世界遺産スクレ観光には欠かせないタラブコ村の日曜市。たくさんの観光客で賑わいますが、そのタラブコ村で年に1度開催されるカーニバルは大規模なもので、今年は副大統領も出席しました。
3月14日に行われたタラブコ村のカーニバルの模様は、以前書きましたが、今日は、もう少し詳しく書くことにします。写真は前回の記事をご覧ください。
タラブコ(Tarabuco)村は、世界遺産の古都スクレから東に64Km、車で1時間半の距離にあります。
タラブコのカーニバルの由来
チャキサカのラ・ビリャ・デ・タラブコ(La Villa de Tarabuco)は、副王フランシスコ・トレドの命令で1578年6月29日、Kjara Kjara山の麓に設立されました。しかし、その歴史は、少なくとも500年前、今日、チュキサカ県のオルペサ、ヤンパラエス、タラブコ、スダーニェス、およびポトシ県の北部を含む地域を治め栄えたヤンバラ王国の時代にさかのぼります。
タラブコのカーニバルは、もともとはスペイン侵略以前、"Jatun Pocoy"(豊穣)と”Pauker Waray(太陽への生贄)を祝うお祭りでした。のちに、1816年3月12日のフンバテ(Jumbate)での戦いでのスペイン王党軍に対するヤンパラエス住民の勝利を記念する意味が加えられました。
このお祭りは、1816年3月12日、ペルー副王の王党派軍に対して独立の戦いが行われた記念として、3月の第2日曜日に開催されます。今年はなぜか第3日曜日(3月21日)でしたが。その目的は、正統なヤンバラ文化として民間信仰や部族の踊りを保存、普及、広めることにあります。
ミニ年表
1540年 アルト・ペルー(現ボリビア)のチャルカスの谷にラ・プラタ市(現スクレ市)建設
1548年1月3日 アルト・ペルーはペルー副王領となる。
1578年6月29日 タラブコ村設立
1776年 アルト・ペルーがペルー副王領からリオ・デ・ラ・プラタ副王領に転入される。
1809年5月25日 アルト・ペルーのスペインからの独立を求め、チュキサカ(現スクレ市)で独立運動が起こる。
1810年 アルゼンチンの独立を期に、アルト・ペルーはペルー副王領の管轄に戻る。
1816年3月12日 フンバテ(Jumbate)の戦い
1825年5月25日 アルト・ペルーの独立とボリビア建国
カーニバルの中心は『プフリャイ』
そのカーニバルの中心は、プフリャイ(Pujllay)です。ここでの踊りは、肥沃さ、畑の花の広がりを表していて、ヤンパラエス地域の民族音楽のもと典型的な民族服を身につけ踊ります。ヤンパラエスの踊り手たちは、約10インチの鉄製で馬蹄形の拍車がついた高いサンダルを履いています。カラフルで魅力的な民族服は、住民たちが自ら織ったものが使われます。
民族衣装は、ブラウスか黒のシャツ、赤い装飾がついた白い半ズボン、縞模様のポンチョ(Siquia – unku)、それを縛る腰帯(chumpi)、その上に、別のポンチョと大きなハンカチを身につけます。頭には、幅広いリボンを巻き、時折、そこに硬貨、花、スパンコールなどで飾られたチカチャスカ(ticachascada)と呼ばれる家畜の尿で硬化させた革製のヘルメットのようなものをかぶります。
彼らが演奏する音楽は、pinkillo、tokoroといったアエロフォン(気鳴楽器)で奏でられます。リズムはサンダルに付いた拍車の音を用い、スペイン征服者を冷笑し駆り立てるます。
プフリャイ(pujllay)とは、ケチュア語でゲームの意味ですが、元々はミサのお祝いとして始まりました。後に、広場で踊り手が儀式的なパレードを行い、また、インカの王女(ñusta)あるいはプカラ(Pucara:宗教的象徴である食品を供えたハシゴ状の祭壇)の処女が選ばれ、プカラの周りを伝統の踊りを踊ります。
プカラは、肥沃な土地への崇拝を捧げるにパチャママに敬意を表し、木を骨組みに、そこに果物、パン、ロールパンやほかの食べ物を飾ります。式典の後、これらは観客に分配されます。
フンバテ(Jumbate)の戦い
1816年3月12日、スペイン植民地からの独立に向けた戦いが始まりました。タラブコ村近くのフンバテ集落に集結した住民戦士グループがペルー副王の軍隊に巧みな戦略で勝利を治めました。この戦いについては、歴史上の文献にはほとんど記載されておらず、大部分の情報源は伝承によるものです。
ヤンバラは、インカ帝国の東の国境に位置し、この地域をチリグアノ族の侵略から守るため、インカ帝国から戦士が派遣され駐留していました。この後のスペイン人の入植で、タラブコではメスティソ化が進みましたが、インカ時代の遺産として、国境守備隊としてのこの軍事的な精神は19世紀末まで維持され、スペインからの独立運動を支えました。
1816年3月12日、タラブコ村郊外のJumbate村において大規模な戦闘が起こりました。スペイン王党派軍は、人数的にはタラブコの反抗勢力よりたくさんいました。そこでタラブコ族の戦士たちは、スペイン人が弾薬を浪費して彼らの疲労を誘うために、タラブコ族のポンチョをナガササゲ(payares)の茂みに吊して偽装する戦略を考案し、実行しました。この戦略の前にスペイン王党派軍は敗れ去りました。
参考資料:
http://www.la-razon.com/versiones/20070311_005842/nota_250_400701.htm フンバテの戦いは歴史の中にはほとんど出てきません。スクレの街頭で始まった1809年の独立運動から1825年のアルト・ペルーの独立までの期間の出来事は、歴史の中では忘れ去られています。
大きな歴史の流れの中で、忘れられた小さな歴史を垣間見るのはおもしろいと思います。