2010年10月24日

世界遺産スクレ:軍事歴史博物館


  軍事歴史博物館(MUSEO HISTORICO MILITAR)は、スクレの中央市場の直ぐ近くにあります。スクレで最も古い教会の一つであるサン・フランシスコ教会の隣に位置しています。

 元々は、サン・フランシスコ修道院として使われていた建物を改修して、軍事歴史博物館にしました。

 入場料は10Bs.。この他、写真を撮影するのであれば、さらに 5Bs.。

 この博物館には、太平洋戦争とチャコ戦争で使われた武器や装備が展示されています。太平洋戦争といっても、日米の戦争とは別のものです。このような博物館は歴史を知らないとつまらないのですが、歴史を知っていると結構楽しめます。

 そこで、簡単に歴史のおさらいをしましょう。

歴史おさらいコーナー


 ボリビアは、1825年にスペインから独立します。この頃のスペインは国力が衰え、アメリカ大陸のスペイン植民地は、イギリス、オランダ、フランスなどの侵略に脅かされていました。

 南米の最初の独立への動きは、1809年、スクレで発生した「自由への叫び」といわれる反乱がその端緒になったとされていますが、なにしろ、この当時、スペイン本国はナポレオンにより侵略されていました(スペイン独立戦争(1808年-1814年))。
 この機に乗じて、アメリカ大陸のスペイン植民地は次々と独立を宣言していきます。

1811年8月 パラグアイがスペインから独立を宣言
1816年7月 ラプラタ連合(アルゼンチンおよびその近傍)がスペインから独立を宣言
1818年   チリがスペインから独立
1819年12月 ボリバル、コロンビア共和国 (大コロンビア)を宣言
1821年2月 メキシコがスペインから独立宣言
1821年6月 ベネズエラがスペインから独立
1821年6月 ペルーがスペインからほぼ独立
1821年9月 中米グアテマラのスペイン総督府が独立を宣言
1822年5月 エクアドルがスペインから独立
1822年9月 ブラジルがポルトガルから独立を宣言
1825年8月 ボリビアがスペインから独立
1828年   ウルグアイの独立が承認される。

太平洋戦争(Guerra del Pacífico):1879-1884


 太平洋戦争は、1879年から1884年にかけて、ボリビア共和国・ペルー共和国同盟とチリ共和国の間で行われた戦争です。この戦争は複雑でよく分からないのですが、単純に見れば、火薬の原料となる硝石がらみの権益争いのようです。この戦いで、ボリビアは海岸に接する領土を失い、内陸国となりました。

チャコ戦争(Guerra del Chaco):1932-38


 チャコ戦争とは、1932年から1938年にかけてボリビアとパラグアイの間で行なわれた戦争です。南米のスペイン旧植民地が独立した頃は、国境線が確定しておらず、この確定のための戦争が国境を接するほとんど全ての国との間で行われました。国境の確定には、「戦争」という手段が採られるのが当時の常識でした(現代も同じですが)。国境紛争は、利権が絡んだ時に発生します。

 ボリビアとパラグアイ両国の未確定国境地帯であった広大なグラン・チャコに石油が埋蔵されている可能性があるという調査結果を受けて、ボリビアがこの戦争を仕掛けました。しかし、この戦争は『代理戦争』と呼ばれています。グラン・チャコの石油掘削権取得を狙った米国企業等の策謀によるもののようです。当時のボリビア政府はスタンダード・オイル社と、パラグアイ政府はロイヤル・ダッチ・シェル社と結びついており、これらの石油メジャーが戦争に大きく荷担したと言われています。

 この戦いでは、ボリビア側が兵員数、装備の面から有利と考えられていました。しかし、自然条件の厳しいチャコに侵攻したボリビア軍は、装備の貧弱なパラグアイ軍に惨敗します。もろんパラグアイ側の被害も甚大でした。この戦いにおけるボリビア兵士の捕虜は諸説がありますが、2万人から20万人。パラグアイ政府には捕虜を養うだけの余力が無く、この捕虜の多くはパラグアイの食糧難から殺害されたと言われています。もともと人口の少ない両国にとって、この戦争による戦死者の数の多さは、その後の国の発展にも大きな影響を及ぼしました。

 私の知り合い(ボリビア人)に聞くと、おじいさんがこの戦いで戦死したという人が結構います。このような話を聞くと「捕虜20万人殺害」というのもあり得るのではないかと思いますが、現実には、そんなはずがありません。それだけの兵士をどこで殺害して、遺体をどこに埋めたのでしょうか。単なる数字遊びの世界です。ただ、ボリビア側の戦死者の数は、公表よりはるかに多かったのではないかと思います。

 この戦いについては過去記事をご覧下さい。
 博物館の内部をご案内します。

【1階】

 1階は広い中庭に、大砲を中心とした兵器が陳列されています。

【2階】
 戦争で使われた装備が陳列されています。


写真集


 中央市場に面したサン・フランシスコ教会。毎週末に結婚式が行われています。

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 サン・フランシスコ教会に接する軍事歴史博物館の入り口
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  軍事歴史博物館の入り口には、ボリビアの解放者スクレ将軍の銅像が出迎えてくれます。左側奧の兵隊さんに、「博物館に来たの。じゃあ、奧に行って」と言われました。

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 奥に進むと広い中庭があります。「あれ? 飛行機が!」

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 中庭は、ほとんどが前述の2つの戦争で使われた大砲が占めています。 

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 口径○○mm砲、という説明を受けますが、さっぱり分かりません。
 これを見て感じたのは、スペイン侵略当時の大砲とは異なり、意外に小さな大砲だということです。砲身の鋳造技術が向上したのでしょう。大砲のほとんどがドイツ製とイギリス製でした。

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 中庭に飛行機発見! この飛行機は、空軍の練習機だそうです。ブラジル製です。ここにあるということは、墜落しなかったようです。

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 車輪がゴム製のものは、修復の段階で造り替えたものです。オリジナルは木製おるいは鉄製でした。

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 案内をしてくれた兵隊さん。ガイドとしては、?マークが付きますが・・・。
 ご覧の通り、私以外は誰も観光客がいません。何しろ、入り口には軍事歴史博物館の看板はなく、軍の施設となっているので、よほど観光ガイドを読んでいる人でないとここまでは来ないようです。

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 ここから二階です。
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 タイプライターと、中央が計算機。

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 この計算機は初めて見ました。これから「タイガー計算機」、そして電卓へと進化していったのでしょう。見かけは「タイガー計算機」より洒落ています。

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 この骸骨のようなタイプライタも初めて見ました。欲しいです。

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 暗号送信機です。たぶんドイツ製。エニグマ暗号機を開発したドイツですから。

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 コピー機(?)です。実際は、輪転機のようです。デザインが洗練されています。

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 これは、??? 忘れました(汗)。 何でしょう? 輪転機の一部のようです。

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 砲弾輸送用のコンテナです。そう言われれば分かりますが、見ただけではさっぱり分かりません。これは初めて見ました。

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 迫撃砲弾です。これも言われて初めて分かります。そういえば「羽がある!」。普通の砲弾とは違います。

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 これ、何でか分かりますか? リュックサックです、・・ではなく、無線機用の背負い袋です。

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 これもなんだか分かりますか?
 測距儀です。これで距離を計測します。

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 ところが、です。この器具は、潜望鏡のようにもなります。こうなると、どうやって測定するのかさっぱり分かりません。何しろ角度を示す目盛りがないし、・・、どうやって使うのか私には理解できません。これ、欲しいです! 

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 何という楽器かは知りませんが、この痛みようは、・・・。どうすればこんなになるのでしょうか?  と思ったら、ここは軍事歴史博物館でした。軍隊の突進に使ったのかも知れません。

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 無線電話機です。チャコ戦争で使われたものだそうです。さすがはドイツです。チャコ戦争の外国人軍事顧問はドイツ人でした。

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 え~っ。携帯電話! これもチャコ戦争で使われたものだそうです。「いつの時代だよ!」と思いたくなるような機器ですが、・・・。

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 無線機の交換機です。

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 二階の展示室。

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 ボリビア軍の制服です。色別に出身地域を示しています。スクレ駐屯部隊は黄色です。

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 チャコ戦争で使われた小銃です。

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 チャコ戦争の時の軍服です。とても厚手の生地でできています。とてつもなく暑いチャコで、ボリビア兵はこの軍服には苦労したと思います。

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 機関銃です。チャコ戦争で使われました。ところが、この機関銃は水冷式。連射により砲身が熱くなるのを水で冷やす方式なのですが、チャコには「水がない!」。そこで兵士たちは注水タンクにオシッコを入れて砲身を冷やしたそうです。兵隊さんの手の位置が注水口です。

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 映画でよく見る機関銃の弾。実物を初めて見ました! ちょっと感動!

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 チャコ戦争で使われた水筒。手前の小さい方がパラグアイ軍のものです。

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 奧の小さい固まりが手榴弾。中央が煙爆弾、手前がガス弾です。

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 さて、この記事の締めくくりは、絵画で。

 スペインからの独立運動の中で発生した1816年のフンバテの戦い(Batalla de Junbate)で、スペイン人兵士の心臓を食べたというタラブコ族(これについては過去記事で詳しく説明しています)。

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 ボリーバルとスクレとの接見

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 そして、スクレの死。 スクレは暗殺されました。

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 都合により、しばらくの間、ブログの更新はお休みします。


追記:都市伝説


 この博物館に隣接するサンフランシスコ教会の向かいに広場(Plaza Santa Cruz)があります。そこは昔、墓地として使われていたのだそうです。これにはびっくり。なぜなら、そこは中央広場(Plaza 25 de Mayo)から1ブロックの所に位置しているからです。

 スクレの町は当初はとても小さく、人口が増えるにつれて拡張していったのですが、墓地の位置が、あまりにも中心部に近いのには驚きました。

 先日の記事でご紹介した知人の家は、中央広場から4ブロックですが、そこからも人骨が出土しています。墓地を町外れに造ったというよりも、町に隣接した、ごく近くに造ったという感じです。

 そうすると、当然のごとく、都市伝説が生まれます。古い都市には、幽霊の話や怪奇な話がたくさんあります。残念なことに、スクレについては、それをまとめた書物が見あたりません。ポトシにたたくさんあるそうです。

 そのうち、ご紹介できればと思います。


 
posted by ネコ師 at 16:41| Comment(0) | スクレの博物館 | 更新情報をチェックする

2010年02月21日

世界遺産「スクレ」のラ・グロリエタ城が公開されています


 スクレの重要な観光名所の一つが、プリンスとプリンセスのお城『ラ・グロリエタ城(Castillo de la Glorieta)』。実は、このお城、ポトシまでの街道沿いにあり、ポトシ方面からスクレに戻る時、このお城が見えると、「もうじきスクレだ」と知ることができるランドマーク的存在なのですが、修復のため閉鎖されており、内部は長いこと見ることができない状態でした。

 ところが、この修復作業も昨年末頃に終了し、現在は内部を見ることができます。世界遺産スクレを訪れる人にとって朗報だと思います。

 先日の記事で、このお城の歴史的背景を書きましたので、まだお読みでない方はご覧ください。
 今日、ついに『ラ・グロリエタ城』に行ってきましたので、その様子をご紹介します。

行き方

 スクレ市内でタクシーをつかまえて値段の交渉をします。「『ラ・グロリエタ城までの往復+待ち時間1時間でいくら?」。運転手の回答は50Bs.(約650円)。この値段は妥当なものです。以前、別の運転手二人に同じ質問をしましたが、皆、50Bs.と言っていました。交渉成立です。

(注:お城の中のツアーの時間帯があるため、タクシーの待ち時間は1時間半にした方が良いです。)

 タクシーに乗り込み、お城まで行きます。時間を計ったら12分で着きました。近い! 50Bs.は値切る価値がありそうです。まあ、私はやりませんが。

 『ラ・グロリエタ城』のある地区一帯は、現在、ボリビアの軍隊の学校になっており、お城近くの検問所では、軍隊が検問しています。といっても、ただの守衛的な感じですが。

下の画像はGoogle Earthの地図です。

Google Earth用座標


 19° 5'4.94"S 65°16'6.66"W

 ポトシはスクレの西に位置しますが、ポトシへの道路は、スクレの南側から出ます。
 やはりかなりスクレ市内に近いです。クリックすると大きく表示できます。

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お城の見学

 ゲートを通り抜けるとお城が間近に見えてきます。
 入口付近に別の守衛所がありますが、そこは挨拶するだけでスルー。

 お城の入口の門の所に、料金表が貼ってあります。
   ボリビア人 5Bs.
   外国人 10Bs
   カメラ 10Bs

<開館時間>
   月   13:00-17:00
   火~金  8:30-17:00
   土、日  9:00-16:30

  開館時間は、夏と冬とでは違うと思います。ご注意を。

  門を抜け、お城の玄関まで行きます。玄関から中に入ると、受付があり、そこで見学料+カメラ代、計20Bs.を支払います。

 ガイドが付いたツアーの開始時間まで、庭の方を見てきたらよいと言われ、その通りにすることにします。25分後ということなので、タクシーの待ち時間が少し気になります。

 庭に出て見ると、楽しそうな庭ですが、もう少し手入れをした方がよいと感じました。建設当時の面影が残っている程度で、庭としてはあまり整備されていない感じです。

 時間が来たので、再び玄関にもどり、お城の内部見学ツアーに参加します。

 最初に、玄関から見て右手に「居間」があり、その奥が「礼拝堂」になっています。
 玄関から見て左手が食堂、その奥が台所。あとは二階に登ります。

 「礼拝堂」でガイドが説明している内容は、前回の記事で書いている内容と同じものでした。プリンスが24才、プリンセスが17才の時に二人は結婚したと言っていました。

 最初、プリンスとかプリンセスとか書かれているので奇異な感じがしたのですが、この称号の使用は正式にローマ教皇から認められたものであることを知って、興味が湧きました。詳しくは『過去記事』をご覧ください。

 ガイドは丁寧に説明してくれてうれしいのですが、タクシーの待ち時間が気になります。

 お城の内部は、今回の修復作業できれいに整備されています。壁も塗り立てです。当時の壁はというと、二階に登る階段の途中で、アクリル板で保護された壁を見ることができます。プリンセスの肖像(当時の子どもたちの落書きかも)が残っています。元の壁面の状態を見ると、やはり相当古いものであることが分かります。

 二階から、塔に登ることができます。「塔」があれば、やはり登れないとつまらない。
 ツアー客の子どもたちは元気に登っていきますが、大人たちはフーフー言いながら登っていきます。

 塔からの見晴らしは良く、あたりを一望できます。
 このお城には塔が3つあり、登っているのは「プリンスの塔」。他に「プリンセスの塔」と時計台の「礼拝堂の塔」があります。

 ここで、ネコ師はタクシーと約束した時間になったので帰ることにします。ここまでですでに1時間。

 いつでも来れるので、続きは今度来たときに見ることにしました。
 なんとも淡泊なネコ師です(笑)。

 では、20枚の写真でご紹介します。
 今回はサムネイル版で表示しますので、クリックすると少し大きく表示できます。

 検問所を抜けると、お城が間近に見えてきます。

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 おとぎの国のお城と言われるには、やはりタマネギ型の屋根を持つ塔が必要です。青い屋根が周囲の景色に良くマッチしていて素敵です。

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 お城の門のところまでやってきました。この門に料金表と開館時間が貼り付けてあります。

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 お城の玄関前に置かれたフランシスコ・アルガンドナャ・レビリャ王子の像です。プリンセスの像はなく、肖像画もありません。
 この彫像のデザインで、プリンスがなぜ子どもたちと一緒にいるのかも過去記事を読むと分かりますねぇ。

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 お城の玄関部分。逆方向からの撮影です。

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 庭に出て見ました。池、東屋などがあり、当時の面影が残っています。

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 これが前回の記事で書いた「ローマ神話の女神ベスタ(Vesta)の神殿」だと思います。最初、地形をうまく利用したのかと思ったのですが、よく考えたらそんなはずがない。これは完全に盛り土したものです。造園師の描いた図面を見てみたいものです。

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 庭全体が水、池、湖を意識して作られているのだと思います。
 下の写真のようなボートがあります。

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 このボートのある場所は一段低い場所なので、当時は、ボートの周りには水が張られ、湖面に浮かぶボートという状態だったと思います。
 丁度、ボートの基礎部分まで水で覆われていたと思います。

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 時間になりましたので、いよいよお城の内部見学ツアーに参加します。この塔は、「プリンセスの塔」と呼ばれています。正面玄関は、この塔の角を左折します。

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 ツアーの開始です。ガイドの後について、お城の中を探索します。
 居間の天井です。何造りの建築か忘れましたが、なかなか豪華です。

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 天井を支える像の左手が皆、「輪」の形を作っています。この部分に旗竿を差し込んで、豪華に飾っていたのだと思います。

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 礼拝堂です。この上が塔になっています。

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 食堂です。テーブルは、オリジナルではなく、当時のデザインのものが寄贈されたそうです。天井は居間とは違ったデザインになっています。

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 二階から「プリンスの塔」を見上げます。

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 「プリンスの塔」の展望台から見た「プリンセスの塔」。プリンスの塔は、頂上部分に展望台があり、外周を一周できます。

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 礼拝堂の塔。その奥がガレージ。時代により使い方が違ったようですが、物置や馬小屋として使われていたとか。

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 ネコ師は時間切れで、一人帰ることにしました。
 ヨーロッパの石造りのお城は冷たい印象を受けますが、このお城は、暖かい印象を受けました。

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 ガイドの説明では、このお城は1910年まで城主が住んでいたそうです。プリンスが亡くなったのがこの年ですから、プリンセスは、亡くなる1933年までの間、このお城を離れスクレ市内で過ごしたのではないかと思いました。

 ポトシ街道から撮影したものです。おとぎの国のお城という感じがします。

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posted by ネコ師 at 13:25| Comment(0) | スクレの博物館 | 更新情報をチェックする

2010年02月18日

世界遺産スクレのラ・グロリエタ城


 スクレの見所は、世界遺産に登録されている市内や恐竜の足跡だけではありません。
 スクレ市内から車で15分くらいの所に、『お城』があります。それも、ディズニーワールドから持ってきたような、尖塔とヒョウタン屋根のあるロマンチックなお城です。

 いつも通りかかるので、そのうち行こうと思うのですが、なかなか行けません。
 まず、お城の由来を勉強しないと、現地で説明を聞いても単語力がついていかないので、何を言っているのか分からずじまいになります。歴史的な史跡を訪れるには、下準備が必要です。と言うわけで、まだ行っていない『ラ・グロリエタ城』ですが、由来を調べてみました。この解説をしているwebサイトは、日本語では一つもありません。「お城があります~」、「写真を取りました~」、という記事だけです。この様子を見ると旅行ガイドにも書かれていないのかも知れませんね。

 以下に、ネットで調べた由来を掲載します。原典はすべてスペイン語です。ネコ師の翻訳なのでいい加減なのをご承知の上お読みください。

 道路からしか見たことのない未訪問の『お城』がものすごく魅力的なものに思えてきました。スクレに戻ったら、今週末にでも行ってみたいと思います(ネコ師は今、歯科治療のためサンタ・クルスにいます)。
ラ・グロリエタ城

 この公国(El principado)は、ボリビアの首都スクレ市内から5Kmのところにあり、ポトシへの街道の途中にあります。『ラ・グロリエタの宮城』には、かつてラ・グロリエタのプリンスが住んでいました。

 『ラ・グロリエタ公国』の呼称は、1898年12月29日、ローマ教皇レオン13世によってフランシスコ・アルガンドナャ・レビリャ王子とクロティルデ・ウリオステ・ベラスコ王女のために下賜されました。

 ラ・グロリエタは、花に包まれた絵のような素敵な場所で、茂みや岩の間から突然、一連の尖塔とおおとぎ話を連想させるファンタジックなお城が出現します。この城はボリビアで最も美しい城であり、1970年に国宝に指定されました。ラ・グロリエタは、歴史の場所であり、ファンタジアに満ちています。このお城の幽霊については、いくつもの言い伝えがあります。
[出典:Wikipedia 西語版 http://es.wikipedia.org/wiki/Clotilde_Urioste_de_Argando%C3%B1a、日本語訳:ネコ師]

プリンセス "Clotilde Urioste Velasco" はどんな人?

 グロリエタ城は、フランシスコ・アルガンドニャ・レビリャ王子(Francisco Argandoña Revilla)とクロティルデ・ウリオステ・ベラスコ(Clotilde Urioste Velasco)王女の居城でした。

 フランシスコは、1850年にウアンチャカ鉱山と関係する元鉱山主の家族の子どもとして、ポトシで生まれました。

 一方、クロティルデは、1857年に、スクレの名門の家に8人兄弟の3番目として生まれました。彼女が18歳で、彼は25歳の時、二人は結婚しました。二人の間には子供ができなかったことから、王女は、母親としての愛情を最愛の人形のように孤児に注ぎました。このお城は、イタリア系アルゼンチン人の建築家ドミンゴ・アントニオ(Domingo Antonio)が建築しました。これは、国宝となり、国力、富を世界に示しました。そして、この夫婦の善行は、ローマ教皇レオ13世(在位:1878年2月20日-1903年7月20日)に知られるところとなりました。

 お城の庭は、イタリア人庭師マルティネリとトネリによって、ベルサイユ宮殿の庭園をモデルに造園されました。そこには、人造湖、噴水、苗畑、ちいさな養鶏場、ローマ神話の女神ベスタ(Vesta)の神殿、瞑想のための建物などが含まれます。そこは、おとぎ話から引き出したような素晴らしい場所です。世界遺産スクレの観光で、見逃してはならない場所のひとつです。
この王女様は、 1933年に亡くなっています。
原典:http://www.viajeros.com/diarios/sucre/castillo-de-la-glorieta
翻訳:ネコ師

プリンス "Francisco Argandoña Revilla" はどんな人?


 ラ・グロリエタのプリンス、Francisco Argandoña Revilla候は、前述したように、1850年、ウアンチャカ鉱山と関係する元鉱山主の子どもとして、ポトシで生まれました。チリのValparaにある「マッカイ大学」で鉱物学を勉強します、ボリビアに戻り、Huanchaca鉱山会社で働き始めました。その後、200,000ペソの株券を取得し、1868年にスクレに住み着きました。ここで、幅広い社会貢献や慈善活動を行いました。

 1874年に、Clotilde Urioste嬢と婚約します。1878年に、Huanchaca鉱山が全盛期を迎え、フランシスコとクロティルドは銀を抽出する事業を始めました。1879年に、ボリビア政府に対して貸し付けを行い、これにより、ボリビア政府は太平洋戦争(注)の戦費を賄うことができました。
(注)Guerra del Pacífico)は、1879年から1884年にかけて、ボリビア・ペルーとチリとの間で行われた戦争。

<駐フランス、駐スペイン特命全権大使>

 1890年、フランシスコ・アルガンドニャは、膨大な資金を貯蓄しており、鉱山以外のものに投資したいと考えていました。そこで、金融取引の専門家であった義兄弟のClodoveo Urioste Velascoに相談したところ、最も良い商売は銀行だとの助言を受け、銀行を設立しました。

 1892年に、「フランシスコ・アルガンドニャ銀行」が、1890年および1891年の法律に基づき、商業貸付銀行として開業しました。フランシスコ・アルガンドニャの資金を銀行業に投資するのにこの時期の条件として重要なことは、彼の銀行に対して、20年間(1892年-1912年)の有利な条件が与えられたことでした。

 1894年、アルガンドニャとウリオステの生活は、外交官の生活として始まりました。フランシスコ・アルガンドニャは、チリのサンチアゴにある「el Palacio de la Moneda」におけるボリビアの通商代表に任命されました。まもなく、ボリビア政府は、フランシスコ・アルガンドニャをla Santa Sede 及び las Cortes de Europa臨時特命全権大使に任命しました。.

 この名誉を受け、夫婦は、パリに居を構え、凱旋門の隣のビクトル・ユーゴー通りに高額な不動産を購入しました。また、ローマ、サンクトペテルブルク、ベルリン、マドリードの裁判所でボリビアを紹介し、重要な外交活動を行ないました。その中で、ボリビアの歴史、地理、ボリビアの習慣に関する紹介を行い、外交の世界でも広くボリビアの存在を知らしめました。

 1910年8月7日、短かく患った後、この世を去りました。
[出典:Wikipedia 西語版 http://es.wikipedia.org/wiki/Clotilde_Urioste_de_Argando%C3%B1a、日本語訳:ネコ師]

 今日は、事前の資料調査のため、次回、写真をアップします。
 世界遺産スクレは、奥が深いです。幽霊の話ってなんなんでしょうね。興味津々です。
 二人のお墓は、スクレ共同墓地にあります。関連記事で紹介しています。
 プリンセスの肖像画は、チャルカス博物館にあります。すごい美人です。連記事で紹介しています。

 記事の無断転用は禁止です。

posted by ネコ師 at 11:57| Comment(0) | スクレの博物館 | 更新情報をチェックする

2009年10月31日

博物館の夜


 今日、10月30日(金)は、「博物館の夜」です。
 スクレ中の博物館が、夜6時から明日の朝6時まで無料で開館します。ちなみに、日曜日は「死者の日」、月曜日は「聖人の日」で祝日です。

 物見うさんに、ネコ師は早速、夜の街に見物に出かけてきました。

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 今、何時だと思いますか。深夜零時です。
 でも、博物館の周りには長蛇の列が!
 でも、こんなところに博物館なんてあったっけ?
 
 列を作って博物館への入場を待っている人の数は、100人以上います。

Museo de Noche


 私はプラザをはさんで向かい側にある「自由の家」に行ってきました。ここは1809年にボリビアが独立するとき、独立宣言を起草した時の建物で、今は博物館として公開されています。ここも長蛇の列。

 一応中に入りましたが、今日の目的は、「見物人」を「見物」することにあるため、さっさとホテルに戻りました。

Museo de Noche


Museo de Noche


Museo de Noche


Museo de Noche


 お祭り好きのボリビア人は、バンドが大きな音を奏でながら、今日もパレードをしていました。以前ご紹介したパレードの続きのような感じです。ただ、衣装は普段着のような感じなので、写真はありません。

 すべての博物館を夜中に開館するというセンスは、なかなか理解できませんが、市民は年中行事の一環として楽しんでいるようです。

 グアダルーペのパレードの時には気づかなかったのですが、今回は、軍警察(PM。英語だとMPです)が相当の数配置されていました。警官の数は、ボリビア全体でも7,000人しかいないそうです。あまりの少なさに驚いたのですが、それを補う形で軍警察が配置されることもあるようです。

 ボリビアの中では、圧倒的に治安の良いスクレですが、やはり夜は危ないので、ホテルに閉じこもって、ブログを書いています。

 以前、スクレでも観光客を狙った白タクによる連続殺人事件があり、観光収入の減少を懸念した市当局は、通常の警察の他に、観光警察を設立しました。どれだけ効果があるのか知りませんが、・・・、少しは機能しているのではないかと思います。

 殺人事件はそれほど無いのですが、私がこちらに来てから起こった事件としては、以前ご紹介したラ・レコレタ修道院のある展望台で学生が殺害されたのと、先日、二人の女子大生がボコボコに殴られ殺害された事件があります。学生の街、スクレならではの事件かもしれません。

【追記です】

 この「博物館の夜」の日だけ、ラ・レコレタ修道院の秘密の地下道に入ることができるのだそうです。早く聞いていれば絶対入ったのに! 残念です。でも、次回は必ず入りたいと思います。


posted by ネコ師 at 15:50| Comment(3) | スクレの博物館 | 更新情報をチェックする

2009年10月23日

スクレの歩き方:アルフレッド・グティエレス・バレンスエラ博物館


 スクレの博物館などをぼちぼち紹介します。

 スクレ市内の記事がほとんど無い理由は、いつでも書けるという気持ちと、体系的にご紹介したい、という二つの理由があります。

 今日ご紹介するアルフレッド・グティエレス・バレンスエラ博物館は、最近開館した新しい博物館です(とホテルの受付嬢は言っていました。違っていても私の責任ではありません(笑))。場所は、Plaza 25 de Mayoというスクレのど真ん中にあるプラザに面しています。

 この博物館の開館時間は、まるで私の訪問を拒絶するかのように、ウィークデーの勤務時間内しか開館していません。だから、私にとって「開かずの博物館」でした。たまたま、通りかかったら開いていたので、中に入ってみました。

映画のセットのような博物館

 まずは、写真から。
 これは、私の部屋です(嘘です)。

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 この映画のセットに出てきそうな雰囲気が好きです。

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 実は、この博物館、何なんだろう? と思います。何の案内書きも説明もありません。実は、元大蔵大臣のDavid Blancoが集めたコロニアル時代の家具を陳列している博物館です、とプレートに書いてあります。

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アルフレッド・グティエレス・バレンスエラって誰?


 ところで、博物館に名前を冠しているアルフレッド・グティエレス・バレンスエラって、誰なのでしょう? 何の説明もありません。もしかしたらボリビアでは有名な人で、説明すら不要な人なのかも。織田信長って誰?って、いちいち説明しないのと同じかも。この真相はそのうち調べてみます。
 
・・・・・・・・
 早速、調べてきました。
 アルフレッド・グティエレス・バレンスエラは、チュキサカ県(スクレのある県です)出身で、25年間にわたり在ベルギーボリビア国領事館の総領事をしていた人だそうです。受付のおばさんがそう言っていました。 うぅん。これでは知らないはずだ。独立当時の英雄の一人かと思っていましたが違いました。

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2009年07月22日

スクレのモナステリオ・デ・ラ・レコレタ修道院と展望台


 今日は、前回の記事でもご紹介した展望台です。
 ここは、Mirador de la recoletaと言われ、古都スクレ観光の名所の一つです。
 Miradorとは展望台のことです。Recoletaとはどういう意味かネットで調べたのですが、よく分かりません。辞書には、(瞑想する)修道士とあります。現地の人に聞いたら、Recoletaとは高い場所という意味だと言っていました。そうかなぁ?

 この展望台からは、スクレ市内が一望できます。実際には、前回の記事でご紹介したレストランからの展望の方がきれいに見えます。

 この展望台は、レコレタ修道院 (Monasterio de la Recoleta) の一部らしく、 広場をはさんで反対側にこの修道院があります。
 今度、暇を見つけて訪ねてみたいと思っています。
 ここの一般的な紹介は、ネットのどのページを見てもこんなものです。

下の写真は、展望台に行く途中で見つけた市内地図です。タイルでできています。
タイル製の道案内図


アップ画像です。
タイル製の道案内図アップ画像


途中の街路。ネコ師が活動する時間帯には人があまりいません。でも、実際はたくさん歩いています。
街路


展望台への横道です。観光を意識して、かなり整備されています。
脇道


道ばたの水道です。でも、水は出ません。デザインが気に入りました。
道端の水道


修道院です。展望台側から見て、広場の反対側にあります。
Mirador de la recoleta


展望台に隣接する広場です。
Mirador de la recoleta


スクレ市内の展望
Mirador de la recoleta 2


展望台の・・・廊下です。これを作った人の意図が分かりません。もしかしたら、建設当時はもっと建物群があり、その一部だったのかもしれませんが、今は、この廊下のような部分だけが残っています。
Mirador de la recoleta 3


同上
Mirador de la recoleta 4


ところで、下の写真、どうやって撮影しているか分かりますか。強烈なボリビアの陽光の中にもかかわらず、廊下の天井が明るくくっきり写っています。外の景色も真っ白にならずに写っています。きっと、神のご加護です。実際は、カメラの性能が向上したためです。
Mirador de la recoleta 5


同上
Mirador de la recoleta 6


展望台の下は、カフェテリアになっています。
カフェテリア


ここがカフェテリアの入り口。中はすごく狭いです。
カフェテリア内部


中庭では、欧米人がたくさんくつろいでいました。フランス人が多いみたいです。タラブコの民族衣装をまとった楽団がちょうど来て、演奏を始めたところです。アンデス民謡は心に染みます。
 今、自分がアンデスにいるんだぁ、と感じる瞬間です。
Mirador de la recoleta14.jpg


展望台入り口のお土産屋さん。変わったものは売っておらず、だいたいの人は素通りです。
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 この記事では、少し視点を変えてご紹介します。
 この修道院は、1601年に設立されたフランシスコ修道会の修道院です。修道院には、四角い中庭は数多くあり、バラやゼラニウム等の花が植えられているそうです(次回、内部をご紹介します)。
 スクレにはこの他に、サンタ・テレサ (Convento de Santa Teresa) 、サンタ・クララ (Convento de Santa Clara) 等の修道院があり、特にサンタ・クララ修道院はメルチョル・ペレス・デ・オルギン (Pintor Melchor Pérez de Holguín) という有名な画家の絵が展示されていることで知られています。
 フランシスコ修道会というと「何、それ?、サン・フランシスコなら知っているけど」というのが一般の日本人の感覚ではないでしょうか。ちなみにサン・フランシスコとは聖フランシスコのことです。

 聖フランシスコは、イタリア人で、イタリア読みではフランチェスコ。1206年に神の啓示を受け、その後、フランシスコ修道会を設立し布教活動をしました。この修道会は日本とも関係が深く、支倉常長の慶長遣欧使節団の派遣を実現したのもフランシスコ修道会です。伊達政宗の支援を受け、東北地方の布教に努めました。
 東北地方に隠れキリスタンの遺跡があるのはあまり知られていませんが、フランシスコ修道会の影響が大きかった証だと思います。

 日本のキリスト教普及を考えるなら、もう一つ重要な会派がいます。日本人なら誰でも知っているフランシスコ・ザビエルのイエズス会です。彼はカトリック教会の宣教師であるとともに、イエズス会の創始者の一人でした。このように日本のカトリック教の初期の布教には二つの会派が関係していたということです。学校の歴史では習いませんが。
 ザビエルもフランシスコという名なのでややっこしいですが。

イエズス会とフランシスコ会の違い

項   目イエズス会フランシスコ会
参加者学生商人
海外布教の目的神のことを伝えるボランティア
布教姿勢自立を重視し、厳しい保護と優しさ
何を人々に与えるか学問、教育を与える物品を与える

  Source: http://www.uraken.net/rekishi/rekishi1a.html

 レコレタ修道院が設立される4年前の1597年、キリスト教の信者20名、宣教師6名が長崎で処刑されるという事件が日本で起きました。その多くはフランシスコ修道会の信者や宣教師でした。1587年に秀吉の発したバテレン追放令の中、活動を自粛していたイエズス会に対し、首都部周辺で目立った活動をしていたフランシスコ修道会が逮捕・拘束の標的になったようです。
 下にミニ年表を整理しました。後1年、処刑が延びれば、26名の命はつながっていたかもしれない、という「もし、・・・であったらなら?」が通用しない歴史の厳しい現実を実感します。

ミニ年表

1587年:バテレン追放令
1592年 文禄の役:明の征服と朝鮮の服属を目指して16万の軍勢を朝鮮に出兵。戦況が膠着状態となり、翌年、明との間に講和交渉。
1593年  秀次事件:淀殿が秀頼を出産。秀吉後継者と目されていた秀次との対立が深刻化。1595年、秀次切腹。
1596年 慶長の役:明との間の講和交渉が決裂し、14万人の軍を朝鮮へ再度出兵。
1597年 長崎で、キリスト教信者、宣教師26名処刑(日本二十六聖人)。
1598年 8月18日、秀吉死去。死因不明。

 こうしてみると、この時代、わずか10年の間にいろいろな歴史的事件があったことが分かります。時間が濃縮していた時代だったのではないでしょうか。

 ちなみに、スクレにある南米最古の大学の一つとして数えられるサン・フランシスコ・ハビエル大学は、このフランシスコ・ザビエルの名を冠しています。

(私はキリスト教徒ではないのでこれまでの記述に間違いがあったらごめんなさい)

 日本の歴史と世界の歴史はパラレルに連動しています。
 世界遺産などの史跡を見る場合、歴史を知っていると役立つことは当然ですが、その時代背景や日本との関連を知ることで、より理解が深まるのではないでしょうか。

 今日の記事は、次回の修道院訪問の前振りです。いつになるか分かりませんが。そのうちに。


posted by ネコ師 at 17:41| Comment(3) | スクレの博物館 | 更新情報をチェックする

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