2012年11月08日
世界遺産:ジェセル王の階段ピラミッド
エジプトのピラミッドシリーズの記事です。
エジプトで撮影した写真の入ったハードディスクが突然死し、失われたと思っていた写真でしたが、用心深いネコ師は、CDにバックアップをとっていました(汗)。
今日は、ギザ台地のスフィンクスの南東13kmに位置するジョセル王の階段ピラミッド(Pyramid of Djoser)をご紹介します。
まずは、位置関係から。
Google Earthで見ても分かるとおり、カイロの近くにカッサラと呼ばれるピラミッドがたくさんある地区があります。カイロ市内からは30km程度。普通の乗用車(タクシー)で行くことができます。ネコ師は知人の自家用車で行きました。
カイロの年間雨量をご存じでしょうか。たったの10mmです。ほとんど、雨が降らないということです。このため、ペットボトルの水は必需品です。エジプトでは汗をかきません。すぐに蒸発してしまうからです。このため、遺跡巡りには水分の補給が何より大切です。
カッサラ地区(7km×1.5km程度の区域)にはピラミッドが密集しています。有名なものだけでも、階段ピラミッドの他に、赤いピラミッド、屈折ピラミッド、崩れピラミッドがあります。
サッカラは、アラビア語(英語も同じ)で、Saqqaraと表記します。なぜ、日本語でカッサラと表記するのか分かりません。このように、音自体が異なると、旅行したときに困ります。
カッサラは、古代エジプトの首都であったメンフィスのネクロポリス(necropolis、巨大な墓地または埋葬場所)でした。サッカラにたくさんあるピラミッドの中でも有名なのがジェセル王の階段ピラミッド。ギザ台地にある四角錐の真正ピラミッドとは異なり、その形状は階段状になっています。
では、それ以前のピラミッドはどうかというと、墓地は日干し煉瓦を用いたマスタバと呼ばれる方形の墳墓でした。
このピラミッドの地下には、深さ28メートルに地下室が設けられており、王の遺体を納める玄室があります。危険なため、中に入ることはできません。また、ピラミッドの直ぐ脇には、ピラミッド・コンプレックスと呼ばれる付帯建造物があり、中を見学することができます。
このように、従来のマスタバ形式からピラミッド・コンプレックス形式に変更された理由は、王の墳墓としての神格性を持たせるためと言われています。
2012年07月14日
ナイル河クルーズの想い出
今日は、エジプトに行った時のナイル河クルーズについて書きます。
クルーズと行っても、カイロのナイル川沿いの港からナイル川を2時間程度うろうろするだけの旅ですが、なかなか楽しめました。
下の写真は、船からナイル河河岸を撮したものです。
かなり昔のことなので、料金も船に乗った場所も忘れてしまいました。
カイロに住んでいる日本人に誘われ、物見うさんで出かけました。
船は、二階建てで、大きさは、・・・、よく分かりません。たぶん、200~300人は乗れると思います。
船の入り口には、金ぴかの像が出迎えてくれます。
ついでに、金ぴかのオベリスクもあります。
ナイル川をゆっくり下りながら、その間、食事とダンスを楽しみます。
食事は、何を食べたのか覚えていないのですが、美味しかったと言うことだけ覚えています。エジプトの料理は結構美味しいです。
受付のお嬢さん。写真よりも美人でした。
食事の後は、ダンス。エジプトのダンスと言えばベリーダンス。
下の写真の踊り子さんはとても美形でナイスバディの持ち主。ネコ師はすっかり親爺丸出しで、食い入るように見ていました。「クルーズって最高!」
親爺のネコ師は、さらに観察を続けます。踊り子の衣装が気になりました。どうして激しい踊りをしてもブラが落ちない? はみ出さない? 下の写真は、ネコ師が執念で撮った画像です。トリミングをしたのではなく、このままの画像です。暗い中、奇麗に写っています。
観光客を楽しませてくれる衣装でした。
踊り子は、男性もいます。
腰のところにケープのような傘のようなスカートをはいています。回転するたびに、これが広がり、不思議な形と模様を描き出します。
船から外を覗いていたら、船着き場近くのホールで結婚式をあげていました。よその人の結婚式は微笑ましいです。見ている方も幸せのお裾分けを頂いたような気分になります。
ナイル河クルーズは、「アスワン~ルクソール」のものが有名なようです。
ところが、ネコ師は船に弱いので、船の長旅は苦手です。船酔いはしないのですが、船を降りてから、「陸酔い」をします。地面がぐらぐらして気持ち悪くなります。治るのに一週間くらいかかります。
カリブ海クルーズの時は、2泊3日でした。船から下りた後、地面が揺れているので、どうしたんだろうと思いました。身体が船の振動を覚えていて、陸に上がってからもそのリズムが続きます。これは結構つらいです。
カイロに行くことがあったなら、また、乗ってみたいクルーズでした。
2012年06月11日
スフィンクスの画像
ギザの大スフィンクスを写真に撮ろうとしてもなかなか良いアングルで撮るのは難しい。
そこで、良いアングルとベストショットを勝手につくりました。
ちなみに、このアングルでは大ピラミッドは写りません。
らくだに乗った警官は、こんな場所を歩くことは不可能です(笑)。
次に、スフィンクス。スフィンクスは、どう見てもセサールにそっくり。
飼い主の思い込みですが、凛々しいセサールにスフィンクスは良く似合います。
別バージョン。建造当時のスフィンクスです。
2012年06月02日
世界遺産:ギザの三大ピラミッド(Giza Necropolis その6)
ギザの三大ピラミッドシリーズも第6回目を迎えました。
今日の記事は、お待ちかねのネコ師の独自理論を展開します(誰も待っていないか?)。
1.内部トンネル説への反論
フランス人建築家ジャン・ピエール・ウーダン氏の提唱する「ピラミッドは内部トンネルで建造された」とする説が注目を集めている。BSでも特集したらしい。
この説を始めて聞いた時、ウーダン氏の主張する意味が分からなかった。ネットで読んだだけなので。ところが、Youtubeにアップされている「ピラミッドはこうして造られた」を見て、考えが変わった。この説は、とても優れていると。
ウーダン氏は技術的な課題をきっちり説明しているが、その説をネットで紹介する人がその意味を理解していない。
ウーダン氏の仮説の優れている点は以下の通り。
(1) ピラミッドの外壁を造り、その内部に石材の運搬通路を造ることで、ピラミッド外周に造られる足場を最小限にすることができること
(2) ピラミッドの四つの角を石材の方向転換のためのオープンスペースとしていることで、作業員の入れ替えや通路内で発生する粉じんの問題を解決していること
(3) 重量軽減の間に使われる巨大な梁材の運搬方法、さらに、大回廊の使途を「釣り合い重り」の上昇下降施設として、始めて明確な証拠と共に示したこと
(4) キャップストーンの設置方法を示したこと
この仮説は、非常に説得力があり、ネコ師が口を挟む余地がありません。
しかし、それでは面白くないので、この仮説のあら探しをしてみましょう。
2.大回廊の表面加工の必要性
大回廊は、とても緻密な石組みで組まれており、それは8メートルの高さのある天井部まで同じ造りです。壁面は磨き上げられ、とてもキレイです。もし、ウーダン氏の大回廊エレベータ仮説が正しいのなら、大回廊は仮設用の施設であり、天井までこれほどの石材加工を施す必要はありません。大回廊以外のピラミッド内の通路の出来が悪いことからも、大回廊全体の石材加工の精度の高さは特異です。
考えられることは、大回廊は、仮設としても使ったが、本来目的は別にあった、ということです。
これほどの施設を釣り合い重り用の仮設のためだけに造ったとは考えられません。
大回廊の傾斜角は26度34分です。釣り合い重りの仕掛けなら、51度50分の傾斜を持つピラミッドの外壁の低位部を使うことも可能です。その方が作業も仮設の撤去も容易です。
釣り合い重りの仕掛けをピラミッドの高い位置に造る必要は全くないのです。つまり、ウーダン氏の仮説では、なぜ、現在の大回廊の位置に釣り合い重りの仕掛けを造る必要があったのかが説明できないのです。
しかし、ウーダン氏の仮説は説得力があります。そうであるのなら、大回廊は、あの位置に造らなければならなかった別の理由があり、それを重量軽減の間の梁材の運搬にも使ったというのが本当の所ではないでしょうか。
では、本来の目的とは何だったのでしょう。あれほど精巧な表面加工を施した石材を天井まで施した大回廊は、何の目的で造られたのでしょう。
ここで、見方を変えてみましょう。
大回廊の緻密な石組みは、水も漏らさぬ造りです。そして、王の間も同じ造りです。しかし、それ以外の通路は、それほどの精度で造られていないようです(途中までしか行けなかったので全体は確認していませんが)。
この「水も漏らさぬ造り」を必要とした理由は、王の玄室と大回廊に液体を満たす必要があったからではないでしょうか。水密性を保つために、石材のすべての面をきれいに成型したのではないでしょうか。
大回廊から落とされたと思われる巨石により大回廊に至る上昇通路は確実に密閉されています。つまり、王の玄室と大回廊は一体構造の密閉されたひとつのシステムとして成り立っていたのではないでしょうか。そこに液体を注入するために、王の玄室には「空気孔」といわれる穴が外部に通じています。この穴は空気孔ではなく、液体を注入するためのパイプの役割を果たしていたのではないでしょうか。
3.重量軽減の間の秘密
ネコ師が以前から不思議だった構造物に重量軽減の間があります。その機能は、「巨大ピラミッドの重量が王の玄室にかかるのを軽減するための装置」と理解されており、それに対して誰も疑問を呈していません。しかし、ピラミッドの構造上、このような施設が本当に必要なのでしょうか。
もし、必要であるとするのなら、王の玄室よりもさらに下部にあり、ピラミッドの重量を支えるべき王妃の間の上にこそ造られるべき施設です。王妃の間の上部にこれと類似した施設があるとは聞いたことがありません。
つまり、重量軽減の間の目的は、別の所にあるのです。それは、リザーバータンクとしての役割です。水密性のある王の玄室と大回廊に注入された液体は、そのままではいつかはなくなります。それを常に補うためには、この上部にタンクを設けるのが常識でしょう。
4.王妃の間の役割
ここまで見てくると、王妃の間の役割が見えてきます。
王妃の間は、王の玄室と大回廊というシステムから漏れ出した液体を貯留する施設です。だから、王妃の間の内部を仕上げる必要がなかったのです。そして、王妃の間から伸びるシャフトは、この液体を再び「重量軽減の間」まで戻すための装置だったのです。その証拠に、王の玄室と王妃の間から伸びるそれぞれのシャフトの鉛直高さは同じです。液体を扱う場合に求められる条件です。
女王の間から伸びる2本のシャフトの出口は確認されていません。ドイツの調査隊によるロボット探査の結果、シャフトを登ったロボットは石の壁に進路を阻まれました。これは、液体を封じ込める弁の役割をしたものでしょう。
5.王の玄室と大回廊のシステムとは
では、王の玄室と大回廊という大ピラミッドのメインシステムは、どんな機能があったのでしょうか。
これは、全く分かりません。でも、いろいろな想像ができます。
1.満たされていたのは「水」だった
ピラミッドパワー水を求める信仰があった? そんなの聞いたことがない!
2.満たされていたのは「アルコール」だった
アルコールを貯めるのなら、壺でも十分。ピラミッドを造る必要もない。
3.満たされていたのは「塩水」だった
これは少しだけありそう。海は遠いし。でも、ピラミッドを造る理由にはならない。
4.満たされていたのは「血」だった
オカルトぽくって素敵だけど、そんなはずねーだろ!
5.満たされていたのは「オイル」だった
これはありそうです。高い位置に設置したリザーバータンクを使って、玄室のオイルを余圧し、ピラミッドの側方から火を吹き出して民衆を虜にした。でも、それも変。ピラミッドを造る時点で民衆は王に従っていて、今さらという感じ。
このオイル仮説は簡単には捨てがたい魅力があります。油圧ジャッキは、わずかな力で重量物を簡単に持ち上げることができます。もし、大回廊にオイルが満たされていたとしたら、大回廊上部から落とされた石の「栓」により、とてつもない重量を動かすことのできる「油圧」が発生したと考えられます。それは、どこに作用したのでしょうか。油圧を使うとしたら、それは小さな断面であると考えられます。ピラミッドから地下に延びる部分がそれに該当しそうです。
6.満たされていたのは「水銀」だった
これはちょっと魅力的な考え方。秦の始皇帝の地下墓地には水銀の川が流れていたと言われています。
では、なぜ、水銀なのか。
大ピラミッドには予言が刻まれているという説があるように、ピラミッドに使われている寸法は正確で、何らかの意味をなしているらしい。
もし、そうであるのなら、ピラミッドの建造目的ははっきりする。
水銀から金を生み出す錬金術とは無関係。ピラミッドの建造自体が、生み出される金の価値を上回るから。
では何か。それは、科学的数値の追求だったのではないか。パイ(π)の概念を知り、それを自在に操っていた古代エジプト王の関心は何か。それは、πに代わる、あるいは、それ以上の神秘に満ちた科学的数値の探求だったのではないか。
大ピラミッドを建造できるほどの富と権力を持つ王が求めることと言えば、その答えは限られている。死後の世界か、あるいは、神秘数の探求。それを知ることは、世界を支配するほどの英知と永久の名誉を受ける。
大ピラミッドの建造目的をこのように考えると、ピラミッド内部の仕上げの精度の違いが納得できる。
7.大ピラミッドは本当にクフ王が造ったのか
大ピラミッドはクフ王が造ったという定説には、しっかりした根拠があります。
それは、重量拡散の間の石材に残されたカトルーシュ。それはクフ王を示すものと言われています。
ここで、少し説明を。
この「重量軽減の間」は5層からなり、それぞれに名前がつけられています。ついでに、石材に落書きも書かれています。
第1層 デビソンの間(Davidson Chamber)
第2層 ウェリントンの間(Wellington Chamber)
第3層 ネルソンの間(Nelson's Chamber)
第4層 アーバスノット夫人の間(Lady Arbuthnot's Chamber)
第5層 キャンベルの間(Campbell's Chamber)
重量軽減の間は、下の画像のような構造になっています。Wordで描いてみました。
下の写真は、最も上に位置する第5層キャンベルの間です。
キャンベルの名前がしっかり落書きされています。国民性と倫理観を疑うような落書きです。世界的な史跡に自分の名を残し、後世に恥をさらす見本でしょう。このような行為は非難されるべきで、書いた国の国民は責任をもってこれを消すのが責務でしょう。無神経なマスコミはどこもそのようなことは言いませんが。
そして、問題のカルトゥーシュはここにあります。
クフ王のカルトゥーシュを作ってみました。これは、Wordで描いたものをPhotoshopで加工しています。
一時は、後世の時代に書かれたものと騒がれましたが、文字の一部が石組みの内部に入っていることから、建設当時のものと認定されているようです。
この部屋は、1837年5月27日、イギリス軍大佐で探検家のハワード・ヴァイス(Richard William Howard Vyse)が発見しています。
王の玄室の直ぐ上にあるデビソンの間は、1765年にデビソンにより発見されています。ハワードは、デビソンの間から上に続く4つの間を次々と発見していきます。それも火薬を使うという手荒い方法で。
このカルトゥーシュが最上部のキャンベルの間だけで見つかったことから、発見当初から偽造説があったようです。その理由は、カルトゥーシュに誤字があること。
これを落書きと片づけるのは問題かも知れません。それは、単なるヒエログリフではなくカルトゥーシュだからです。カルトゥーシュをいたずらに描いたとは考えられません。
少し、横道にそれますが。
「天皇の印」を見たことがありますか。天皇の国事行為として押印するものです。
実は、管理人は見たことがあります。もちろん、本物です。天皇には名字がないので、天皇の印には何と書かれているか? 関心のある方は調べて持て下さい(笑)。かなり大きいので、少し驚きました。
さて、当時のエジプトの最高権力者であるクフ王の名前やその他の落書きではなく、カルトゥーシュが描かれていたことに着目する必要があります。それは、ピラミッド作業員が気まぐれに描けるようなものではなかったと思います。どこの世界でも、王の紋章は神聖なものであり、一介の労働者の落書きとして描くことができるようなものではなかったのではないでしょうか。
しかも、大ピラミッドの中で文字が見つかったのはここだけです。偽物説は排除されているので、ここで考えるべきは、なぜ、第5層キャンベルの間なのか。どうして、他では見つからないのか、ということでしょう。
そこで浮上するのが、やはり、偽造説です。完全な偽造ではなく、文字を楕円で囲んでカルトゥーシュにしたという説です。
ハワードは、発見の成果を同年6月に公表していますが、詳細なスケッチも公開しています。
キャンベルの間にはたくさんの文字が残されています。東西南北の壁全てに描かれています。
キャンベルの間のクフ王のカルトゥーシュとされるものは、正式にはクフ王のカルトゥーシュとは認められません。カルトゥーシュの中の"丸いもの"は、本来、「ふるい」として、円の中は線が描かれるのが正式ですが、キャンベルの間で見つかったものは違うのです。
ハワードは、サー(Sir)の称号を持つイギリスの名士ですが、Wikiで調べても、どんな人なのかはよく分からないです。常識的に考えて、第5層キャンベルの間だけでたくさんのヒエログリフが見つかるというのはとても不自然です。火薬で次々と部屋を見つけ、その都度公開していたので、偽装はできない。第5層で、ついに最上階に達し、何の発見もなかったハワードが取った行動とは・・・。火薬を使うという、あるまじき行動を正当化するには、より大きな「発見」という成果が必要だったのではないでしょうか。
しかし、キャンベルの間には、確かに「落書き」が残されていたのでしょう。しかし、「落書き」を発見しても「成果」にはなりません。世界的な衝撃ある成果とは、大ピラミッドの建造者の名前が記されている、ということ、それが、期待した成果だったのではないでしょうか。
この記事の主張は、ネコ師が土木的見地から独自に考えたもので、既存のいかなる文献も参照していません。
ネット上には、誤った記述がたくさんあります。その代表的なものは、「ハワードがダイナマイトで・・」という記述。ノーベルが(製品レベルで使える)ダイナマイトを発明したのは、1875年のこと。1837年のハワードの発見より39年も後のことです。そもそも、ダイナマイトの原料であるニトログリセリンが発見されたのは1846年です。ハワードの時代には、ダイナマイトどころか、ニトログリセリンでさえなかったのです。
次回は、スフィンクスと三大ピラミッドの謎に迫ります。
「スフィンクスの謎」
「スフィンクスの謎(その2)」
8.追記
2012年7月16日、TBSで「世界初公開! 謎の古代文字と太陽の船が語るピラミッド新たな真実 緊急解明SP」という番組がありました。
「これだけのネタがありながら、よくこれだけつまらない番組を作れるものだ」というひどいものでしたが、新たに発見された第2の太陽の船と、その覆いにつかわれた石材に書かれた文字には感動しました。
この発見により、新たにいろいろな解釈がでてくるように思います。
吉村先生は、文字は、労働者の落書きではなく「書記」が書いたものとしていますが、そうであるならば、あまりにも粗末。どうみても落書きにしか見えない。大ピラミッドの建造技術と第2の太陽の船の保管室の天井材に書かれた文字の質がアンバランスであることが気になります。
9.ピラミッド謎の解明関連記事
ピラミッド建造関連記事が結構たまったのでリストを作成しました。
『世界遺産:ギザの三大ピラミッド(Giza Necropolis その6)』(2012年6月2日)
『世界遺産:ギザの三大ピラミッド(Giza Necropolis その5)』(2012年5月20日)
『世界遺産:ギザの三大ピラミッド(Giza Necropolis その4)』(2012年5月14日)
『世界遺産:ギザの三大ピラミッド(Giza Necropolis その3)』(2012年5月11日)
『世界遺産:ギザの三大ピラミッド(Giza Necropolis その2)』(2012年5月8日)
『世界遺産:ギザの三大ピラミッド(Giza Necropolis その1)』(2012年5月6日)
『世界遺産 大ピラミッド建造の謎の解明に挑む【追記します】』(2010年8月29日)
『クフ王の玄室はピラミッドの地下か?』(2008年7月22日)
『世界遺産 大ピラミッド建造の謎の解明に挑む』(2008年5月1日)
2012年05月20日
世界遺産:ギザの三大ピラミッド(Giza Necropolis その5)
古代エジプトの人たちは左右対称(シンメトリー)が大好きなようです。
ギザの3大ピラミッドの各辺は正確に東西南北を向いています。ピラミッドは正確な四角錐で建造されています。
そこで、大ピラミッドの通路の位置が問題視されています。
屈折ピラミッドには、入口が二つあり、それぞれ別々の部屋に通じています。しかし、この二つの部屋は内部でつながっています。
吉村先生は、大ピラミッドについてもこのような構造があるのではないかと推測しているようです。
大ピラミッドを見ると、隠し扉などある筈がない、という気がしてきます。そもそも、入り口すらも完全に閉塞し、内部に入れないようにした構造で、隠し扉を造る意味がありません。
王の玄室と大回廊のラインが東西方向の中心線から南側に少しずれている。このため、同じ構造のものが北側にもあるのではないかというのがシンメトリー論です。
大ピラミッドの正規の入り口を見てみましょう。
入り口の構造体は、(現在の)表面から5から6つの目のブロックで初めて現れます。このことは、構造上、とても重要なことです。表面から4、5ブロックは、入り口としての構造上の機能を持っていないのです。つまり、入り口は、完全に閉塞されています。後で使うということは全く想定されていない構造だということです。その距離は4~5メートルでしょう。
表層部から5から6ブロック目で、初めて入り口の構造体が現れるということは、さまざまなことを示唆していると思います。
1.一つの石を取り除けば、入り口が現れる構造ではないこと。
天井が崩れます。現在の状態はとても不安定。
2.5~6つのの石を取り除けば入口が現れるような構造になっていないこと
現在見ることのできる正規の入口は、既に入り口としての目的が終わった、「開かずの入り口」だったのではないか? その証拠に、ここから内部には入ることができない(大回廊から滑り落とされたと思われる石で完全に封印されています)。
3.最初から、表層の4、5ブロックは、表層カバーとして設計されていた(むろん、表面を覆っていたカバーストーンは含まず)。
この正規の入り口の構造は、埋め殺しといわれるもので、本来の目的を達成した後に、石で埋められたもので、二度と「入り口」として使われることは想定されていなかったと考えられます。
ここで奇妙なことがあります。
これだけ立派な入り口を造ったということは、儀式に使われたものと推測できます。
これだけ壮大な建造物の儀式です。当然、仮設は取り払われなければなりません。仮設を残したままの儀式は考えにくいです。
この入り口を通る何らかの儀式が行われたことは町が怒りません。
では、この入り口は、どうやって塞いだのでしょうか。
儀式が行われたのはピラミッドが完成した後と考えるのが妥当でしょう。
この入り口を「ちょっと塞ぐ」という分けにはいきません。
2012年05月14日
世界遺産:ギザの三大ピラミッド(Giza Necropolis その4)
今日は、ギザの三大ピラミッドのうち、カフラ王とメンカウラ王のピラミッドです。
ピラミッドのサイズをいろいろ書いてもイメージが湧かないので表を作りました。
こうしてみると、カフラ王のピラミッドもかなり大きいことが分かります。容積比で、大ピラミッドの86%です。
注)高さは、完成時
カフラ王のピラミッドは高さ143メートルで、頂上部分に化粧石が残っていることから、すぐに大ピラミッドとの違いを見分けることができます。ギザの中で最も美しいピラミッドといわれています。
一方、メンカウラ王のピラミッドは、高さが65.5メートルとギザの三大ピラミッドの中で最も小さく、容積で見ると大ピラミッドの10%に過ぎません(高さはずれも完成時)。
カフラ王のピラミッドは大きく見えますが、やはり、大ピラミッドと比較すると小振りです。
カフラ王のピラミッドの中に入りました。ここは写真撮影ができます。
玄室まで行きましたが、どうも違和感があります。カフラ王のピラミッドの玄室の天井は切妻造りになっています。クフ王の玄室は平らです。
ピラミッドの造りもそうなのですが、造られた順序が逆なのではないかと感じました。カフラ王のピラミッドが最初に造られたのではないでしょうか。その理由のひとつは、スフィンクスと参道でつながっているからです。スフィンクスの建造年代は、ピラミッドよりもはるかに古い年代であると言われています。したがって、最初にカフラ王のピラミッドが造られ、その後で、大ピラミッドが造られたのでは?
では、一番小さいメンカウラ王のピラミッドは? このピラミッドは、後世に造られた別ものでは?
容積は大ピラミッドの10%です。大ピラミッドの完成までに20年の歳月を費やしたと言われていますが、メンカウラ王のピラミッドなら2年でできる計算です。つまり、いつでも造れると言うことです。
そもそも、大ピラミッドをクフ王が造ったという記録はありません。では、なぜ、クフ王の墓と呼ばれるかというと、重力軽減の間の天井部分にクフ王のカルトゥーシュがヒエログリフで描かれているからです。
落書きとか、後世に書かれたものとか言われましたが、実際には、カルトゥーシュの一部分が石組みの内部に描かれていることから、ピラミッドの建造当時に描かれたものとされています。
これで、大ピラミッドはクフ王が造ったものに間違いない! めでたしめでたし、という訳です。
しかし、こんな労働者の落書きのようなもので、クフ王建造物だとするのには疑問があります。
クフとも読めるけれど別の読み方もあるようです。
しかし、ここで重要なことは、ヒエログリフが使われているという事実です。
つまり、大ピラミッドを有史以前の失われた超古代文明が築いた可能性や宇宙人が造った可能性はなくなったと言うことです。
では、誰が築いたのか。それは、現在の発掘結果からは正確には分かりません。
ギザ周辺に見られるピラミッド群の建造技術の発展過程から、大ピラミッドの建造年代を比定する時に古王朝歴代の王の中でクフ王の時代が最も可能性があるということだと思います。
大ピラミッドの建造で、大回廊で使われている「持ち送り方式」の石積みや重力軽減の間の切妻方式の天井の技術は、他の多くのピラミッドでも見ることができます。つまり、建造技術は段階を経て発達していったことが分かります。
しかし、エジプト文明にそれほど関心のないネコ師にとっては、大ピラミッドを造った目的と、どうやって造ったのか、という部分に関心があります。
ここからは、メンカウラ王のピラミッド(たぶん)。
大ピラミッドの記憶は鮮明なのですが、カフラ王かメンカウラ王のどちらのピラミッドに入ったのか記憶が飛んでいます。この後、いろいろなピラミッドを見て、中にも入ったので、写真の順番だけが記憶をたどる鍵です。
下の写真は、メンカウラ王の玄室に至る通路だと思います。
メンカウラ王の玄室(たぶん)。どうみても、造りかけという感じです。
もし、ピラミッド建造当時にこの場所を見学に訪れたとしたら、「完成まではまだまだですね」と言ったと思います。それほど雑然としています。誰かが床材を剥がして持ち出したのでしょうか。玄室に至る急傾斜の通路を考えると、それはなさそうです。
メンカウラ王のピラミッドは、大ピラミッドとは建造目的が違うのではないでしょうか。
謎解き編
以下の記述は、ネコ師が考えたもので、他者のいかなる研究も引用していません。そもそも、こんな推論は読んだことがありません。
ギザやその周辺のピラミッドの中に入ると、違和感を覚えます。それは、玄室と言われている部屋の造りがぞんざいなためです。とても完成しているとは思えません。
もし、このような状態が完成形であるとしたら、これは、少なくとも、王の玄室ではありません。
床材や壁材が剥ぎ取られ、他の建築に流用されたという可能性もあります。しかし、現在の床面の状態はデコボコした石で覆われていて、とても床材や壁材を剥ぎ取ったとは考えられません。それは、あまりにもボコボコ状態だからです。必要な石材を剥ぎ取っただけならば、その後はある程度均平になっているはずです。現在のこの状態がピラミッド完成時の状態のように思えます。
ピラミッド建造の目的
ピラミッドの建設目的は、誰にも分かりません。もし、王の墓でないとしたら、これだけの手間暇をかけてまでピラミッドを造る理由を、かなり絞り込むことができます。その理由として考えられるのは、「王が、自分がエジプトの王であることの正当性を示すため、ある奇跡を民衆に示すと同時に、王権のシンボルとして、国力を国の内外に示す役割を担っていた」のではないでしょうか。
それでは、「ある奇跡」とは何でしょう?
建造年代の謎とピラミッドの建造位置関係
スフィンクスとの位置関係において、カフラ王のピラミッドはスフィンクスとの関係を意識して建てられたものと推測できます。また、大ピラミッドは、カフラ王の北東に位置しますが、すぐに崖になり、やっと建造スペースを確保したという感じです。大ピラミッドが最初に建造されたとするならば、その立地場所に疑問が残ります。
カイロの町は当時は存在しなかったと思います。従って、カイロの町から見える位置に大ピラミッドを建造したと考えるのは不適切です。そんな理由で場所は決まりません。
ギザの台地に何もなかった時代に、最初に建てられたのはカフラ王のピラミッドではないでしょうか。これは、スフィンクスを基軸に、カフラ王のピラミッドの建造位置が正確に、"意味を持って"定められたと思います。
そして、直ぐ近くに大ピラミッドを建造する必要が生じた。後世の時代に、この二つの巨大ピラミッドの威光を借りるため、オリオンと同じ位置関係になるように、メンカウラ王のピラミッドを2、3年で造った。
もし、この考え方を採るならば、ギザのピラミッドは大ピラミッドとカフラ王のピラミッドの二つのピラミッドで完結します。この可能性は、冒頭に示したように、メンカウラ王のピラミッドがあまりにも規模(容積)が小さいからです。
二大ピラミッド建造の目的
カフラ王のピラミッドが最初に造られて、大ピラミッドがその後に造られたとするのであれば、その理由は何でしょう?
それは、ピラミッドの建設目的である「奇跡を民衆に示す」ために、カフラ王のピラミッドだけでは不足していた「何か」のためではないでしょうか。
カフラ王のピラミッドとスフィンクスとの位置が直交しない理由
カフラ王のピラミッドとスフィンクスとは同じ直交座標上にはありません。Google Earthで計測した結果では、5度ほど北側にずれています。
カフラ王とクフ王の二つのピラミッドができて初めてピラミッドの建設目的が達成される、と考えるのであれば、この二つのピラミッドの距離こそ着目すべき点です。この距離を確保するため、カフラ王のピラミッドの位置を北東に5度ばかり動かさなければならなかった(距離を縮めなければならなかった)。
クフ王のピラミッドの位置は、東方向には崖があるためこれ以上動かすことができない。だから、二つのピラミッドの必要間隔(固定距離)を確保するため、カフラ王のピラミッドを北東に5度移動しなければならなかった。両ピラミッド間の距離は、四角錐の頂点間距離で486.30m(Google Earth計測値)。ピラミッド単位のキュービットでは928。
2012年05月11日
世界遺産:ギザの三大ピラミッド(Giza Necropolis その3)
ギザにある三つのピラミッドは全て、四つの面が正確に東西南北を向いています。
積まれている石のサイズは、思ったほど大きいものはなく、せいぜい1m~1.5m程度です。50cm程度の石材もかなり使われています。
日本の城壁の石垣に使われている石の方がはるかに大きいです。たとえば、大阪城の石垣に使われている巨石は、桜門枡形の蛸石(5.5mx11.7mx0.9m)で、推定重量は130トン。瀬戸内海の備前犬島(現岡山市)から運ばれたとされています。
クフ王のピラミッドの注目すべき点は、基礎部分にあります。
クフ王のピラミッドは黄金比やパイ(π)など、数学的に計算されて作られており、その精度は驚くほど高いとものの本には書かれています。
しかし、現地で見ると、当然、基礎の部分はでこぼこ。とてもセンチ単位で計測できるものではありません。測る位置により値が違います。Wikipediaでは、底辺の長さが230.37mとしています。この数値は、誰がどのような方法で測量し、測量誤差はいくらなのかがわからないと、センチ単位の信憑性に疑問を感じます。
ピラミッドの石は、写真を見れば分かるように、不揃いで、石と石の間もかなり空いています。インカの石組みとは違います。
下の写真は、クフ王のピラミッドの北西の角の部分を撮影したものです。
どこまでが基礎の部分なのかさっぱり分かりません。
同じ位置からのアップ写真です。
下の写真の遺跡は、確か南側に面した所にあったと思います。修復したものでしょうが。
ピラミッドの西側です。入り口のある東側の反対側に位置する部分です。
右手に見える建物は、この西側で発掘された「太陽の船」の博物館になっています。
博物館に入るには、布製の靴カバーを付けます。
中には、この直ぐそばで発掘された「太陽の船」が展示されています。
博物館付近のアップ写真です。
このそばの石組みの状況です。西側の石積みの石は、東側に比べて小さいように感じました。
この付近の石積みです。やはり東側に比べてかなり小さいです。70cm~80cm程度の大きさです。
近くで見上げるとこんな感じです。まさに、「岩山」です。
さて、いよいよ謎解き編です。
下の写真は東側で撮影した写真です。石材の高さは150cm程度あります。先ほどの西側の石組みは100cm以下です。
この違いは何なのでしょう? 同じ層にもかかわらず、使われている石材のサイズ(高さ)が大きく異なります。
各段が水平になるように石を積んでいかなければ、偏圧がかかり、ピラミッドは崩壊します。東側と西側とで石材のサイズが違うというのはとてもおかしなことです。これでは格段が水平になりません。石材の大きさで基礎の高低差を調整したということでしょうか。
しかし、基礎は水平だったはずです。基礎となる部分に小さな溝を掘り、そこに水を流して、水平であることを確認します。これだけの大工事をするのに、基礎を水平にするのは、作業性の面からも、構造上の面からも重要です。しかし、現実には石材のサイズに大きな違いがあります。誰も指摘しない大きな謎です。
前回の記事で、盗掘者マムーンが、なぜ、東側から入ったのか不思議だったのですが、その理由は、使われている石材の大きさと太陽信仰が関係しているように思います。
東側に入り口を作ると、朝日が入り口と通路を奥深くまで照らします。
東側の石材のサイズが大きい理由は、入り口や通路部分の空間を造ることにより不足する支持力を大きな石材を使うことで補ったためではないでしょうか。
もしそうであるならば、ピラミッドの外側の石材のサイズの変化で、内部の空洞(通路)の有無を知ることができると思います。計算され尽くしたピラミッドの建造において、ピラミッドの東側と西側に使われている石材のサイズが全く異なるという事実は、ピラミッド設計者が意図して行ったことであると考えるのが妥当だと思います。
積まれている石材のサイズに着目した研究は聞いたことがありません。ご専門の方が、この視点から研究されることを期待しています。
次回は、残りの二つのピラミッドをご紹介します。
追記
ところで、最後の写真に写っている素敵な男性は誰でしょう?
・・・、なんと、ネコ師。
足が長い! カメラの写りのせいです。
腹が出ている! 気のせいです(汗)。
とってもハンサム!? その通りです(笑)。
このブログで二度目の登場です。Photoshopで消そうかと思ったのですが、めんどくさいので顔だけモザイクを入れました。なお、一度目の登場はクラサオ(キュラソー)の記事でした。
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