前回の続きです。
下の写真の左が北です。
Source: Google Map (クリックすると大きく表示されます)
パナマ運河は、太平洋と大西洋(カリブ海)をつなぐ物流の拠点です。南北アメリカをつなぐ地峡に位置しています。ここに運河を掘れば、太平洋とカリブ海を簡単につなぐことができると誰もが考えます。
ところが、大きな問題がありました。太平洋と大西洋では水位が違うのです。
平均水位で見ると、その差は24cmで、太平洋側が高くなっています。大した差ではありません。
ところが、これはあくまで平均での話し。太平洋側では、プラス・マイナス3.2 m以上の潮位変動があり、大西洋側でも60 cmの変動があります。
これだけの水位差があると幅の狭い運河では流速が増し危険です。ちなみに、下で出てくるレセップスの計画では、海面レベル方式といって、両大洋を掘り割り水路でつなぐだけの単純な設計でした。もし、この建設計画がうまくいっても、船の運航は困難であったと思います。また、掘り割りの深さも現在よりはるかに深く掘削する必要がありました。
そこで考えられたのが、川をせき止め、内陸部にダムを造って湖(ガツン湖)をつくり、その水を使って閘門式のゲートで水位差を調整しながら船を通す方法でした。
この湖の水位は海抜26m。つまり、26mの水位差を、閘門を使って調整していることになります。(ちなみに、途中、経由するラフローレス湖の水位は17mです。)
運河の途中に設置された2つのゲートの間にタグボートで船を運び入れ、ゲートを閉じて、水位を調整します。これを繰り返して、徐々に水位を下げていきます。反対方向に進むときは、逆に水位を上げていきます。図があれば分かりやすいのですが、描く気力がないので省略します。
船の通行量が増加するに従い、ガツン湖の水量が問題になりましたが、水を反復利用することで、この問題は解決しました。
パナマ運河には、カリブ海側から順に、ガツン閘門、ペドロ・ミゲル閘門、ミラフローレス閘門の3つの閘門があります。運河を航行するには、下のようなルートを通ります。
カリブ海 ⇔ ガトゥン閘門 ⇔ ガトゥン湖 ⇔ ゲイラード・カット ⇔ ペデロ・ミゲル閘門 ⇔ ミラ・フローレス湖 ⇔ ミラ・フローレス閘門 ⇔ 太平洋
(写真はGoogle earthより合成しました)
(上の写真はクリックすると大きく表示されます。出典:ウィキペディア)
パナマ運河の建設
このパナマ運河を最初に計画したのは、スエズ運河建設(1859-69)に成功したフランスのF.レセップスでしたが、難工事であったことと、黄熱病やマラリアの蔓延により、3万人ともいわれる多くの労働者を失い、建設は頓挫しました。
レセップスが工事を行っていた当時、パナマはコロンビア領でしたが、パナマ運河建設に並々ならぬ関心を寄せていた米国の後押しで、1903年にパナマはコロンビアから独立します。米国は、同年、運河の建設権と関連地区の永久租借権などを取得して、早速工事に着手しています。いつものような手際の良さです。その後、米国による工事も決して簡単なものではなかったのですが、衛生管理の徹底と最新技術を用いて、1914年に完成しました。
1914年は、第一次世界大戦が始まった年です。7月28日、この日、オーストリアがセルビアに宣戦布告し、その戦火は瞬く間に拡大し第一次世界大戦が始まりました。パナマ運河が開通したのは8月15日です。
日本は、大正3年。私の大好きな夏目漱石の「こころ」が発表された年です。
☆パナマ運河 全長:78km 幅:91~300m(日本語版のウィキペディアではゲラード水路の最小幅192mを表示しています) 深さ:大西洋側12.8m 太平洋側13.7m
☆スエズ運河 全長:163km 幅:34m 深さ:15m
Source: Ⓒ Nekoshi
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上の写真は、パナマ市から最も近い、ミラフローレス閘門です。私が撮影したものです。あまり写りが良くありませんが。
この閘門部分は幅が狭くなっており、幅33.53 m、長さ304.8 mです。このサイズに収まるように艦船は設計されており、”パナマックス(幅32.3 m、長さ294.1 m)”と呼ばれています。
クィーン・エリザベス号が通過したときには、左右10cmしか余裕がなかった、と現地で見たビデオで紹介していました。
閘門の位置関係は、下のサイト(宇宙航空研究開発機構、JAXA)の写真が分かりやすいと思います。
http://www.eorc.jaxa.jp/imgdata/topics/2005/img/tp051201_02j.jpg
パナマ運河の建設に携わった日本人:青山士
さて、このパナマ運河の建設に携わった日本人がいました。その名は、青山士(あおやま あきら)。東大卒のエリートですが、変わった経歴の持ち主です。
東大在学中に教授から推薦状を書いてもらい、1904年、卒業とともに単身、パナマ運河建設に参加。渡航の目的は、最先端の技術を学ぶことだったようです。以降、1911年までの約7年間、パナマ運河建設に携わりました。つまり、建設の初期の段階から参加していたことになります。
でも、その仕事の内容は、測量の助手でした。しかし、持ち前の技術と知識を発揮し、最終的には、上で説明したガツン閘門の設計を任されています。
ガツンで設計をする青山士
「同人は、パナマに来た当初は末端測量員(ポール持ち)であったが、短期間の内に昇進を続け、測量技師補、測量技師、設計技師を経て最終的にガツン工区の副技師長となっている。手際よい測量の腕や勤勉さ、有能さからパナマ運河委員会の彼に対する勤務評定は常に”Excellent”であった。・・・日米関係の悪化を察知し、運河完成を待たず1911年に日本に帰国した(休暇願を出して帰国し、そのまま戻らなかった。)。」(在パナマ日本国大使館HP)
上はパナマ大HPからの引用です。このHPは他では書かれていないことが書いてあり、参考になります。さすが、中南米通のいる大使館です。(少し注文を付けるとすれば、出典は明らかにして欲しい)
現在、パナマをはじめ、中米には多くの中国人が住んでいます。彼らの祖先は、パナマ運河建設のために中国から連れてこられた人達です。また、彼らは、パナマ運河の建設が終わると、パナマに留まるものを除いて、その大部分は新しい職を求めて中南米に散していったようです。日本人移住者が拠点を設けて住んでいるのとは異なり、中国人村のような場所は聞いたことがありません。
日本では、青山士のことはあまり知られていません。それでも、10年くらい前にテレビで紹介されたことがあり、一部では知られているようです。私はつい最近知りましたが。
「大阪城を造ったのは誰か」という問いに対して、「大工さん」という答えがあります。
この発想を個人的には好きです。
「パナマ運河を造ったのは誰か」と聞かれたら、それは多くの犠牲を払って働いた中国人と答えるのが、正解なのかも知れません。
一番上の地図は、左が北です。地図の左端の部分がパナマとコスタリカの国境付近です。このあたりは、1年中、気流が悪く、飛行機で通過するときに激しく揺れます。北米から南米に行くときに揺れるのはこの位置ですので、揺れたら「コスタリカとパナマの国境通過」と思って間違いありません。 |