士の資格(Bachiller en Cánones)を与えられます。1791年11月21日、「神聖なる神学(Sagrada Teología」」で博士の称号を与えられます。1792年12月13日、法学博士、1795年には教理博士(Cánones)、同年、領土巡察官判事(Juez visitador de tierras)に任命されています。

 1809年、市民扇動の罪で逮捕されます。

 5月25日の最初の暴動は、貧者の保護者として活動していたスダーニェスを牢獄から解放するために起こりました。しかし、次の日には暴動がますます激化し、チュキサカ長官Ramón García de León y Pizarroの辞任を要求するまでに発展しました。これが後にスペインによる植民地からの独立戦争の発端となる「チュキサカの反乱(Revolución de Chuquisaca)」と呼ばれることになります。

 スダーニェスは、代表委員会(Junta de Gobierno)を組織しようとしますが、大多数の住民は、革命ではなく妥協策を好み、新しい統治機関に王立アウディエンシアを指名しました。

 このようにして、ペルー副王の直接支配を受けずに地域の統治体制を従来と同様に維持することとなります。また、アルト・ペルーの他の地域に代表団を派遣しました。具体的な成果はラパスに派遣した代表団がもたらしたものに過ぎませんでしたが、この成果は、予想以上のものでした。ラパスでは、社会民主化に対する強い目的意識の下に反乱が起こり、Tuitiva代表委員会(Junta Tuitiva)が統治するに至ります。

 チュキサカの反乱は、その目標が政治的なものでしかなかったことから、政権確保に失敗し、ブエノス・アイレスから派遣されたVicente Nieto将軍率いる軍隊に簡単に敗北することになります。

 スダーニェスは逮捕され、彼は海路、以前拘留中に数ヶ月過ごしたことのあるリマの港エル・カヤオに移送されます。

 ラパスの新しい支配者Goyeneche は、スダーニェスを縛り首にしようと考えていました。スダーニェスがスクレからラパスを経由してリマまで陸路で移送された場合には、それが実行されるところでしたが、ラパスを通らない海路で移送たれたことでスダーニェスの命がつながりました。

 1811年、副王José Fernando de Abascal はスダーニェスの釈放を命じますが、その理由は未だ分かっていません。

参考・引用:wikipediaスペイン語版

スクレ市内の史跡


 警察署前広場が「スダーニェス公園(Parque de Zudañez)」と呼ばれ、そこにはスダーニェスの彫像があります。小さな細長い公園ですが、背の高いヤシの木が茂る美しい公園です。

スダーニェスの彫像


写真の追加 2010.12.23

 
 スダーニェスの彫像が5月25日広場にできました。先日、除幕式があったようです。

スダーニェスの彫像 5月25日広場


スダーニェスの彫像 5月25日広場



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