2010年02月02日

メキシコ カンクン旅行2010 あれこれ


 2010年1月、メキシコのカンクンに2週間ばかり旅行しました。ネットで調べてもカンクンの記事が少ないので、最新情報をアップします。

 チチェン・イッツァ、トゥルム、コバの各マヤ遺跡については、別途アップしていますので、過去記事をご覧ください。

 カンクンがリゾート地であることは、前から知っていましたが、思っていたよりも悪い意味で「リゾート化」されていて、あまりお勧めできる観光地ではないと感じました。とにかく物価が高いです。何でも銀座の料金以上と思って頂ければ、イメージできると思います。

 日本人観光客は新婚さんが多いようですが、私はカンクンは他の観光地と違うと感じましたので、成田離婚にならないように最新情報をアップします。まあ、パック旅行なら大きな問題はないと思いますが。

タクシー

 AAのフライトが遅れ、カンクン空港に到着したのが深夜11時過ぎ。空港からダウンタウンのホテルまで向かいますが、空港のタクシー配車カウンターに聞いたら、専用タクシーだと60ドル。乗り合いタクシーで15ドル。「何、その値段!」。どれだけ遠いのかと思ったら、車で25分だとか。その距離で60ドルも取るのかと呆れてしまいました。

 乗り合いタクシーの場合は35分くらいかかると言っていたけれど、ホテルをあちこち回って客を降ろしていくので、たぶん1時間はかかると踏んで、タクシー待合所で交渉して50ドルでホテルへ。これでも相当高い。20ドルが妥当な相場だと思います。長旅で疲れているし深夜なので、仕方なく支払いました。これはボラれているのではなく、ここの公定レート。カンクンに着いて早々、物価の高さに驚くことになりました。

ホテル

 ホテルはネットで探して予約した安ホテル。1泊30ドルくらい。とても小綺麗なホテルで、値段にしてはまずまずなのですが、不満な点は、部屋でネットが使えないことと、冷蔵庫がないこと(冷えたビールを飲めない)、町の中心部から少し離れていること。
 ホテルの予約は、『agoda』というインターネット格安ホテル予約サイトで予約しました。このサイトでは、格安だけでなく様々なランクのホテルを検索し、ホテルの設備状況、位置などを簡単に調べることができるので、大変重宝しました。

 ネット環境をチェックしなかったのは最大の過ち。せっかく重いパソコンを持って行ったのに、観光情報の入手にとても不便でした。

 ネットでホテルを探すとき、町の外れなのは確認していましたが、・・・、カンクンの町がこんなに大きいとは思わなかった。

 どこに行くにも遠い! 着いた翌日、歩いて町の中心部まで行きましたが、1時間くらいかかりました。中心部と書きましたが、中心部はないそうです。私のイメージとしては、どこの町にも小さな店がたくさん集まっている狭い通りがあり、そこが町の中心で、徐々に町が拡大していく、というもの。ところが、カンクンにはそのような所はないということでした。ショッピングモールのようなものはたくさんありますが。

 あちこちのホテルに立ち寄って、次のホテルの値段交渉(今のホテルは3泊だけ予約)。大体、30ドルから60ドルで、ほどほどのホテルに泊まれることが分かったし、今の時期、空き部屋があるのを確認してまずは一安心。

 道ばたに、たくさんのお土産屋さんがあります。立ち寄って、値段を見ると、開いた口がふさがらない。「何、この値段!」 常軌を逸した値段が付けられています(決して、ドルとペソの単位を間違えているわけではない)。珍しく猫グッズを発見! 値段を聞いてみたら、20ドル。どんなに高く見ても5ドルの価値と思ったので、買わない。すると、店員は30%値引きするという。それでも高い。帰ろうとすると、呼び止められ、「50%値引きする、これが最後だ」という。オーナーらしき人物が近くにいて売り子にサインを送っている。パーセントの問題ではなく「価値」の問題で、この程度の商品を50%引きでも10ドルで売ろうとする商魂が気に入らないので買わずに通り過ぎました。

 他の店も同じ。とにかく高い。真剣に買おうと思ったら、50%引きからスタートするのが正解のようです。

 旅行で、サンダルがあると便利なので探しましたが、値段は20ドルから40ドル。

<39ドルで売っているビーチサンダル>
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 日本で、680円で売っているものより質の悪い「粗悪品サンダル」がこの値段。後で、ダウンタウンの庶民が買う靴屋で買いましたが、それでも14ドルもしました。

 観光客向けだけでなく、ここの物価が高いのだと知った次第です(ちなみに、その国の物価を知るには、靴の値段が一つのバロメータになるようです)。

 市内のタクシーも高い。ブロック別に料金が決められているようですが、メーターもなく、運転手のいいなり。市内の移動で4~5ドル。スクレの市内均一で4ボリビアーノス(約52円)に慣れてしまった私には、異様に高く感じる。

 施設の維持整備や傭人費などで多額の費用がかかる(私の泊まった)ホテルが1泊30ドルと、他の国・都市とそれほど変わらない値段なのに、観光客を取り巻く業種の人だけが暴利をむさぼっている感じがします。空港のタクシーが良い例です。

 ホテルのネットは、フロント付近だけ無線LANでつながります。他のホテルもいろいろ調べたのですが、部屋までLAN無線でつながるホテルはカンクンにはあまりないようです。

 パソコンを持ち出し、ネットで検索して、日本食を食べに行くことにしました。ホテル街にあるLa Islaというモールの中にあるようです。住所をメモし、タクシーに乗り込み、そこまでの値段を確認したら10ドルという。行き先がホテルでもらった地図の範囲外のため、この値段が妥当なのか分からないので、ホテルに戻り、受付で確認してもらいました。受付嬢が電話で確認してくれた結果は、妥当なものだということでした。それを聞いて戻ってみると、タクシーは既にどこかに去った後。別のタクシーを捕まえ値段を聞くと、7.7ドル。。結果的に2.3ドル安くなりました。

 モールに着き、モールの案内嬢にレストランの場所を尋ねると、そのようなレストランはないという。そんなはずはない。ネットで調べてきたといっても、聞いたことがないという。

 モールの案内板でレストランを探しても、確かに無い! 何なんだ! Googleの検索で上位にいるのにとてつもなく古い情報だった。既に廃業しているらしい。カンクンの情報は本当に少ない。ご参考までに、市内の『TADAIMA』という日本食&タイ食レストランは閉店しています。通りを歩いていて見つけたレストランでしたが、廃墟のようでした。

 看板だけはしっかり残っています。
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 しかたなく、近くの観光案内所で日本食レストランの場所を聞いて、路線バスで移動。7.5ペソ(0.6ドル)。

 ところが、降りる場所が分からず通り過ぎてしまったようです。仕方なく、途中で降りて、近くのレストランで昼食。レストランのボーイに聞いたら2.5Kmほど通り過ぎたらしい。でも、やはり日本食を諦めきれないので、食事の後、運動もかねて歩くことにする。と思いましたが、体力を温存するのが長旅では大切なので、考えを変え、再びバスに乗る軟弱なネコ師でした。

 バスを降りてしばらく歩くと、日本食レストランの看板が見えてきた。
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 うれしい。やっと久々の日本食が食べられる。でも、さっき昼食を食べたばかりなので、周辺を見て回ることに。

 超高級ホテルが建ち並ぶ一角。フロントで値段を尋ねると155ドル。繁忙期には300ドルくらい取るらしい。まあ、これだけの施設ならリーズナブルかなぁと納得。浜辺に出てみる。砂が細かい。久しぶりの海だ。わずかに打ち寄せる波、やはり海はよいと思う。
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 ボリビアには海がない。パラグアイにも海がない。外界を知らないことを「島国根性」という言葉で表すことがあるが、海のない国の人たちは「内陸国根性」があるように思う。やはり外界を知らない。隣接する国のことが最大の関心事となる。

 日本食レストランに戻る。きれいな作りだ。メニューを見る。違和感! 定食、麺類のようなものはなく、寿司だけ。それも、MIAMI巻きとかドラゴン巻きとか、へんてこなものばかり。調理人は日本人かと尋ねると、ウエイターはすまなそうに、「メキシコ人です」と応えた。少し不安を覚える。ウェーターにミックス寿司を注文する。

 しばらくして出てきた寿司は、一応、寿司っぽい。食べてみる。
・・・・・・。
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 もともと、あまり期待していなかったが、そのとおりの味だった。

 まず、
-しゃりの味付けが日本より薄い。これは欧米人向けの味付けなので、ある程度しかたない。パリの寿司はもっとひどかった。
-握りがきつい。まるでおにぎりのようにギッチリ握ってある。このため、食感が悪い。しゃりの形も見慣れた寿司の形ではなく、丸い。
-醤油の質が悪い。醤油の小瓶は「ヤマサ」になっているが、中身はブラジル製の安醤油だと思う。独特の臭みがあり、もし、日本で売ったらクレームの嵐だ。
-わさびが飛んでいる。いつ練ったのか分からないわさび。きっと大量に練って、使い回しをしているのだろうと思う。
-ネタもイマイチ。回転寿司の方が美味しいと思う。
 米が大好きな私が、1貫残してしまった。自分でつくった方がずっと美味しいと思いました。

 こんな分けで、この店は、早々潰れると思いました。ちなみに、コーラと寿司の値段はチップも入れて、20ドル強。

チチェン・イッツァのホテル


 一度は訪れたいと思っていたマヤの遺跡、チチェン・イッツァにやってきました。
 カンクンで、4日もボケっと過ごし、いよいチチェン・イッツァへ。ホテルにツアー会社の人を呼んで、決定! いつものように無計画。チチェン・イッツァに3泊くらいしたいなぁ、という程度の計画だったのですが、チチェン・イッツァからの帰りの日程も決めなければならなくなり、まじめに考えることに。

 カンクンで泊まったホテルは、部屋でネットが使えないのでとても不便。フロント近くだけ無線でつながるのですが、「蚊」がすごくて、とても長くはいられません。

 ネットでチチェン・イッツァのホテルを予約し、ツアー会社にチチェン・イッツァから戻る日を伝え、やっと準備完了です。

チチェン・イッツァのホテル: Hotel Villa Arqueologica Chichen Itza-

 チチェン・イッツァの遺跡から徒歩5分という好ロケーションにある。
 部屋もとてもきれいで、静かだし、大満足。レストランの食事も美味しいし、値段も手頃。

 ただ、フロントでチョット気になることがあった。
 チェックインの際、クレジットカードの提示を求められた。これはどこのホテルでもやること。ホテル側はカードのコピーを取った(カードを道具にはめて、ガチャンと押し型をとるやつ。請求書と領収書が印刷される)。ここまでも一般的。しかし、その後が違った。

 金額が入っていないその紙にサインをしろという。そんな要求は、世界中回った中で一度もなかったこと。なにしろこの要求は、「白紙の小切手にサインいろ!」と言っているものだから。下手にサインをしてトラブルが発生したとき、クレジット会社に責任追及されるのはサインをした本人。

 サインが本物なので記載された金額を支払いましたとクレジット会社に言われればそれで終わり。自分でトラブルの処理をすることになる。でも、どうやって。トラブルの金額よりも多額の費用がかかる。

 だから、サインはしない。現金で支払うことにした。他の人はサインをしていると見せてくれたが、ガードが甘すぎると思う。

 ホテル側に悪意はないかもしれないが、フロント係が退職の駄賃に悪さをするかもしれない。金額の入っていない請求書・領収書にサインをする人の気が知れない。

チチェン・イッツァへのツアー

7:10 ホテルピックアップ
8:10 バス待合所出発
10:45 CENOTE着
11:30 昼食(チチェン・イッツァのすぐ近くのドライブイン)
12:30 チチェン・イッツァ着
16:50 チチェン・イッツァ発 (ネコ師はチチェン・イッツァにそのまま滞在)

 私の場合は、ツアーに参加するものの、チチェン・イッツァに3泊する予定なので、片道だけだから安くならないかとツアー会社に聞いたら、値段は同じだという返事。その代わり、チチェン・イッツァからカンクンに戻る時に、観光バスに乗せてもらうことにしました。

 ガイドのJavier(ハビエル)は、知識が豊富で、良いガイドに当たったと思いました。訪日経験があり、成城大学で3年間教えていたそうです。バスの中は、スペイン語を話す人が6割、英語が4割という構成のため、スペイン語と英語の解説です。一方の言語で長く説明するのではなく、一つの文節毎に二つの言語で説明します。二つの言語を聞いて不足しているボキャブラリを補っていきますが、・・・、最初は聞いていて面白いのですが、段々疲れてきます。

 彼の言葉で印象的だったのは、マヤ文明はコルテスによって滅ぼされたのではなく、一人のマヤの女性によって滅ぼされたという言葉です。この意味は、過去記事「テオティワカン」シリーズをお読みください。

ツアー料金

 チチェン・イッツァのツアーは日帰り。料金は59ドル(セノーテ入場料、チチェン・イッツァ入場料(約10ドル)、昼食代を含む)。なんでも高いカンクンとしてはかなり安いツアーだと思います。バスは50人乗りの大型観光バスでとても快適でした。

 朝7:00にホテルに旅行社のバンが迎えに来て、バス発着所まで行きます。そこで登録して、大型観光バスの乗り込み出発。出発したのが8:10なので、1時間もここでロスします。まあ、こんなものでしょう。

 トゥルム遺跡・コバ遺跡・ツアー料金:69ドル。二カ所のマヤ遺跡を回るこのツアーは、ツアー会社でも一番の人気商品で、すぐに売り切れてしまうそうです。車両はバンで、私が参加したときは、ツアー客は計5名。出発は、水、金の週二回。
 日本語ツアーだと、これにプラス20ドルくらいが相場のようです。

 英語やスペイン語ツアーに入る時は、マヤ文明のボキャブラリを増やしておかないと、ガイドが何を言っているのか分からなくなります。でも、実際は、語学・ボキャブラリの問題よりも、歴史・科学の基礎を知っているかどうかのほうが大きいと思いますが。
 チチェン・イッツァに行ったとき、ACUIFEROという単語の意味をガイドが客に説明しているのでびっくりしました。スペイン語ネイティブの人たちでもこの意味を知らない人がたくさんいるようでした。ちなみに日本語では「帯水層」という意味です。
 
お土産

 チチェン・イッツァの遺跡内には、たくさんのお土産屋が店を開いています。ガイドが言うには、「彼らは税金も払わず、大変な大金持ち。違法なので決して買ってはいけない。出国の際に、税関から領収書の提示を求められたとき、彼らから買った物は領収書がない違法な商品として没収される恐れがある」とのことでした。まあ、出国の際、そのようなチェックは一切なかったですが。

 出国検査は相当ゆるい感じでした。でも、売り子の呼び込み値段は安い! しかし、カンクンのマーケットで数十ドルするものを「1ドルだよ!」と呼び込みをしているところが怪しい。実際、嘘です。

 カンクンよりは安いのですが、結構な値段です。他の観光客が買うのを見ていたら、「妥当な値段」まで値引きするようなので、交渉の価値はあります。値切り交渉は楽しいのですが、チチェン・イッツァの遺跡が広いので、体力のないネコ師は、それをするだけの余裕がないので、他の観光客がどう値切るのかを興味深く見ていました。

 ドイツ系? らいし観光客は、10分の1くらいに値切り、それでも買わないで、帰りに買うそぶりを見せていました。売り子は必死で、「帰りに、必ず買って!」と懇願していました。その価格があまりにも安いので私が買おうかと思ったくらいです。

 外国の観光地のお土産を買うときにいつも思うのは、そこでの価格ではなく、日本に持ち帰ったときのそのお土産の評価だと思います。つまり質の問題です。質が悪ければ、購入価格が高い、安いにかかわらず、狭い日本の家屋の中ではゴミ扱いになります。

 外国のお土産は、価格ではなく、質が重要だと思います。メキシコでもボリビアでも、同じデザインでも、『質』が違うものがあります。過去記事にある『ボリビアの指人形』は、私が6年前にスクレで買ったときは非常に質がよかったのですが、現在売っているは、粗悪品です。

お土産屋の村 Kaua

 チチェン・イッツァから15分ほどの所にKauaという民芸品の村があります。ここで作られた民芸品がメキシコ中に流通しているそうで、ここで買うと安い。ディスカウントに応じてくれるのがうれしい。大型バスが止まる大きな民芸品センターには、無数の民芸品が並んでいる。どれも質が高く、場末の民芸品店とは違う。レストランも併設されており、チチェン・イッツァ・ツアーの一部になっている。
 メキシコ政府の公認で、基金、組合を組織してしっかり運営しているようです。

 マヤの木製の仮面(Mascala)だけで数百も並んでいる。皆、異なったデザイン。同じものは一つもない。目移りする。大体、50ドル程度のようだ。その中でも別の場所に飾ってあった、ちょっと違った雰囲気のものがあったので値段を聞いたら、”高い”。作りが違うのだという。でも、気に入ったので買うことにしました。値切った結果が83ドル。ちと高いけど、カンクンの値段を知っているので、まだまだ安い。安いのを買うと、結局後悔することになるので質の良い値段の張るものを買う。カンクンで売っているものは防虫処理をしていないので、虫がわくとか。

銀の価格

 メキシコのお土産として有名なのは銀製品。
 メキシコ人は、銀を買うとき、「重さ」で買う。銀の種類は4タイプ。
  Starling 925  約3ドル
  Starling 950  約4ドル
  Diamond Silver 約6ドル
  Gold Silver 約7.5ドル

銀製品の加工
 
 Kaua村で銀製品の加工が面白いので見ていました。簡単な道具だけで作っているのに驚きました。「ふいご」の付いたアセチレンガスバーナーと針金だけでした。

 銀製品を加工した後、どうやってきれいに磨くのか興味津々。やり方はすごく簡単。 酸と塩と水を入れた溶液の中に銀製品を浸けておくだけ。この酸は特別なものではないと言っていましたので、家庭用の食酢で良いと思います。5分程度浸けた後取り出して、水洗いし、洗剤を付けたブラシでゴシゴシ擦るだけでした。これだけでピカピカの銀製品ができあがります。

 銀製品は錆びやすく、すぐに真っ黒になります。この方法で簡単に再生できるので、知っておくと良いのではないかと思います。

カンクンのホテル

 カンクン・その周辺には2週間の滞在予定だったので、最初は30ドルの安いホテルにし、それから徐々に高いホテルにしていきました。

 結局、4つのホテルに泊まったのですが、共通しているのは、
1.ネットが部屋では使えない(最後のホテルだけはネットが使えることを条件に選んだので使えましたが)。
2.蚊が多く、ロビーではとても長くはネット検索ができない。
3.新しいホテル、改装しているホテルがほとんどで、内部はすごくきれいで衛生的。
4.部屋の値段は、時期によって大きく変わる。
5.安ホテルはレストランがないので、食事に不便。コンビニの品揃えが悪く、食事に不便かも。
6.ホテルは、いろいろな料金プランがあり、また、割引プランもある。それを利用しないで泊まると高くつく。カンクンの場合、旅行社のパックプランがやはりお勧め。
7.朝食が入っていないプランだと、朝食に恐ろしく高い値段を要求される。朝食を食べる人は、必ず朝食込みのプランにした方が良いでしょう。

日本食 その2

 スクレに長期滞在しているので、観光地に行ったときくらい日本食を食べたい!

 花市、K'S CAFE、Yamamotoというレストランを渡り歩きました。どこもそれなりに美味しいと思いました。値段も高いですが。

 スクレは、標高の関係で、麺類は全滅状態。圧力釜がないと日本のような味になりません。カンクンで恐る恐る蕎麦を注文し、「日本の味だ!」と感動しました。スクレで蕎麦をつくると、とてもいやな味がします。スクレでのお湯の沸騰温度は92度です。この温度は、コーヒーをいれるには最適温度なのですが、麺を茹でるにはあまりにも低すぎます。「芯が残る」というレベルではなく、麺の表面の食感が全く違います。

 しかし、・・・・。
 今回の旅行で食べたお寿司の中で、一番美味しかったのは、マイアミの空港内で食べたお寿司でした。

閉口したこと

 カンクンで閉口したのは、チップ。どこに行っても当然のように要求されます。なぜ客が従業員の生活費を補填しなければならないのか、全く理解できません。某日本食レストランでは、17%のチップを要求します。従業員が低賃金だから、という問題は、雇用者と従業員の問題であり、本来、客には関係のないことです。

 特別に、荷物を運んでもらったりするボーイとは異なり、レストランのウエイタに対するチップのあり方には、大きな疑問があります。客が自分でサーブするというオプションはないわけですから。

 冒頭に書きましたカンクンがお勧めできないのは、たぶん日本人ならこのシステムにうんざりすると思うからです。物価が高いため、チップの額も相当の金額になります。

 世界中、あちこち行きましたが、カンクンほどこれを感じたところはありません。カンクンに長期滞在したせいでしょうか。

 マヤ遺跡を見るためにカンクンを訪れるのであれば、カンクンを基地にせず、別の田舎町を基地にした方が安くすみます。カンクンの物価はとにかく異常です。パック旅行をうまく使うのが得策で、個人旅行には向かない観光地です。

おまけ

 カンクンのダウンタウンを歩いていたとき、面白いのを見つけました。
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 横断歩道が、盛り上がっていて、車は必ず徐行します。このため、歩行者は安心して道路を横断することができます。

 カンクンで感心したことは、車のマナーが良いこと。クラクションを鳴らしたり、割り込みなどもなく、横断歩道の近くに人がいると、ほとんどの車が止まります。これはそのような規制があるのだと思いますが、皆、よく守っています。

posted by ネコ師 at 11:21| Comment(2) | メキシコ編 | 更新情報をチェックする

2010年01月29日

マヤ文明 コバ遺跡に行きました! 


 今日は、メキシコのマヤ文明のコバ遺跡です。写真と現地案内板に書かれていたことを中心にご紹介します。

位置

 コバ遺跡の位置は、下のGoogle Mapでご確認ください。トゥルム遺跡の北西です。


大きな地図で見る  (Source Google Map)

 コバは、70Km2の範囲を持ち、主要な建物群は、コバ湖とマカンソック(Macanxoc)の周辺に集中しています。これらは、「白い道(sacbeoob)」と呼ばれる長さの異なる重要なネットワークで接続されています。このネットワークは、スペイン人による侵略以前の集落や他の建物群ともつながっていました。

 最も特徴的なものとしては、Sacbé 1と呼ばれる道路で、その延長は100Kmに及び、YaxunáやChichén Itzáの近くまで延びていました。大部分の道路は、紀元後600年から800年までの間に建設されたものと考えられています。

 これらは、支配階級の基本的な出来事が登録された彫刻された石碑で、主要ゾーンから外れた郊外の一般階級住民は含まれていません。それらの居住は近代のマヤ族によって居住されたものとあまり異なっていませんでした。

 コバの人口は、8世紀には、約55,000人であったと想定されています。紀元後800年から1100年の間、建築はピークを迎えます。コバの伝統的な建築様式は、北部ユカタン半島のものよりグアテマラのペテン低地で見られる「ペテン様式」に類似しています。

ポスト古典期までに、コバは衰退し、Tulum、Xcaret、Tankah、El Reyなどのカリブ海沿岸の都市が栄えました。

Nohoch Mul Group

 このグループは、2,400m2の広さがあり、自然の高台に造られました。これは北部ユカタン半島の中でも最も高く、42mの高さがある。この建造物は、Nohoch Mul(1)として知られている。Nohochとはマヤ語で「大きい」、Mulは「塚」を意味します。

 Nohochは、南の側の丸コーナおよび2つの階段を備えた7つの身体で構成されます。

 上部の寺院は、後古典期(1100年-1450年)に建造されたもので、
 The temple corresponds to the Post-Classic period and in the niches of the facede one can observe a descending god.
寺院はポスト古典期間に相当し、ファサードもののスキ間の中で下へ向かって行く神を観察することができます。

 コバで最も多量の構造物であるGrand Platform(2)は、明らかに未完成である。建物x(3) The Building, stands Stele 30, the best preserved of all those found in Coba to date.

石碑30を立つ建物x(3)は、コバで現在まで見つけられたすべて耐もののなかで最もよく保存されており、紀元後780年11月30日の日付けが刻まれた石碑が見られます。

 以上、現地案内板の翻訳です。変な日本語なのはご勘弁を。

マヤ道

 『マヤ道』です。この道がチチェン・イッツァの近くまでつながっていたそうです。
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 かつても『マヤ道』も今は草木に埋もれてしまい、ガイドに言われるまで全く気づかなかったです。

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ピラミッド

 コバ遺跡の入口からすぐの所にあるピラミッド。ユカタン半島のマヤ遺跡のピラミッドは、ほとんどが登ることができません。以前は、チチェン・イッツァのピラミッドにも登ることができたそうですが、5年ほど前、観光客のマナーがあまりにも悪いため禁止されました。
 そうした中で、コバのピラミッドは登ることができると期待して来たのですが、・・・・。登頂禁止です。

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 球技場です。チチェン・イッツァの球技場はとても大きいのですが、ここの球技場はこじんまりとしています。このような球技場がこの遺跡だけで3カ所ありました。リーグ戦でもしていたのでしょうか。ゴールのリングが低く、その下が傾斜がついているのがチチェン・イッツァとは違います。

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 別の球技場です。サイズも形もほとんど同じ。なぜ3つもあるのか分かりません。もしかしたら4つあるのかも知れませんが未確認です。

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 最初のピラミッドの階段部分は、このように通路になっています。

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 登りたい! という気持ちを抑えて、写真だけです。

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 遺跡の内部には、このような神殿か寺院か分かりませんが、建物の跡がたくさんあります。

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ピラミッドに登る!

 コバのピラミッドも登れないのかと半ば諦めかけていたら、登れるピラミッドがありましたわーい(嬉しい顔)  コバ最大のピラミッドです。ついにピラミッド登頂ができます。感動です揺れるハート

 このピラミッドは、とても急な傾斜で、スクレで高地トレーニング済みのネコ師でも息が切れます。単に年のせいかも。

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 観光客が皆、「へっぴり腰」なのを見れば、ここがいかに急傾斜かわかると思います。

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 下から登ってくる女性たちは、一緒のツアーの子たちです。水色の縞の子はロスから、その下の茶色の服の子はロンドンからだそうです。二人とも美人でした。

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 前回の記事で書きましたように、ユカタン半島は基本的に平坦です。このピラミッドから360度見渡すことができます。この風景を見ていると、地球が丸いのだとはっきり分かります。マヤの人たちが地球が丸いと知っていたのは明らかです。

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 頂上の神殿です。

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禁断のピラミッドの裏側

 進入禁止のロープを乗り越え、こっそりとピラミッド頂上の裏側がどうなっているのか見てみました。

 切り立った断崖です。やはり、この時代のマヤの人たちは、ピラミッドの正面の加工だけに関心があったようです。
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 ピラミッドの階段の横の写真です。カープを描いた複層的なデザインで構成されているのが分かります。
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 ピラミッドの階段部分を横から撮影したものです。
 この写真から、何を想像しますか? なぜ直線的なのでしょうか?
 私も分かりません。でも、ピラミッドを形作るひとつひとつの構造、デザインには意味があるはずです。

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 この遺跡は、見張り台だったそうです。でも、ピラミッドに登れば360度見渡すことができるので、この見張り台の存在意義が今ひとつ理解できませんが。宗教施設と軍事施設の違いでしょうか。
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 せっかくカンクーンまで来たのだから、マヤの遺跡をいろいろ回ろうかと思ったのですが、私の関心のあった部分を見たので、チチェン・イッツァ、トゥルム、コバだけにしました。

 私の関心とは、石材をつなぐ糊材です。これを知るため、遺跡の発見当時の状態に関心がありました。どこまでがユネスコによる修復で、どこまでがオリジナルかということです。これが前々回の記事で遺跡発見当時の古い写真をアップしている理由です。

 結論から言うと、マヤ文明の遺跡には『漆喰』が使われているということです。セメントと漆喰は同じ石灰から作られますが、硬化のメカニズムが全く違います。セメントは水硬性ですが、漆喰は気硬性です。エジプトのクフ王のピラミッドにはこのような糊材が一切使われていません。クスコやマチュピチュなどのインカの遺跡も石組みだけで構造物を造り上げています。このため、マヤの遺跡は漆喰が使われているのが特徴だと思いました。

 チチェン・イッツァのククルカンのピラミッドが発見当時、ほぼ原型を保っていたのは、漆喰の効果です。18世紀の写真を見ると、ピラミッド表面の飾り石は剥離していましたが、その下の基材部分はほとんど崩壊していないことが分かります。前々回の記事をご覧ください。マチュピチュの写真は、「なんでも保管庫」に移動しましたので、そちらでご覧ください。ネコ師の関心がどこにあるのかがわかると思います。ついでに、フク王のピラミッドの記事も合わせてご覧ください。

 これに関連する詳しい解説は、そのうちまとめてしたいと思います。 
Wordがおかしくなり動かないのでメモ帳で書いているので、なんか変な文章があちこちにありますが、そのうち直したいと思います。
  
posted by ネコ師 at 11:12| Comment(0) | メキシコ編 | 更新情報をチェックする

2010年01月27日

マヤ文明 トゥルム遺跡に行ってきました


 メキシコのユカタン半島のカリブ海側にあるマヤの遺跡、トゥルム(Tulum)遺跡とコバ(Coba)遺跡に行ってきました。どちらもマヤ古典期の遺跡です。


大きな地図で見る  Source: Google Mpa

 トゥルムの遺跡は、チチェン・イッツァよりも古く、紀元前4世紀~紀元前3世紀ごろに造られたと考えられています。
 
 1519年2月、スペイン人侵略者コルテスの船団は、ユカタン半島コスメル島に上陸します。ここで、漂着していた二人のスペイン人生存者アギラールとゲレロに会うことになります。彼らがいたのが、ここトゥルムだったようです。コスメル島は、トゥルム遺跡の目と鼻の先です(この辺の話は、過去記事「テオティワカン」シリーズに書いています)。

 ここは非常に風光明媚な場所で地上の楽園といった感じです。ゲレロがコルテス軍に合流せずに、ここに留まった理由が分かる気がします。

 ユカタン半島には、マヤ語の地名がたくさん残っています。
 カンクン(Cancún)とは、蛇(Can)の巣(cun)という意味です。

 トゥルム(Tulum)とは、「城壁の町」と言われていますが、オリジナル名はZamaと言い、日の出を意味するそうです。

 また、コバ(Coba)は、Cob - há と発音し、Agua turbia(たぶん沼地の水と訳すのでは)という意味だそうです。

トゥルム


Tulum024


トゥルム遺跡


Tulum045


Tulum056_stitch


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Tulum89


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 コバやチチェン・イッツァの遺跡で共通してあるのがボール・ゲームの球技場です。これは、サッカーとバスケットボールを合わせたようなもので、コートの大きさによって人数は変わったようですが、1チーム3人から7人で試合をしたようです。手は使わず、足、膝、尻、肩でボールを運び、リングの中を通すと得点になるというゲームです。ボールは、ゴムの木から採取した「生ゴム」で作られ、重さは3Kgから8Kgもあったようです。メキシコシティの人類博物館に現物が保管されているとか。

 紀元前1500年頃、マヤ人は村をつくり、トウモロコシや豆などの栽培を中心とした農業を始めました。紀元後200年頃には、集団墓地の建設をはじめ、寺院、ピラミッド、宮殿、ボールゲーム競技場、広場などで構成される都市づくりが始まりました。古代マヤでは、大量の石材を用いて建築が行われ、石材の切り出しには、ガラス質溶岩が使われました。農業は基本的には焼き畑による粗放なものでしたが、一方で、灌漑やテラスなどの先進的な技術も使われていました。

 初期のマヤ文化は、初期オルメカ文化の影響が見られます。
 マヤ文化の最盛期には、40以上の都市があり、それぞれの都市に5,000~50,000人の住民が暮らしていました。中心的な都市は、Tikal、Uaxactún、Copán、Bonampak、Palenque、Río Becuなどでした。

 マヤの人口は、ビーク時には2百万人に達しました。紀元後900年頃から、マヤ文化は、突然衰退し、巨大な都市や集団墓地が放棄され、植物で覆われジャングルに戻っていきます。この理由として、研究者は武力闘争や農地の劣化による生産力の衰退を挙げています。900年頃から1519年までの間、ユカタン半島では、チチェン・イッツァ、ウシュマル、マヤパンのような都市は、他のマヤの都市が衰退する中で、何世紀かの間、繁栄し続けました。カリブ海沿岸のコスメル島はスペイン人がこの地域を侵略した時には、交易で栄えていたようです。

 マヤの古代都市郡は突然衰退し、歴史から忘れられていきますが、その理由の一つとして考えられているのが、13カトゥン(260年)毎に拠点を放棄して 移住したという暦の周期説です。実際、集落レベルでも52年毎に家屋を焼き払い、移住そうです。気候が温暖なため、家の構造も簡単なため、造り替えも容易だったとか。

 次回は、コバ遺跡です。メキシコはマヤ遺跡の宝庫です。

posted by ネコ師 at 05:22| Comment(0) | メキシコ編 | 更新情報をチェックする

2010年01月24日

チチェン・イッツァ


 チチェン・イッツァ(Chichén Itzá)に行ってきました。昨日カンクンに戻ってきたところです。ネコ師は、今、なんとメキシコのカンクンに来ています。

 チチェン・イッツァは、1988年に文化遺産としてユネスコの世界遺産に登録されました。久しぶりの世界遺産の記事です。いつも、世界遺産古都スクレだけでは、どうも力が入らない。

 チチェン・イッツァは、カンクンから車で3時間くらいの所にあります。なんと、今回、チチェン・イッツァに3泊もしました。遺跡を徘徊すること十数時間。世界遺産を堪能してきました。ホテルの予約は、『agoda』というインターネット格安ホテル予約サイトで予約しました。

 ウユニ塩湖の場合は、時期により塩湖の表情が変化するため、写真を大量にアップしましたが、チチェン・イッツァの場合は、いつ見ても同じなので、アップする画像は少なめにします。その代わり、昔の写真と比較できるようにしたいと思います。

 ユネスコの世界遺産の修復はすばらしいのですが、まるで「昨日造ったような世界遺産」になってしまうことがあります。まだ、このブログでアップしていない(アップするのを忘れていました)、パラグアイの『Jesuiticaのイエズス会の遺跡』は、まさに、昨日造ったかのようでした。

 チチェン・イッツァのような古代の遺跡を見るとき、遺跡の発見当時はどうだったのか、修復前はどうだったのかが、気になります。

チチェン・イッツァの歴史


 チチェン・イッツァの遺跡は古くから知られていましたが、ヨーロッパで知られるようになったのは、1843年に探検家、作家、外交官でもあるジョン・ロイド・スティーブンス(John Lloyd Stephens)によって出版された「ユカタンの旅の事物記(Incidents of Travel in Yucatan)」によってですが、一般に広く知れ渡ったのは、米国の駐メキシコ領事だったエドワード・トンプソン(最初に探索を始めたのは1885年。彼は当時25才の米国の駐メキシコ領事でした)の功績が大きいようです。彼は1904年から1910年にかけ、ユカタン半島にあるマヤ文明の遺跡を調査しました。チチェン・イッツァから二週間で、ガイドから聞き出した次の目的地トゥルムに到着しています。

 まずはチチェン・イッツァ遺跡の地図で大体の位置関係を把握してください。適当な地図がないので、現地案内図から作ってみました。

追記:位置図を大幅に改善しました。クリックすると拡大できます。

チチェン・イッツァ遺跡の地図


 スティーブンスは、チチェン・イッツァでは、エスタンシアと呼ばれるこの周辺の土地を購入し、1904年から『セノーテ』と呼ばれる神聖な泉の底をクラムシェルでさらい、また、潜水服を使って財宝を探しています。これは全く科学的なものではなく、この行為でたくさんの遺物が破壊されました。トンプソンは、こうして発掘した数千点の出土品を違法に米国に持ち帰っています。つまり、盗掘です。

神聖な泉 『セノーテ』


チチェン・イッツァ遺跡2010


 エドワード・トンプソンがセノーテの底さらいに使ったクラムシェル。チチェンイッツァ遺跡の入口付近(トイレの前)に陳列してあります。トイレに行く人はたくさんいますが、誰もこのクラムシェルに興味を示しません。
チチェン・イッツァ遺跡セノーテ掘削クラムシェル


 エドワード・トンプソンは、「El Castillo」と呼ばれているピラミッドの階段部分で、ピラミッド内部への進入路を発見し、そこで出土したものを”盗掘”しています。セノーテからの盗掘品は、ハーバード大学博物館に保管されていましたが、2008年、同大学館長の申出で、メキシコ政府に(その一部が)返還されることになったそうです。実現したかどうかは不明ですが。 → 案内板の写真で確認したら、案内板に2008年に返還されたと書かれていました。

 ガイドの話を元に書いているので、トンプソンが超悪者という感じですが、トンプソンのアシエンダは、1920年に不法に占拠され、彼の博物館は焼き払われています。この時期は、メキシコ革命の後の「革命収拾の時代」だっとという時代背景があり、「不法、違法」という言葉は、書いていてもむなしく響く感じがします。

チチェン・イッツァ遺跡2010_5


 ピラミッドの階段は、91段あります。これが4面あるので、合計で364段。これに最上階のステップを加え、365段、つまり一年を表しています。このピラミッド自体が、世界最大のカレンダーと言われているゆえんです。エジプトのクフ王のピラミッドでも、同じような論理を展開している研究者がいますが、どうもこじつけのように思います。

チチェン・イッツァ遺跡ピラミッド136


2010_0120_002IMG_0002.JPG


チチェン・イッツァ遺跡2010_91


 チチェン・イッツァの本格的な考古学的な調査および修復は、1924年に米国のカーネギー研究所が行ったもので、これは「チチェン・プロジェクト」と呼ばれ、20年間も続けられました。

 このピラミッドの修復当時の写真です。たぶん、1920年代だと思います。階段部分が相当崩れていますが、頂上の建物もしっかり残っています。

チチェン・イッツァ遺跡ピラミッドの修復時画像


天文観測所(Caracol Observatorio)

 Caracol Observatorio(巻き貝の観測所)と名付けられている天文観測施設施設と思われる遺跡です。
 下の写真は、19世紀中頃に撮影されたものです。
チチェン・イッツァ遺跡カラコル天文台


 これが現在の状態です。1850年代とほとんど変化がないのが分かります。チチェン・イッツァ全体で言えることですが、遺跡の修復は、発見当時の状態への復元までに留めているという印象です。ピラミッドだけは、大幅に復元されていますが。

 この修復作業は、周辺の住民が無償で働いたとガイドが言っていました。
チチェン・イッツァ遺跡カラコル天文台46


チチェン・イッツァ遺跡2010_8


 下の写真は、「戦士の神殿」の、やはり19世紀の写真です。ネコ師が勝手に着色していますが。
チチェン・イッツァ遺跡古い写真1


 これが現在の写真です。観光客が少し邪魔なので、"消えて頂きます"(笑)。

戦士の神殿gifアニメ


 マヤ文明の研究は近年急速に進んでおり、数年前の常識が通用しなくなっています。5年後にはまたマヤ文明の別の側面が明らかになるかも知れません。マヤ文字の解読が進んでいるのが原因のようです。

「チチェン・イッツァ」とは

 『チチェン・イッツァ(Chichén Itzá)』とは、マヤ語で魔法使いの井戸口という意味です。「イッツァ」の最後の音節にアクセントがあり、「イッツ ハー」と発音するそうです。
  Chi (boca) 口
  Chen (pozo)  井戸
  Itz (magos) 魔法使い
  ha (agua)  水

 20年前、15の大学が共同してメキシコのカリブ海沿岸にあるセノーテの調査を行いました。その結果、世界一長い洞窟であることを確認しています。

 5年前、Tulumで3つの墓が見つかっています。そのうちの一つは女性のもの。炭素14による測定結果、紀元前1万年という驚くべき年代をはじき出しています。ただし、炭素14による年代測定法は、古い年代ほど、より古く計測してしまうため、このデータをそのまま信用することはできないのですが、世界の四大文明に匹敵するものであることは間違いないようです。マヤ文明、インカ文明ともに、中南米の文明は、比較的新しいと考えられてきましたが、新たな遺跡が次々と見つかっており、その起源は、どんどん過去にさかのぼっています。これが、マヤ、インカ文明ファンの心を掻き立てます。

 スペイン人侵略者、教会によって破壊されたため、数少ないマヤ文明の情報の中で、バイブルと言われているのが「PoPol VUH」。グァテマラのキチェ(Quiché)地域に住むインディオの神話です。
 1550年頃にマヤの神話を口述筆記したもののようですが、マヤ語とラテン語で表記された原本は失われました。18世紀前半に修道士フランシスコ・ヒメネスによって写本されてものが、現存する最古のもののようです。  

 マヤの神話は、マヤ、アステカなど地域と時代を越えて、基本的には共通しているようです。マヤの最高神ククルカン(羽毛のあるヘビの姿の神)は、テオティワカンで見ることができる「ケツァルコアトル」と同じものです。「ククルカン」と聞いて思い出すのは、漫画「からくりサーカス」に出てくる巨大なあやつり人形。マヤ文明の歴史を知ると、漫画の鑑賞にも厚みが増します(笑)。

 メキシコの文明については、過去記事「テオティワカン」シリーズで書きましたので、そちらもご覧ください。

 チチェン・イッツァの遺跡は、「マヤ」のものが50%、残りの50%が「トルテカ」のものだそうです。この二つの文明では、建築様式が微妙に違います。マヤ様式では、建物の角を丸くし、トルテカ様式では、角張ったものにします。ピラミッドがその典型で、四角錐の角が丸く加工されているのが分かると思います。また、マヤ様式では、建物の天井を高く造るという特徴があります。ピラミッドの頂上の神殿らしきものは、天井の高さが6メートルもあります。

球技場

 ピラミッドの近くにボール・ゲーム場(球技場)があります。これは、バスケットとサッカーを組み合わせたようなゲームで、時代を越え、マヤ文明の重要なゲームだったようです。この勝者は、生け贄にされたとの説もありますが、諸説あるようです。チチェン・イッツァの球技場はとても広く、162m×52mの広さがあります。矢印で書いているのがゴールのリングです。このリングに、手を使わず、足、腰、肩、頭だけで入れなければなりません。ボールは生ゴムから作られたもので、重さは3Kg(我々のガイドは8Kgと言っていました)もあり、ヘディングしたらむち打ち症になりそうです。
ボールゲームをデザインした壁掛け画像


緯度の謎

 チチェン・イッツァの緯度は、北緯20°40′58.15″
 テオティワカンの太陽のピラミッドは、北緯19°41′32.54″その差は、わずかに1度弱で、同一緯度上にあると言えると思います。チチェン・イッツァと同じ緯度にあるピラミッドとしては、やはりユカタン半島にあるEdznáのピラミッド。これは、北緯19°35′48.08″で、そのズレはわずかに6分です。

 数万キロに及ぶ『インカ道』は有名(これも過去記事でご紹介しています)ですが、マヤもこれに劣らぬ道路を造りました。カリブ海側のコバ(Coba)からチチェン・イッツァまで、幅10mの「マヤ道」がまっすぐに延びていました。このコバにあるピラミッドの緯度は、北緯20°29′39.49″。ほとんどブレがなく、カリブ海側のコバから、チチェン・イッツァ、そしてメキシコ高原のテオティワカンを同じ緯度上の直線で結ぶことができます。

 ユカタン半島は、非常に平坦な地形のため、山がなく、山のように見えるのは遺跡と考えられています。このような未発掘の遺跡群は、ユカタン半島だけで1万カ所に及ぶということです。マヤ文明の調査は、まだまだ始まったばかりで、今後の研究が待たれます。

 ガイドの話を聞いていて面白いと思ったのは、メキシコ人にとって不評なのは、前出のトンプソンともう一人、マヤ族の女性。アステカは、コルテスによって征服されたのではない。青い目を持ち、ひげを蓄えたコルテスに恋したマヤ族のたった一人の女性マリンチェによって滅んだと。スペイン人のコルテスの目の色が青かったとは思いませんが、マリンチェはコルテスとの間に子どもをもうけ、その子孫はメキシコに現在もいるようです。ここら辺の詳細は、過去記事「テオティワカン」シリーズをご覧ください。

ピラミッドの配置

 上の地図で赤い線を引いているところをご覧ください。北と南のセノーテの線上にピラミッドが配置されているのが分かります。ユカタン半島は非常に平坦なため、建物の建設位置や方向は地形に左右されるということはありません。つまり、その配置・方向には何らかの意味が込められているのだと思います。こういう考えで線を引いてみたのが上の地図です。

 ピラミッドは、その4辺を東西南北にほぼ向けています。正確に東西南北ではないのには理由があるのだと思います。春分の日と秋分の日にククルカンの降臨が見られるのは、北東側の階段です。これを演出するために、微妙にピラミッドの角度を東西南北の基軸からずらしたのかもしれません。

 いつか詳しく説明したいと思いますが、測量の基本は、「見通す」ということです。これは昔も今も何ら変わっていません。「見通す」という行為には、ほとんど誤差が発生しません。「驚異的な精度」と言われることも、別に不思議でも何でもありません。無限遠の恒星、太陽を使って見通す限り、望遠鏡がなくても精度が高いのが当たり前だからです。計算すると驚異的な数字がはじき出されます。小学生がやっても(笑)。

 二つのセノーテの間に造られたピラミッド。その位置は二つのセノーテの中間ではなく、南側に大きくずれています。なぜこの位置に造ったのか、必ず意味があるはずです。星座の配置・比例と関係があるのかも知れません。あるいは、全く想像もできないような意味を含んでいるのかも知れません。はっきりしていることは、ピラミッドのような中心的な構造物の配置は、緻密な計算によって決められているということです。「見通す」ことが可能な場合、基線からずれているということは、何らかの重要な意味が含まれているのだと思います。

 マヤ族の家は、52年経つと破壊され、新たな家を建築したそうです。マヤ文化の都市が放棄された理由は、もしかしたら、この52という数値に関係あるのかも知れません。その場合の計算方法は、10進法ではなく、20進法かもしれません。

 マヤに関する本はたくさん発刊されていて、チチェン・イッツァのサービスセンターの中のブックコーナーだけでも100種類以上ありました。チチェン・イッツァには、4日もいたので、もう来ることはないと思いますが、今後の研究の成果が楽しみです。
 
 ピラミッドに登れるのなら、また行っても良いのですが・・・。


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2008年10月23日

世界遺産 古代都市テオティワカン遺跡2


 前回の記事『世界遺産 古代都市テオティワカン遺跡』の続きです。
 今回は、テオティワカンの写真を主体に掲載します。

 この遺跡はとても広いので、まず、迷子にならないように、Google Earthで位置関係を確認しましょう。

 クリックすると巨大画面が開きます。
Tiotihaucan_google2008.jpg

 ここを訪れた当時は、ユネスコにより修復されて間もないころで、ぴかびかの遺跡でした(爆)
 ユネスコの修復技術はすばらしいのでしょうが、あまり完全に修復しようとすると、まるで昨日造ったような「古代遺跡」ができあがります。

 下の写真は、3枚の写真をつなげて、パノラマ写真にしました。たぶん、つなぎ目は分からないのではないかとおもいますが。

 今の写真修正ソフトを使えば簡単にできます。

 当時、35mmの標準レンズで撮影し、将来パノラマになるように考えて撮影したものですが、まさか現実に3枚の写真がつながることになるとは驚きです。

 この写真はクリックすると大きくなります。
 継ぎ目をチェックしてみて下さい。全体を融合しているので継ぎ目は見えないと思います。

テオティワカンパノラマ写真

 こんな広角で撮れるカメラはないと思います。貼り合わせているから周囲の歪みがありません。
 太陽のピラミッドの頂上から撮影した写真です。

Tiotihaucan 太陽のピラミッドの頂上から撮影

太陽のピラミッドの頂上から

Tiotihaucan_B02.jpg

Tiotihaucan_B03.jpg

Tiotihaucan_B04.jpg

Tiotihaucan_B05.jpg

Tiotihaucan_B06.jpg

Tiotihaucan_B07.jpg

Tiotihaucan_B08.jpg

Tiotihaucan_B09.jpg

 テオティワカンの標高は2,250m。ピラミッドの上まで登るのは息が切れます。

 1971年の調査で太陽のピラミッドの下に自然洞窟が発見されました。七つの洞窟が花びらのように広がった構造で、4つの扉があるそうです。つまり、洞窟の上にピラミッドが造られたということです。

 テオティワカンとはナワ語で「神々の都」を意味します。
 ナワ語はメキシコ先住民ナワ族(ナウワ族)の言語で、現在でも100万人以上によって話されています。

 テオティワカンの研究は行われているものの、歴史・文化についてはまったく伝えられていません。 テオティワカン人とはどのような人達だったのかはまったく分からないのです。アステカ人がこの地を訪れたときには何百年も前に廃墟となったテオティワカンの遺跡を目にしたにすぎません。

 エジプトの歴史は次第に解き明かされてきています。それは、文字が残っていたからで、かなり詳細に古代の歴史をさかのぼることができます。

 一方、マヤなどの文明では、絵文字が使われました。これは、メモ的なもので、それを説明する語り部が必要でした。絵文字は多くのことを語っているのでしょうが、語り部を失った現代の人達には、本当の意味は理解できません。

 ・・・・と、この記事を書いた当時は考えていたのですが、最近は研究が進んでおり、マヤの絵文字の解読もかなり進展しているようです。機会があれば詳しく調べてみたいと思います。



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2008年10月20日

世界遺産 古代都市テオティワカン遺跡


 今日、ご紹介する古代都市テオティワカン遺跡(Teotihuacan)は、メキシコシティの近郊にある遺跡です。1987年に世界遺産(文化遺産)に登録されました。

 前回の記事に地図を貼っていますのでご覧下さい。

 テオティワカンは、メキシコシティから車で1時間あまりの距離にあり、観光スポットとして、多くの観光客でにぎわっています。

 しかし、実際には、人はまばらにしかいないように見えます。
 それはこの遺跡が巨大だという証でしょう。

 テオティワカン文明は紀元前2世紀から紀元後7世紀にかけて栄えた文明で、5世紀ころに最盛期を迎えたといわれています。

 メキシコ湾岸で栄えたオルメカ文明の衰退後、テオティワカンは地方の小さな祭祀センターを持つ集落として登場しましたが、紀元後あたりから勢力を拡大し、強大な宗教としへと発展していきました。

 テオティワカン遺跡は、「死者たちの通り(La calle de Muertos)」と呼ばれる長さ5Km、幅45mの直線道路が南北に通り、北側の行き止まりに「月のピラミッド」、手前に「太陽のピラミッド」、さらに南側の起点部にケツァルコアトルの神殿が配置されています。これらを中心に周囲20平方キロにわたる都市が計画的に建造され、最盛期は20万人もの住民が居住していたと言われています。

 「死者たちの通り」を道路と書きましたが、実際は道路ではないようです。平面図で見れば直線ですが、途中、3カ所、2、3メートルの大きな段差があり、よじ登らないと通れません。

 一説では、道路のような部分に「一面、水を溜めていた」という説もあるようです。これなら、路面を水平にする必要があるので、段差ができる理由の説明が付きます。

注:私は独断でLa calle de Muertosを「死者たちの通り」と訳しています。一般には「死者の大通り」と日本では言っているようです。
 12世紀頃、この地を訪れたメシカ人(後のアステカ人)は、既に廃墟になったこの遺跡を目にしています。荒涼とした廃墟の中のこの巨大な通りを「死者達の通り」と名付けた理由が分かるような気がします。

「死者たちの通り」。 「月のピラミッド」から南方向を望む
ティオティワカン

 もし、水を溜めていたとしたら、きっとこんな眺めだったのではないでしょうか。(グラハムハンコックの『神々の指紋』をイメージに加工しています)。手前が「月のピラミッド」。左手が太陽のピラミッドです。

Calle de Muertos

死者たちの通り(La calle de Muertos) 「月のピラミッド」を背にして南側を望む

Teotihuacan死者の通り

「月のピラミッド」 高さは46m。

Teotihuacan月のピラミッド

「月のピラミッド」

Teotihuacan月のピラミッド

月のピラミッドの前の「月の広場」に立ち並ぶ祭壇群

Teotihuacan月の広場

「太陽のピラミッド」 高さは65m。
 総体積ではクフ王のピラミッドをしのぐ。当時は頂上部に祭壇があり、おぞましい儀式が執り行われた。

Teotihuacan太陽のピラミッド

『太陽のピラミッド』の頂上から『月のピラミッド』を見下ろす。

Teotihuacan『太陽のピラミッド』の頂上から『月のピラミッド』を見下ろす

 テオティワカンには三回行きました。何度でも行きたくなる場所です。周囲には何もなく、突然、遺跡が出現するところや、何といっても大きなピラミッドが二つもあるところが気に入っています。しかも、登頂できる!

 テオティワカン遺跡については、少し長い記事になります。続きは、『世界遺産 古代都市テオティワカン遺跡2』でご覧下さい。


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posted by ネコ師 at 21:20| Comment(4) | TrackBack(0) | メキシコ編 | 更新情報をチェックする

2008年10月19日

古代メキシコ文明とアステカ帝国の滅亡


このブログは、猫と世界遺産のブログなのに、世界遺産の記事が少ない!
本当はもっと書きたいのですが、写真がないので書くことを躊躇しています。

以前、世界各地に行った時は、デジカメではなくフィルムの時代だったので、古い写真はすべてプリントしたものです。デジタル写真が手元にないのです。

でも、そこは現代の技術で、簡単にデジタル化できます。
先日、ネガをプリントし、写真をデジタル画像に大量復元しました。

以前から書きたかった世界遺産の一つが、メキシコの『テオティワカン遺跡』

私は、世界各地の世界遺産の中でも、エジプトのピラミッドとこの遺跡に特に惹かれます。テオティワカン遺跡へは3度行きました。

なぜ惹かれるのかと聞かれても明確な答えはないのですが、強いて言えば「誰も知らない文化」だからかも知れません。

最近知ったことですが、「文化」の定義も色々あり、文化とは「コミュニケーションョン」であるとか、「景観」であるとか、様々な定義が存在します。

いずれにしても、人間の活動が密接に関わることに違いはないようです。

しかし、この両者に共通するピラミッドという遺跡からは、人間の活動が見えてきません。
宗教の匂いが色濃い遺跡ということでしょう。

中南米の遺跡というと、マヤとインカを連想します。しかし、メキシコの場合は少し複雑なので、古代文明をおさらいしておく方が良いと思います。

 メキシコの場合、5つの地域に分けて文明の興亡を見る必要があります。

【1.メキシコ中央高原】
  テオティワカン(紀元前2~紀元後7世紀)
  トルテカ(10~12世紀)
  アステカ(14~16世紀前半:スペインの征服)

【2.メキシコ湾岸】
  オルメカ(紀元前9~紀元前3世紀)

【3.オアハカ】
  サポテカ(紀元前2~紀元後7世紀)

【4.ユカタン半島】
  マヤ(紀元前2~紀元後8世紀)
  トルテカ・マヤ(8世紀~16世紀前半:スペインの征服)

5.グアテマラ/ペテン地域】
  マヤ(紀元前2~紀元後7世紀)

メキシコの地図

メキシコ文明文化圏の地図
右斜め上この地図は自作です 揺れるハート

次回、ご紹介するメキシコ中央高原のテオティワカン文明は、メキシコの文明の中でも比較的新しく、紀元前2世紀ころに始まり7世紀ころに滅んだとされています。

メキシコで最も古い文明は、メキシコ湾岸地域でBC.800年頃から栄えたとされるオルメカ文明と言われています。

メキシコと言えば『マヤ文明』というイメージが強いのですが、マヤ文明は、ユカタン半島からグアテマラ、ホンジュラスにかけて栄えた文明です。

スペインのコルテスの侵略によって、メキシコで当時栄えていたアステカと分裂状態にあったトルテカ・マヤ(マヤパン)という二つの文明が滅びました。

この時のコルテスの軍勢はわずかに四百五十人。
なぜ、こんな少人数の軍勢で数万のアステカ軍に勝つことができたのでしょうか。

これが私の疑問でした。今日は、このことを書きたいと思います。

実は、コルテスの軍勢はもっといたのです。アステカに不満を持つインディオ数千人が参加しています。

では、どうやってコルテスは彼らインディオを味方に付けたのでしょうか。

ヨーロッパ人がアメリカ大陸を(再)発見したのが1492年。
コルテスがメキシコ征服の野望を抱き、ユカタン半島に上陸したのが1519年2月。

スペインは、この間多くの探検隊を派遣しています。
コルテスがメキシコに上陸する8年前の1511年、サント・ドミンゴへ向け航行中のスペイン船がジャマイカ沖で座礁し、数名人の乗組員がユカタン半島のコスメル島に漂着するという海難事故がありました。

この乗組員のうちアギラールとゲレロが生き残りました。
その後、この二人は全く違った人生を歩むことになります。

アギラールは通訳としてコルテスの軍隊に参加し、後にスペインに帰国し高位の官職に就きます。  一方、現地にとけ込んだ生活をしていたゲレロはスペインへの復帰を拒否し、生涯、マヤの人達と暮らすことになります。

コルテスは、アギラールが通訳として参加したこと、さらにマヤ語とナワトル語(アステカの公用語)の二つに通じた先住民女性を確保したことで、現地部族やアステカとの接触にあたっては、アステカ語-マヤ語-スペイン語に訳することでコミュニケーションが可能になりました。

コルテスは、反アステカの部族と同盟を結び、アステカの首都テノチティトランに到着した1519年11月には、現地インディオが数千人、1521年の首都陥落の時には数万の反アステカ部族のインディオが参戦しています。

数百人のスペイン人だけではなかったということです。
そして、コミュニケーションを可能にしたアギラールの存在が重要な鍵となっています。

今日はここまで。
次回は、いよいよテオティワカンです。

posted by ネコ師 at 20:10| Comment(4) | TrackBack(0) | メキシコ編 | 更新情報をチェックする

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