2013年03月14日
ローマ法王が決まらない:世界遺産バチカンのコンクラーヴェ
ローマ法王ベネディクト16世の後任を決める「コンクラーヴェ」が開催されていますが、13日午前の投票でも決まらず、システィーナ礼拝堂から、黒い煙が出ました。
無信教徒が多い日本ではほとんど話題になりませんが、カトリック教徒の間では注目の話題です。
バチカンに行ったときは、それほど関心がなく、知識もなかったのですが、先日、ダヴィンチコードで有名なバン・ダインの「天使と悪魔」を読んでから、「コンクラーヴェ」に興味を持つようになりました。「天使と悪魔」は、映画も観たのですが、あまり覚えていなくて、小説を読んで、映画のシーンが蘇りました。
システィーナ礼拝堂で行われている「コンクラーヴェ」は、世界中から集まった117人の枢機卿がこの礼拝堂に缶詰になり、選挙により、新しい法王を選びます。
礼拝堂の煙突から白い煙が上がれば、法王が選出された証で、選挙人の意見が割れて選出に至らなかった場合は、黒い煙が出ることになっています。これまで、3回の投票が行われましたが、ローマ法王の選出には至っていません。
バチカン市国(Vatican City)は、ローマの中にある国で、1984年にユネスコの世界遺産に登録されました。このように、ある国の中に別の国が存在するということは、島国日本ではイメージできないのですが、ヨーロッパではいくつかあります。
下の写真は、バチカンに行ったときに撮影したビデオから作ったもので、画質がいまいちです。
この記事は書きかけです。もう少し詳しく書きます。
足を怪我したので、今日はここまで。
2011年03月20日
ボリビアのオルーロ:世界文化遺産のカーニバル
先日、スクレからラパスまで陸路を13時間かけて行ってきましたが、その途中、オルーロ(Oruro)に立ち寄りました。
オルーロと聞いてカーニバルを連想する人はボリビア通の人でしょう。
スクレからラパスに陸路を使って行くには、まず、ポトシに行き、そこから北上、オルーロを通ってラパスに行きます。
スクレからポトシまでが3時間弱、ポトシからオルーロまでが4時間、オルーロからラパスまでが4時間といった道のりです。運転手を休ませる必要があるので、合計13時間くらいかかります。
さて、オルーロですが、人口250,000人(2011)のボリビアの中では大きな都市です。標高は3,700m。
スクレの人に聞くと、オルーロのことをボロクソにけなします。
オルーロは標高が高く、とても寒く、日差しが強く、水がないなど、生活するのはとても大変な所だそうです。車の運転手がオルーロのことをよく知っているのでなぜかと尋ねたら、オルーロの出身でした。
そんなオルーロですが、町の自慢はフォルクローレとカーニバル。オルーロのカーニバルはユネスコの無形文化遺産に登録されており、南米三大カーニバルの1つに数えられています。
なんでこんな不便な所に町があるかというと、鉱山のせいです。オルーロは1606年11月1日に銀採掘の拠点として設立されました。当時のスペイン国王フェリペ3世にちなみ、「オーストリア王家の聖フェリペの町」と呼ばれていたとwikiに書いてありました。
オルーロはその後、スズの採掘で栄えますが、今は廃れ、カーニバルだけが有名な町になってしまいました。
ネコ師がオルーロを訪れたのは、3月4日~6日のカーニバルが終わった次の週だったので、町中のあちこちで、見物用椅子の解体作業をしている最中でした。というわけで、カーニバルの写真はありません。
ところで、スクレのCorreo del Surという新聞の2011年3月6日付けの第一面に下の写真がありました。まるで戦国絵巻から抜け出てきたような踊り子、そして抜群のアングルに仰天。さすがはプロです。後方の踊り子達は絵画のようです。
クリックすると大きな画像でご覧頂けます。画像の著作権はCorreo del Surに帰属します(著作権ロゴをいれました)。
オルーロの市内を写真でご紹介します。黄色い建物が市庁舎です。
ソカボン広場。カーニバルのメイン会場となっており、踊り子達は踊り終わるとここの教会で祈りを捧げます。3年連続でカーニバルに参加すると願いが叶うのだそうです。スクレでも同じ言い伝えがあります。ワンパターンです。
教会です。踊り子達は、最後にこの教会で願いの成就を祈ります。
ここがソカボン広場のカーニバルのメイン会場。カーニバルのテレビ中継はこの広場の模様を撮影しています。
オルーロからラパスまでは平坦な道で、スクレ周辺の道路と比べれば格段に良いのですが、この道路では正面衝突が頻発しているため、複線化の工事をしているのだそうです。
オルーロの町の出口に面白いモニュメントがあります。フォルクローレを題材に金属で造られたもので、ラパスに向かう道路の中央分離帯にたくさん置かれています。
下のモニュメントは、タラブコのイメージにもなっている笛トコロ(tokoro)を吹く人です。センスの良い作品だと思います。
この中央分離帯の終わりの所になにやら変わったものが・・・。
これは、ヘルメットをデザインしたものです。そういわれれば分かりますが、最初に見た時は斬新なデザインに驚きました。
2010年11月05日
世界遺産ポトシの記事を準備中
以前の記事で、スクレの地下にトンネルが張り巡らされていることを書きましたが、ここで新情報です。
世界遺産のポトシは、こんなものではなく、もっとすごいのだそうです。しかも地下道に入ることができるそうです。
スクレの地下道は、安全のため入ることができません。期待していた「博物館の夜」の日にも入ることができませんでした。
そこで、ポトシの地下道に何とか入ってみたいと思います。
南米には、長大な地下道が存在すると、半ば「都市伝説」のように言われています。しかし、スクレやポトシに、実際、地下道が張り巡らされているところをみると、あながち伝説とばかりは言えません。
日本のお城には、大抵、地下に抜け穴があるようです。しかし、それは、緊急時の抜け穴であり、その延長も限られているのではないでしょうか。スクレやポトシにある地下道は、規模が全く違います。一説には、50km以上離れた都市まで続いているとも言われています。
そこには、埋蔵金伝説がついてまわります。
職場の秘書がポトシの出身で、いろいろなことを教えてくれます。彼女のおばあさんが弁護士をしていたのでたくさんの資料を持っているらしく、60年以上前に出版された本も貸して頂きました。 これって、ブログを書く人には朗報です。なにしろ、著作権フリーです(笑)。
というわけで、現在、世界遺産ポトシ編を準備中です。いつアップできるか分かりませんが、お楽しみに。
世界遺産のポトシは、こんなものではなく、もっとすごいのだそうです。しかも地下道に入ることができるそうです。
スクレの地下道は、安全のため入ることができません。期待していた「博物館の夜」の日にも入ることができませんでした。
そこで、ポトシの地下道に何とか入ってみたいと思います。
南米には、長大な地下道が存在すると、半ば「都市伝説」のように言われています。しかし、スクレやポトシに、実際、地下道が張り巡らされているところをみると、あながち伝説とばかりは言えません。
日本のお城には、大抵、地下に抜け穴があるようです。しかし、それは、緊急時の抜け穴であり、その延長も限られているのではないでしょうか。スクレやポトシにある地下道は、規模が全く違います。一説には、50km以上離れた都市まで続いているとも言われています。
そこには、埋蔵金伝説がついてまわります。
職場の秘書がポトシの出身で、いろいろなことを教えてくれます。彼女のおばあさんが弁護士をしていたのでたくさんの資料を持っているらしく、60年以上前に出版された本も貸して頂きました。 これって、ブログを書く人には朗報です。なにしろ、著作権フリーです(笑)。
というわけで、現在、世界遺産ポトシ編を準備中です。いつアップできるか分かりませんが、お楽しみに。
2010年08月18日
世界遺産:ボリビア ティワナク遺跡
ボリビアの世界遺産の一つであるティワナク(Tiwanaku)は、ラパスから車で50分くらいのところに位置するプレ・インカの遺跡です。標高は3,750mくらい。
2000年に世界遺産に登録されました。
ラパスの教会や町造りのために、この遺跡からたくさんの石材が運ばれ、今は見る影もない状況です。
世界遺産というとワクワクするものですが、ティワナク遺跡に関しては期待はずれという印象です。
詳しくご紹介する気力も失せました。
6年前に行ったときと比べ、遺跡の整備は進んでいましたが、スペイン人による遺跡の破壊は徹底的という感じで、見るべきものがほとんど無いです。チチェンイッア等マヤの遺跡と比べて、完全に見劣りします。
遺跡の案内版が不備で、どこに何があるのかさっぱり分からない。案内版の説明文もほとんど無い状況です。
ボリビアの観光地としては、少しお粗末な印象を受けます。入場料は80Bsで、以前と同じ値段でした。たくさんの地元の人が働いていて、観光が地場産業として機能しているようですが、観光客にとってはがっかりさせられる所です。
まず、ここのおかしいところは、撮影禁止の場所。博物館の内部は撮影禁止にしているところがたくさんありますが、この遺跡は、野外(現在発掘している場所)も撮影禁止です。こんな遺跡は聞いたこともありません。
ボリビアに長く住んでいてもチップを要求されることは、ほとんどありません。この遺跡では要求されました。とても印象が悪くなります。
ガイドがいるのですが、雇うのはやめました。どうせいい加減なガイドだと思ったので。
撮影禁止とする理由は、フラッシュの光が古い塗料などを痛めるためだと思うのですが、今のカメラは優秀なのでフラッシュを焚かなくても撮影できます。野外も撮影禁止というのは全く理解できません。
こんな訳であまり気分の良い観光地ではないので、説明は省略して、今回は写真だけ掲載します。
スペイン語だけで「発掘場所撮影禁止」と書かれたよく分からない看板。
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2010年04月24日
タラブコ村のカーニバル(詳細情報)
世界遺産スクレ観光には欠かせないタラブコ村の日曜市。たくさんの観光客で賑わいますが、そのタラブコ村で年に1度開催されるカーニバルは大規模なもので、今年は副大統領も出席しました。
3月14日に行われたタラブコ村のカーニバルの模様は、以前書きましたが、今日は、もう少し詳しく書くことにします。写真は前回の記事をご覧ください。
タラブコ(Tarabuco)村は、世界遺産の古都スクレから東に64Km、車で1時間半の距離にあります。
タラブコのカーニバルの由来
チャキサカのラ・ビリャ・デ・タラブコ(La Villa de Tarabuco)は、副王フランシスコ・トレドの命令で1578年6月29日、Kjara Kjara山の麓に設立されました。しかし、その歴史は、少なくとも500年前、今日、チュキサカ県のオルペサ、ヤンパラエス、タラブコ、スダーニェス、およびポトシ県の北部を含む地域を治め栄えたヤンバラ王国の時代にさかのぼります。
タラブコのカーニバルは、もともとはスペイン侵略以前、"Jatun Pocoy"(豊穣)と”Pauker Waray(太陽への生贄)を祝うお祭りでした。のちに、1816年3月12日のフンバテ(Jumbate)での戦いでのスペイン王党軍に対するヤンパラエス住民の勝利を記念する意味が加えられました。
このお祭りは、1816年3月12日、ペルー副王の王党派軍に対して独立の戦いが行われた記念として、3月の第2日曜日に開催されます。今年はなぜか第3日曜日(3月21日)でしたが。その目的は、正統なヤンバラ文化として民間信仰や部族の踊りを保存、普及、広めることにあります。
ミニ年表
1540年 アルト・ペルー(現ボリビア)のチャルカスの谷にラ・プラタ市(現スクレ市)建設
1548年1月3日 アルト・ペルーはペルー副王領となる。
1578年6月29日 タラブコ村設立
1776年 アルト・ペルーがペルー副王領からリオ・デ・ラ・プラタ副王領に転入される。
1809年5月25日 アルト・ペルーのスペインからの独立を求め、チュキサカ(現スクレ市)で独立運動が起こる。
1810年 アルゼンチンの独立を期に、アルト・ペルーはペルー副王領の管轄に戻る。
1816年3月12日 フンバテ(Jumbate)の戦い
1825年5月25日 アルト・ペルーの独立とボリビア建国
カーニバルの中心は『プフリャイ』
そのカーニバルの中心は、プフリャイ(Pujllay)です。ここでの踊りは、肥沃さ、畑の花の広がりを表していて、ヤンパラエス地域の民族音楽のもと典型的な民族服を身につけ踊ります。ヤンパラエスの踊り手たちは、約10インチの鉄製で馬蹄形の拍車がついた高いサンダルを履いています。カラフルで魅力的な民族服は、住民たちが自ら織ったものが使われます。
民族衣装は、ブラウスか黒のシャツ、赤い装飾がついた白い半ズボン、縞模様のポンチョ(Siquia – unku)、それを縛る腰帯(chumpi)、その上に、別のポンチョと大きなハンカチを身につけます。頭には、幅広いリボンを巻き、時折、そこに硬貨、花、スパンコールなどで飾られたチカチャスカ(ticachascada)と呼ばれる家畜の尿で硬化させた革製のヘルメットのようなものをかぶります。
彼らが演奏する音楽は、pinkillo、tokoroといったアエロフォン(気鳴楽器)で奏でられます。リズムはサンダルに付いた拍車の音を用い、スペイン征服者を冷笑し駆り立てるます。
プフリャイ(pujllay)とは、ケチュア語でゲームの意味ですが、元々はミサのお祝いとして始まりました。後に、広場で踊り手が儀式的なパレードを行い、また、インカの王女(ñusta)あるいはプカラ(Pucara:宗教的象徴である食品を供えたハシゴ状の祭壇)の処女が選ばれ、プカラの周りを伝統の踊りを踊ります。
プカラは、肥沃な土地への崇拝を捧げるにパチャママに敬意を表し、木を骨組みに、そこに果物、パン、ロールパンやほかの食べ物を飾ります。式典の後、これらは観客に分配されます。
フンバテ(Jumbate)の戦い
1816年3月12日、スペイン植民地からの独立に向けた戦いが始まりました。タラブコ村近くのフンバテ集落に集結した住民戦士グループがペルー副王の軍隊に巧みな戦略で勝利を治めました。この戦いについては、歴史上の文献にはほとんど記載されておらず、大部分の情報源は伝承によるものです。
ヤンバラは、インカ帝国の東の国境に位置し、この地域をチリグアノ族の侵略から守るため、インカ帝国から戦士が派遣され駐留していました。この後のスペイン人の入植で、タラブコではメスティソ化が進みましたが、インカ時代の遺産として、国境守備隊としてのこの軍事的な精神は19世紀末まで維持され、スペインからの独立運動を支えました。
1816年3月12日、タラブコ村郊外のJumbate村において大規模な戦闘が起こりました。スペイン王党派軍は、人数的にはタラブコの反抗勢力よりたくさんいました。そこでタラブコ族の戦士たちは、スペイン人が弾薬を浪費して彼らの疲労を誘うために、タラブコ族のポンチョをナガササゲ(payares)の茂みに吊して偽装する戦略を考案し、実行しました。この戦略の前にスペイン王党派軍は敗れ去りました。
参考資料:
http://www.la-razon.com/versiones/20070311_005842/nota_250_400701.htm
フンバテの戦いは歴史の中にはほとんど出てきません。スクレの街頭で始まった1809年の独立運動から1825年のアルト・ペルーの独立までの期間の出来事は、歴史の中では忘れ去られています。
大きな歴史の流れの中で、忘れられた小さな歴史を垣間見るのはおもしろいと思います。
2010年04月20日
世界遺産ポトシの『幻の集落』
今日は、『幻の集落』の写真をアップします。
幻と言っても、実在する集落です。
なぜ、幻かというと、この集落に入るには、集落総会での許可が必要で、簡単には入ることができないからです。しかも、許可が下りたとしても集落内の道路を車で通りすぎるだけで、車を停車させたり、車から降りて写真撮影したりしてはならない、という条件付きです。
まったく不思議な集落です。
この集落は、世界遺産の古都スクレからポトシに向かって2時間半くらい行ったところにあります。場所は、ポトシ県ベタンソス村キビキビ集落というところです。
このような規制をしているのはこの集落だけで、周辺の集落はもちろん立ち入り自由です。
なぜ、この集落だけ立ち入りを制限しているのか。興味が湧きますね。なにやら秘密のにおいがします。麻薬でも栽培しているのでは?
下の写真は、集落の許可を得て、移動する車内から撮影したものです。山の斜面にテラス式の野菜畑が広がり、とても美しい景色です。
隣のテコヤ集落からキビキビ集落方向を撮影したものです。
このパノラマ写真はテコヤ集落です。キビキビ集落とよく似ています。
実は、キビキビ集落がよそ者の立ち入りや写真撮影を禁じている理由はよくわかりません。隣の集落の人に聞くと、あの集落は嫉妬深い、と言っていました。
では、種明かしです。といっても想像ですが。
この集落は、野菜生産でとても有名な集落です。
この野菜生産は、1983年に南米地域を襲った干ばつ被害から復興するために、政府が支援して始まったものだそうです。
山の斜面を段々畑にして、土が流れないように整備し、かんがい水路が張り巡らされています。
集落の人たちは、この技術を他の集落の人たちに盗まれるのを嫌っているようです。これが隣の集落の人たちの意見でした。
この集落があるベタンソス村は、ボリビアの中でもほとんど唯一といわれるインカ時代の行政制度が残っているところです。『クラカ』といわれるインカ時代の酋長が現在の行政組織の上に君臨しているという、なんともおもしろいところのようです。
地元の人から話を聞いたのですが、基礎知識がないのでさっぱり理解できません。インカ時代とスペイン植民地統治政策の知識がないと歯が立ちません。
関心のある方は、google検索で「wiki インカ クラカ」で調べればヒットすると思います。ベタンソス村のことも書かれています。
Wikiでは貴族階級(クラカ)としていますが、ここのクラカは、少し違うようです。クラカになるためには、インカ時代から続く要職を経験し、だんだん上に上っていく必要があるそうです。まるで軍隊の制度のようだと地元の人が言っていました。世襲制でなれるわけではないようです。
それにしても不思議なところだと思います。
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