2016年09月19日
和宮の死因の謎が解けた! 死因は脚気ではなくコレラだった?
岩倉使節団とともに米国に渡った5人の女子留学生たち。その中でも吉益亮子に関心があり、いろいろ調べているのですが、遅々として進まずです。
図書館で当時の新聞を調べたのですが、吉益亮子の名前を見つけることはできませんでした。物故者欄などに載るかと思ったのですが、見つからない。
ところで、和宮の死因は、脚気による心不全とされています。でも、ネコ師は、これがどうも引っかかる。亡くなる前には激しい下痢に見舞われていたようです。下痢に伴う極度の脱水症状。そして、心不全。これってコレラの症状と同じです。そう。吉益亮子が亡くなったとされる病気です。
和宮が亡くなったのは明治10年9月2日のこと。この時に日本でコレラは発生していたのでしょうか。
なんと、19年ぶりに大発生していました。まさに、和宮が亡くなった明治10年9月に横浜で発生し、全国に広がったようですが、実は、その前月、8月に明治政府から注意喚起が出されています。
和宮の死因はコレラだった!
そう考えると、和宮の死にまつわる多くの謎が解けるように思います。
・なぜ、和宮の死から葬儀・埋葬までの記録がほとんど皆無なのか
・なぜ、和宮の葬儀に、篤姫はじめおもだった関係者は全て欠席し、代理を立てているのか
・なぜ、和宮の遺体は横を向いているのか
篤姫は、後年、和宮の終焉の地、箱根塔ノ沢の環翠楼を訪れ、涙していますが、彼女は和宮の葬儀に出席していないと言うことを誰も指摘していない! なぜ、出席しなかった? 篤姫だけではありません。本当に、要人はだれも出席していないのです。出席している要人は、役職に就いていて欠席するわけにはいかないという人たちだけ。仮にも江戸城無血開城の立役者である和宮の葬儀には、なにがなんでも出席する。それが当たり前です。それなのに・・・。とても奇妙な和宮の葬儀。
この謎が解けなかったのですが、やっと結論に至りました。
だから、隠す必要があった。
だから、記録がほとんど残されていない!
この謎は、「なんでも保管庫2」『明治時代の新聞報道から皇女和宮薨去の原因を読み解く』に追記していますので、一度読んだ方でもまた読んでみて下さい。
なかなか面白く仕上がっていると思います。
2016年04月27日
いまだに解けない謎:インクをこぼした椅子のシミがきれいになっていた
管理人にとってとても不思議に感じたこと。通常、歳を重ねるにつれ、その不思議は不思議ではなくなるのですが、今に至っても謎が解明できないことがあります。
それは、消えたインク染みの謎。
コスタリカに住んでいたとき、家具付きのアパートに暮らしていました。そこには机と椅子があったのですが、不注意から、椅子の座面にインクをこぼしてしまいました。なぜ、インクを使っていたのか覚えていないのですが、椅子にべったりと直径5cmくらいのインク染みができてしまいました。椅子は布地が貼られていて、染みこんだインクは当然消えません。
その後、一戸建てに引っ越したのですが、引っ越した先も同じ大家さんの持ち物でした。
あるとき、大家さんと一緒に前に住んでいたアパートに入ったとき、問題の椅子を見てびっくり。
インクの染みがまったくないのです。
一緒にいた大家さんに説明して、ここにインクをこぼしたんだけど、どうやって染みを取り除いたのかと聞いてみました。座面を張り替えたのかも聞きました。インク染みが消えるとは思えなかったからです。でも、座面は古いままで、張り替えてはいません。
大家さんの説明では、女中にきれいにしてもらった。座面の張り替えはしていない。どうやってきれいにしたかは分からない、という回答でした。
この大家さんは今でも親しくおつきあいしている方で、適当なことを言う人ではありません。
でも、どうやってインク染みを消したのだろう。これが当時から現在に至るまで解決できない謎です。
女中さんが掃除してきれいにできる程度なので、椅子を解体して座面の布を剥がし・・・、というような大がかりなことはしていないことは間違いありません。座面を剥がして布を洗浄する方法ならいくつか思いつきますが、そのようなことはしていない。
とてもふしぎです。
2016年03月05日
不思議な巨石の動画をアップしました!
以前の記事でご紹介したボリビア、スクレ近郊にあるプレ・インカの遺跡インカ・マチャイ。その直ぐ下にあるとても不思議な巨岩。なんと、この時には、写真だけではなく、動画も撮影していました。
今回、数本の動画と写真をまとめて1本にし、Youtubeにアップしました。
詳しくは、なんでも保管庫の「ボリビアの秘境プレ・インカ遺跡で撮影した不思議な写真と動画」で。
2016年02月13日
明治維新期の女子留学生のお顔を拝見する
明治維新期の明治4年に岩倉使節団と一緒に横浜を旅立ち、米国に留学した5人のうら若き乙女たちがいました。
吉益亮子(17歳)、上田梯子(16歳)、山川捨松(のちの大山捨松、11歳)、永井繁子(のちの瓜生繁子、9歳)、津田梅子(6歳)の5名の少女たちです。
ネット上にある彼女たちの写真はとても画質が悪いため、どんな顔立ちの女の子たちだったのかも分かりません。
そこで、高解像度バージョンで作ってみたのが下の動画です。
Source: Youtube, Nekoshi
開拓使女子留学生の基本資料
氏 名 | 生年月日 | 死亡年月日 | 渡航時年齢 | 享年 |
上田 梯子 | 1855年? | 1939年 | 16 | 84 |
吉益 亮子 | 1854年 | 1886年 | 17 | 32 |
山川捨松(のちの大山捨松) | 1860年3月16日 | 1919年2月18日 | 11 | 59 |
永井繁子(のちの瓜生繁子) | 1862年4月18日 | 1928年11月3日 | 9 | 66 |
津田梅子 | 1864年12月31日 | 1929年8月16日 | 6 | 65 |
この記事に関心のある方は、「なんでも保管庫2(明治維新に渡米した5名の幼き女子留学生の動画を作る)」にもう少し詳しく書きましたので、そちらをご覧ください。
2015年05月09日
最近、皇女和宮の秘密にはまっています
久しぶりの更新です。
更新していない理由はいろいろあるのですが、一つには「皇女和宮」にはまってしまったこと。
ここ2週間は、このことだけに費やしています。
ダン・ブラウンの「ダ・ヴィンチコード」で、「「本書に出てくる芸術作品、建築、資料、謎の儀式がみな正確なものである」と書いていますが、これって、欧米の小説では一般的な書き方で、あくまでも小説として発表しているのであれば、「書いてあることは真実である」と書かれていてもそれは小説の一部として捉えるのが普通です。「本当のことだと書いてあるのに作者の想像なのか!」などというのは、「野暮」というものです。まさに、そんなことを言うのは野暮で田舎者なのです。
これに噛みつく人は別の意図があります。「ダ・ヴィンチコード」が世界的なベストセラーになったことから、柳の下のドジョウを狙った人たちが多くの批判的、あるいは検証的な書籍を出しました。
そもそも、小説として出版しているので、ノンフィクションな筈がありません。
しかし、和宮に関するいくつかの陰謀説を採った小説を読んでいると、これは本当にあったことなのではないかと思えてしまう。
そこで、いろいろ調べているのですが、奥が深くゴールになかなか辿り着けない。
和宮に関わる様々な陰謀説として代表的なものは次の三点でしょう。
1.和宮替え玉説
2.和宮には左手がなかった
3.和宮暗殺
4.家茂の棺から発見された一房の毛髪は、和宮のものではなかった!
調べれば調べるほど不思議な和宮。
「皇女和宮」という響きが良い。英語では、「Imperial Princess Kazunomiya」。単なるプリンセスではないところが、欧米人の注目を浴びているゆえんでしょう。
今、気になっているのが、和宮の葬儀について。
なんと、どこにも記載されていません。篤姫の葬儀の記述はたくさんあるのに、和宮の葬儀についての記述が極端に少ない。というか、ネット上では皆無です。
和宮は、1846年7月3日に生まれ、1877年9月2日に脚気の療養先で訪れていた箱根の塔ノ沢で逝去されています。享年31歳の若さでした。
Wikipediaでも「当初、政府は葬儀を神式で行う予定であったが、和宮の「家茂の側に葬って欲しい」との遺言を尊重する形で、仏式で行われた。」とあっさりしたものです。「葬儀」そのものについては欠片も書かれていない。
ネット上でみられる記述は、これを引用したもの。「葬儀」についてどこにも書かれていない。とても奇妙です。
葬儀はいつ、どこで?
葬儀は誰が執り行った?
どのような葬儀だった?
出席者は誰?
出席者数は?
当時の新聞報道は?
これらのことは、篤姫の葬儀については書かれている情報です。ところが、和宮については何もない。
もちろん、亡くなった箱根の阿弥陀寺で通夜・密葬が、徳川将軍家の菩提寺芝・増上寺で本葬が執り行われたことは知られていますが、管理人の疑問はその詳細。
和宮の死にまつわる状況は、とても奇妙なのです。
「情報がすっぽり抜けている」
これは、意図的に情報を操作した人がいた証なのではないかと思います。
和宮は現在、増上寺の徳川家墓所に埋葬されていますが、埋葬当初は、現在の東京プリンスホテルの場所に埋葬されていました(目と鼻の先ですが)。1950年代に同地が国土計画興業に売却されたため、和宮をはじめ、歴代将軍及びその正側室の墓所と遺骸も発掘・改葬されたそうです。
管理人は、このすぐ近く(徒歩1分くらい)で4年間ほど働いていた時期があるので、土地勘はあります。
1958年に行われた和宮の墓の発掘調査では、和宮の血液型はA型かAB型で、身長は143.4cm、体重34kgであり、骨格の形状から極端な反っ歯と内股が特徴の小柄な女性であったと推定されているそうです。また、(三重のお棺の中から、)左手の手首から先の骨がいくら探しても見つからなかった(Wikipedia)。
Wikipediaの記述には納得がいかない。
この時の発掘調査の写真が公開されていますが、和宮の遺体は足を折り曲げている。まるで、幼女がうたた寝をしているような姿勢だったそうです。これって、おかしいです。
なぜ、そのような状態で埋葬したのか?
先日、管理人の父が亡くなりました。
納棺の際に、遺体に足袋を履かせるのですが、「自分の親の時には、死後硬直により足袋をはかせるのが難しかった」と従兄弟から聞きました。管理人の場合は、お寺の都合で葬儀まで時間があったためか死後硬直が解けていることから、足袋を履かせることは簡単でした。
和宮の遺体が足を曲げた状態で埋葬されたのはなぜでしょうか。
遺体の防腐処理がなかった時代です。正確には、「皇族の防腐処理はしなかった時代」です。死亡・お通夜から埋葬まではかなりの日数が経っています。
埋葬時にはとても腐敗していたと思います。このため、亡くなって、お寺でお通夜したときの姿勢で、そのまま埋葬されたと思われます。強烈な悪臭を放つ遺体を誰も触りたくありません。
うちの愛猫ケタルが死んだとき、わすか2時間後には死臭が漂っていました。
愛猫ドラちゃんが死んだときは、どこで死んだか分からず、一週間後に近くにお宅の庭で腐敗臭によりやっと見つけました。強烈な臭いです。身体が2倍くらいに膨らんでいました。この文を書いていても悲しみがこみ上げます。
明治10年(1877年)8月7日 和宮は脚気の治療のため箱根に行きます。
同年9月2日午後5時頃 死去
9月6日 遺体が帰京(死後4日後)
9月13日 増上寺で本葬儀(死後11日後)
防腐処理には石灰を使ったようで、和宮の墓所の発掘調査では、棺の中に石灰に埋もれるように遺体があったようです。
さて、和宮が亡くなって寺に運ばれたとき、なぜ、遺体の足をまっすぐにして寝かせなかったのでしょうか。
それは、やろうとしてもできなかったからなのではないでしょうか。いわゆる死後硬直です。
死後硬直は解けるのですが、寺の儀式に入ってしまったため、そのままの状態で、だれも触ることができなかったのでしょう。
上で書いたことが、管理人が最初に考えたことです。
皆さん、矛盾を探しましょう。おかしくないですか?
和宮についての調査は継続中です。
実は、外国になら当時の記録があるのではないかと、英語、スペイン語、オランダ語、ポルトガル語で調べてみたのですが、見つかりません。もっと調べるには、外国語の論文検索になります。通常の検索エンジンに出てこない情報を調べることができますが、時間がかかります。
現在、多方面からアプローチしている段階で、まとまり次第、結果は「なんでも保管庫」にアップします。
和宮関連記事
『なんでも保管庫』に以下の6本の和宮関連記事をアップしました。
1.皇女和宮の埋葬のナゾに迫る
この記事で指摘したなぞの解明、最も書きたかった和宮埋葬時の姿勢のナゾの解明を管理人なりに行っています。
2.皇女和宮の写真の真偽を確認する
和宮が写っているといわれている写真の真偽を検証しました。たぶん、記事としては一番面白い内容になっていると思います。
3.明治時代の新聞報道から皇女和宮薨去の原因を読み解く
和宮が亡くなってから埋葬されるまでの情報がほとんど見つからなかったことから、当時の新聞を調べてみました。なぞの解明にあたり、結論を導くことになった重要な記事です。
4.皇女和宮が晩年に住んでいた邸宅の場所は、現在ではどこになるの?
和宮と南部家のナゾを追ううちに、京都から東京に戻った和宮が晩年に住んだ麻布の御邸があった場所が、現在ではどの場所で、土地はどのような形状だったのかを知りたくなったので調べてみました。麻布の和宮邸を現地で確認できます。昔の住所だけでは土地の形状までは分からないので調べてみました。
5.皇女和宮のお顔を3Dにしてみる
和宮とされる写真を調べるうちに、写っている人物を立体で見た方がイメージが膨らむことから、3D動画を作ってみました。
6.皇女和宮が抱えていた湿板写真を復元したら驚きの結果に!
和宮の棺の中で見つかった写真湿板にスポットをあてた記事です。この湿板に写っていた画像は、翌日に失われてしまいましたが、湿板写真から画像の復元をやってみました。すると、驚きの結果に!
この記事で指摘したなぞの解明、最も書きたかった和宮埋葬時の姿勢のナゾの解明を管理人なりに行っています。
2.皇女和宮の写真の真偽を確認する
和宮が写っているといわれている写真の真偽を検証しました。たぶん、記事としては一番面白い内容になっていると思います。
3.明治時代の新聞報道から皇女和宮薨去の原因を読み解く
和宮が亡くなってから埋葬されるまでの情報がほとんど見つからなかったことから、当時の新聞を調べてみました。なぞの解明にあたり、結論を導くことになった重要な記事です。
4.皇女和宮が晩年に住んでいた邸宅の場所は、現在ではどこになるの?
和宮と南部家のナゾを追ううちに、京都から東京に戻った和宮が晩年に住んだ麻布の御邸があった場所が、現在ではどの場所で、土地はどのような形状だったのかを知りたくなったので調べてみました。麻布の和宮邸を現地で確認できます。昔の住所だけでは土地の形状までは分からないので調べてみました。
5.皇女和宮のお顔を3Dにしてみる
和宮とされる写真を調べるうちに、写っている人物を立体で見た方がイメージが膨らむことから、3D動画を作ってみました。
6.皇女和宮が抱えていた湿板写真を復元したら驚きの結果に!
和宮の棺の中で見つかった写真湿板にスポットをあてた記事です。この湿板に写っていた画像は、翌日に失われてしまいましたが、湿板写真から画像の復元をやってみました。すると、驚きの結果に!
2014年04月18日
字がうまくなりたい:なぜ、昔の人は達筆なのか
キレイな字を書けると、それだけで知的な人に見える。
江戸時代から太平洋戦争にかけて、多く人が記した文章を見ると、あまりにも達筆であることに驚きます。
別に知的な人と見られなくても良いから、キレイな字を書きたいと思っている人はたくさんいると思います。管理人もそのひとりで、長年、文字コンプレックスに悩んでいます・・・現在進行形です・・・。
今日は、きれいな文字を書きたい管理人が長年感じていることを書きたいと思います。
いつものように、そこら辺に転がっている誰でもが知っている情報ではなく、独自の視点と経験に基づいて書きます。
文字はバランス。それさえしっかり認識していれば、キレイな文字が書けます・・・・。んなわけね~だろぅ。 それでキレイな文字が書けるんなら、「ユーキャン」は倒産だぜ。なにか、別のノウハウがあるはずだ。それを教えろ!
まあまあ、落ち着いて。
管理人が小学校2年生の頃、板書で、先生よりキレイな字を書く同級生がいました。彼女は、書道でも、すらすらと、とてもキレイな字を書きました。
子供心に、文字の美しさと、それをすらすらと書ける人に憧れたものです。
YouTubeにパソコンで書いた習字をアップしました。よろしければご覧下さい。へたくそですが・・・。
【キレイな文字を書くコツ】
1.バランス
文字の美しさは、やはりバランスが重要です。
先日、事務の若い女性が電話がありましたというメモがパソコンに貼ってありました。その文字がきれいなのにビックリ。ポストイットにさっと書いただけなのですが、とてもきれいな文字でした。
そこで、書かれていた文字をなぞってみました。すると、キレイに見える文字は、自分がいつも書いている文字と比較して、「つくり」の部分がより右側になっています。「へん」と「つくり」の位置関係を少し広げることで、ゆったりとした文字に見えることが分かりました。
この方法を覚えてから、自分の字とは思えないほどきれいに見える文字を書くことができるようになりました。
2.手首の柔軟性
とてもキレイに見える文字を書ける時と、とんでもないくらいへたくそな文字しか書けない時があります。
普段は、とにかくへたくそな文字しか書けないのですが、会議や研修などでメモを採る時の文字は、自分でも結構きれいに書けていると思うことがあります。
同じ人間が書く文字が、キレイに見えたり、汚く見えたりするのでは、きれいに文字を書くことなど不可能です。何が違うのか。ずっと不思議だったのですが、 ふと気づいたことがあります。
会議のメモなどは、文字を書く練習ということで、かなり、リラックスして書いています。これに対して、普段書く文字は、とにかく多量の情報を書き留める必要があるため、かなり乱雑、・・・、ではなく、指と手首に力が入っていると感じます。
きれいな文字を書くための要素のひとつである「きれいな線を描く」ためには、「手の力」を抜くことが大切だと分かりました。
では、どうやって、力を抜くのか。これが難しい。皆、これでつまずきます。
実は、この力を抜く方法に気がついてから、どんな場面でも、ほどほどの文字を書けるようになりました。これは、覚えておくと役に立ちます。
手に力が入って、きれいな線を書けない時があります。こんな時は、ペンを持つ手、手首、そして指に思いっきり力を入れ、パッと脱力します。これで力が抜け、ぶれないなめらかな線を書くことができます。
2013年05月07日
アレキサンドリアのヘロン
以前、書いた「ヘロンの噴水」について追記します。個人的には、あの記事が気に入っているので、少しだけ補足したいと思います。
ヘロン(Heron)はアレキサンドリアの人ですが、その師はクテシビオスといわれています。クテシビオスは、古代ギリシャの科学者では、アルキメデスに次ぐ人物として知られています。残念ながら、クテシビオスの記録はほとんど残っておらず、ヘロンの業績として現代に伝えられているものの多くは、クテシビオスか、あるいは、それ以前の先人の業績である可能性もあります。
ヘロンは、その生没年どころか、活躍したと思われる時代は数世紀にまたがるほどよく分からない偉人なのですが、彼の『気体装置』は、後のレオナルド・ダ・ビンチによって引用され、レオナルドの業績にも大きな影響を与えたと伝えられています。
ヘロンは、紀元前150年頃から紀元後100年頃の人というとても幅広い年代が割り当てられている不思議な人だということを先ず理解する必要があります。
例えば、Wikipedia日本語版では、「紀元前2世紀ごろとする説から、3世紀前半ごろとする説まである。」としていますが、英語版では、紀元前10年から紀元後70年としています。
現在、ルネッサンス期の天才のごとくもてはやされているレオナルド・ダ・ビンチの業績の多くは、実はヘロンの業績、あるいは、それ以前の学者の業績だったのではないかと思います。これは、レオナルド・ダ・ビンチだけに着目しているその道の学者の不勉強のためでしょう。ルネッサンスとは、「14世紀 - 16世紀にイタリアを中心に西欧で興った古典古代の文化を復興しようとする歴史的文化革命あるいは運動を指す。(Wikipedia)」とされています。つまり、古代ギリシャ・ローマの技術が見直された時代と言えます。
以前、ヘロンの噴水の記事で書いたように、ヘロンの『気体装置』のアイディアには本当に驚きました。水の力で空気を圧縮することで、水の源よりも高く噴水のように吹き出させることができるという仕組みは、現代でも使われている技術です。
これを簡単に理解するには、ベルヌーイの定理が役立ちます。ベルヌーイは18世紀の偉大な物理学者ですが、彼より2000年も前の時代に空気を圧縮することで、水をより高い場所まで運ぶ技術が確立していたことに驚きます。
実は、蒸気エンジンを発明したのもヘロンと言われています。そのシステムの画像は、「Heron's reaction turbine」というキーワードで画像検索すれば見ることができます。ヘロンの蒸気エンジンはオモチャのような藻の゛、密閉した球体を加熱し、そこから吹き出る蒸気をノズルから噴出して回転させるものでしたが、原理的には蒸気機関になっています。
上述したように、生没年代不詳のヘロンがこれを作ったかどうかは分かりません。分かっているのは、気体圧縮により生ずる力を動力として利用しようとする考え方が、紀元前後の時代には既にあったと言うことです。
時代を異とするルネッサンスと産業革命において、それらの時代に突然、新たな技術が開発されたような誤解が蔓延していますが、実際には、紀元前に開発された技術や理論、原理を使っています。
「定説」という言葉をよく耳にしますが、定説とは何なのかがよく分かりません。魔女狩りに代表される科学が比定された時代では、「定説」とは、「皆が信じる噂話」だったのでしょう。
現代の「定説」は、学閥に左右されない科学の分野では、科学的な論拠に基づく仮説だと思われますが、科学に基づかない定説もたくさんあるように思います。その最たる例が、「コロンブスによる新大陸発見」でしょう。このよな文章を平気で書く人は、定説をねつ造しようとする人間だと思います。普通の学者は、「西洋社会における」とか限定句を入れると思います。その限定を勝手に取り除いて報道し、それを信じる人が大多数になると「定説」になる。でも、本当は、それは定説ではなく「都市伝説」。都市伝説と定説を混同してはいけないし、その区分を明確にした上で議論を進める必要があるように思います。
定説の間違った解釈の例として、クフ王のビラミッドがあります。近年、数多くの新発見があり、過去の「定説」のようなものが覆されています。結果論で言えば、そんな馬鹿げたことをなぜいっていたのか、その論に固執していたか、いくらでも言えますが、新たな発見がない限り誰か偉い先生が言ったことが「都市伝説」になります。
日本の例では、脚気(かっけ)の原因説でしょう。東大派閥と京大派閥の不毛な議論の末、日本陸軍兵士の多くが脚気で亡くなりました。現代から見れば、ウイルス原因説という間違った理論を提示し、それを堅持し、多数の人命を奪った東大派閥の森鴎外は、もっと糾弾されるべきです。しかし、誰もそのようなことはしません。ここが日本的でもあるし、マスコミに誘導されているようにも思います。
個人的には、森鴎外の小説は好きですが、脚気の原因説を誤り多数の死者を出した陸軍(責任者は森鴎外)とは対照的に、海軍では一人の死者も出なかったということに関心があります。そして、その責任を誰も採らないということに不信感を持ちます。当然、この体質は現在の防衛省にも受け継がれています。
従軍慰安婦などの問題も重要かも知れませんが、本来は、陸軍と海軍のどちらかが病気の原因説で誤った判断をしたために多数の兵士を死亡させたのなら、国家賠償が必要になるのではないかと思います。そして、その責任者である森鴎外は糾弾されるのが普通ではないでしょうか。
大変な発明をしたヘロンの生没年どころか、活動したと思われる時代が数世紀にわたる理由は何か。
間違った脚気ウイルス論に固執し、多くの兵士を死に追いやった森鴎外が、現代の日本社会で何ら批判を浴びないのが不思議です。Wikipediaの「脚気惨害をめぐる議論」の記述は、誰が書いたのか知りませんが滑稽です。この論調が認められるのなら、医療の関する免罪符を与えることになります。同時期に海軍では死者が出なかったことが着目すべき点で、多数の死者を出した陸軍の医療責任者が、免責される要素はないと思います。
脚気で亡くなった兵士の数はネットで調べて下さい。戦慄すべき人数です。この病で死ななくても良かった人たちです。もし、海軍にいれば。
ところで、森鴎外がいきなり出てきたことに、違和感を感じた方がいると思います。
実は、次回の記事への布石です(笑)。
そうです。次回は、ネコ師の大好きな夏目漱石の記事を書きます。お墓参りにいっってきました。
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