2010年12月29日
パラグアイの首都アスンシオン
パラグアイのアスンシオンに行ってきました。
おいおい、いつの話だよ! という感じですが、先々週なので、まだまだ新しい情報です(笑)。
先々週、4日間、パラグアイのアスンシオンに行ってきました。
目的は、休養と、あとは秘密です。
秘密の目的達成にいろいろトラブルがあり、冷や汗ものだったのですが、なんとかなりました。内容は秘密です。
4年ぶりのアスンシオンの町はほとんど変化がなく、変わっていたのは級友が年をとったことくらい。これはお互い様ですが。
以前、テレビの(たぶん)「世界不思議発見」で、パラグアイを訪れた星野知子が、「なにもな~い!」と言っていましたが、「何もない」のがパラグアイの良い所かもしれません。
パラグアイの記事をいくつか書いていますが、世界遺産はイエズス会の教化村だけ。イグアスの滝はパラグアイのエステ市に近いといえ、ブラジルとアルゼンチンに属しています。パラグアイの観光は何? の質問に、ほとんどの人が沈黙してしまいます。
しかし、世界遺産の古都スクレの歴史シリーズをご覧の方は少し違う視点をお持ちなのではないかと思います。
アスンシオンは、スペイン入植政策において重要な位置にありました。
チャコ地域は、半乾燥地で、乾季には砂漠のような平原になりますが、とても魅力的な場所です。ドイツ系メノニータの町があり、アメリカのアーミッシュのように閉鎖的な生活をしています。
その周辺に住むインディオ(グァラニー族ではない)は、独自の言語とドイツ語しか話しません。メノニータの人たちの住む町の住民には色素が欠落したような白い人たちがいます。生まれつき色素を持たず皮膚の色が白い「アルビノ」(この用語が差別用語ならご連絡下さい。削除します)と呼ばれる「ダ・ヴィンチ・コード」に出てくる暗殺者を思い浮かべてしまう人たちがいます。同族結婚が理由なのかも知れません。
パラグアイは、他の南米の国とは歴史的に違う道を歩みました。国を滅亡に導いたソラノ・ロペス(任期:1862年9月10日 – 1869年8月15日)という大統領がいました。富国強兵に勤め、当時としては最強の軍隊を持っていましたが、三国戦争でブラジルを主体とする傭兵部隊に敗れます。パラグアイの男性は兵役にとられ、そして戦死し、男子の人口は10分の1にまで減少します。パラグアイの人口も10分に減少したとの説もありますが、これには諸説がありよく分かりません。1870年のことです。日本では、徳川幕府滅亡から3年目のことです。
パラグアイに限らず、スペイン統治時代の町並みを知るには、カテドラルの位置を知ることが重要だと思います。町はその後拡大し、以前、どこが町の中心だったのか分からなくなりますが、町の中心はカテドラルのあった場所なので、これは時代が変遷しても変わりません。
世界遺産スクレは、「5月25日広場(Plaza 25 de mayo)」を中心に放射状に発展しました。この広場に面してカテドラルが立てられ、ここが町の中心であることは今も昔も変わりません。
ところが、アスンシオンの場合は違います。
アスンシオンは、パラグアイ河に面しているため、町の発展の方向が制限されます。河のある方向には町造りができません。
スクレの場合は、「5月25日広場」を基点に放射状に発展し、現在でも「5月25日広場」はスクレの中心となっています。 しかし、地理的条件からパラグアイ河により町の発展の方向が制限されたアスンシオンの町は、当初、パラグアイの河岸に造られたカテドラルとその前の広場は、町の中心となることはなく、町の中心は郊外に広がっていきます。
メノニータとはどんな人たちなのか
最強のパラグアイ軍がなぜブラジル傭兵部隊に破れたのか
パラグアイの市内の発展とコロニアル当時の建物
などを書きたいと思いますが、・・・眠いので今日はここまで。続きはこの記事に書きます。この記事は書きかけです
2010年12月18日
パラグアイに行ってきました
今週、パラグアイに行って、今日、スクレに戻ってきた所です。
4年ぶりのパラグアイ。・・・、何も変わっていませんでした(笑)。
とはいいながら、変わっていた所も少しだけあります。
まず、車の量が増えたこと。この増え方は異常です。シャム猫も三毛猫もハチ割れ猫も皆車を持っているという感じです。走っている車は、日本の中古車。
たぶん、日本ではニュースになっていないと思いますが、近年の日本の中古車の南米への移送量は異常に増えているのではないかと思います。日本では二束三文の値段しかない中古車は、南米では高く売れます。
なにしろ、走行距離メーターが二回り(つまり20万キロ)している車もよく見かけるので、2、3万キロしか走っていない日本の中古車は新品のように評価されています。
日本からの中古車は、チリのイキケという港町に船で輸送されます。イキケには専門の工場があり、日本から届いた右ハンドルの中古車を左ハンドルに替えます。これは、単にハンドルの位置を変えるだけでなく、車内の装飾もすべて替えてしまいます。見ただけでは、かつて右ハンドルの車だったとは全く分かりません。
ボンネットを開けてみても同じです。一部に溶接の跡がありますが、ほとんど見分けられません。昔は、溶接の跡もあったし、ダッシュボードももとのままで、ハンドルのあった場所には穴が開いていましたが、今は、ダッシュボード毎新品に替えてしまいます。
車体表面の塗装、内装を新装し、見た目は新車と同じです(内装までするのは稀ですが)。カーナビも付いていて、さすがは日本の車ですが、このカーナビ、ボリビアの道路には対応していません(笑)。
この急激な中古車市場の変化は、日本の中古車価格に反映されていません。日本の誰かがごっそり儲けているのに、それは知らされていません。
20年以上前は、中南米各国は、車の輸入に対して価格の200%、300%という高額の税金を科していました。これは、車が贅沢品であり、それを買える人たちは裕福層だったこと、さらに、自国の経済状況から外貨の流出を抑えたいという政治的思惑が働きました。
しかし、最近の南米における日本車ブームは、庶民レベルが購買層となっているため、政府としてこれを制限する輸入規制は打ち出せないのではないかと思います。庶民にとって車は生活上の「足」となっており、以前のような輸入規制をすることは難しいのではないかと思います。
パラグアイの首都はアスンシオンです。パラグアイ河沿いにある都市です。スペイン植民地の時代は、地理的に重要であったことから、重視されましたが、今では、都市の空洞化が進んでいます。
ネコ師が初めてアスンシオンを訪れた1991年には、パラグアイの経済状態が良く、周辺国からたくさんの観光客が来ていました。パラグアイには観光スポットはほとんど無いので、観光客の目的は買い物。
パラグアイではブラックマーケットが発達しており、周辺国よりもかなり安い値段で様々なものを購入できました。
多くのホテルにカジノがあり、ネコ師も確定申告に困るほどたんまり儲けました(嘘です)。
ところが、経済が停滞し、アスンシオン市内(セントロ)のホテルは倒産したり、廃業するところが相次ぎ、また、土地なし農民がパラグアイ河河川敷に住み着くようになり治安が悪化しました。さらに、市内には駐車場が極端に少ないことから、新しいショッピングモールが郊外に次々と造られていきます。
今回感じたのは、市内の空洞化は、市役所の努力で治まったものの、郊外の発展が著しいというもでした。
以前は、大統領官邸付近は、土地なし農民のテント(ゴミ袋製)がたくさんあったのですが、今は撤去され、その中心はウルグアイ広場(Plaza Urguaya)に移っています。このあたりはとても危険です。アスンシオンを訪問される方は要注意です。これが最新情報です。
以前は、アスンシオン市内の道路は穴ぼこだらけでしたが、今回はそのような道路は見あたりませんでした(実際には、道路の穴と雨水の排水は密接な関係がありますが省略)。
セントロの歩道はきれいに整備されていました。セントロの象徴的建物である旧ガラニーホテルは、長期間休業・放置されていましたが、アルゼンチン資本により、最近改装され再オープンしたそうです。これを聞いてうれしくなりました。あのカジノに何日通ったことか!
南米を旅行する時、カジノで遊ぶというのも楽しみの一つかも知れません。カジノは別にラスベガスだけではありません。中南米の観光地では結構見かけます。儲けるかどうかは別として、それなりに遊ぶにはコツがいります。そのうち、カジノの遊び方を書きたいと思います。パチンコとは違いますよ。ネコ師は、「深夜特急」を読むまでは賭け事に興味がなかったのですが、一度興味を持つと理系の悲しさで、直ぐに解析しようとしてしまいます。ルーレット、ブラックジャック、ポーカーなど、一定のルールの下で行われているゲームには、何らかの必勝パターンがあるのではないか! 実際、統計的には計算できるのですが、現実は違います。ポーカーのテーブルで親(ディーラー)が、ストレート、フラッシュ、フォーカードを連続で出した時には、テーブルにいた客は皆席を立ちました。賭け事は統計と関係がありそうでいて実は無縁のような気がしています(その場にいたネコ師談。これが連続して起きる確率を誰か計算して下さい)。補足しますと、ディーラーは、そこら辺にいるただのおねぇちゃんです。映画で見るような凄腕ディーラーでも何でもありません。カードを配るのが精一杯の娘達です。
アスンシオンは現在、建設ラッシュ。物価も上がっています。タクシーに乗って驚きました。スクレの10倍以上です。
セントロ郊外には新しいショッピングモールができています。これは大規模なものではなく、従来の商店街をモールに転換したような感じのものですが、それぞれのモールが特異性を持っていて、従来にないアスンシオンの町を造っているようでした。
今回のパラグアイ訪問の目的は、観光ですが、実は、裏には隠された目的が。半分は仕事でした。以前のパラグアイ滞在中の写真データが消失したため、その回復が実はメインの目的でした。おかげさまで、「南米植物写真集プランタス」の記事をたくさんつくることができました。
アスンシオンからスクレへの帰路は、たくさんトラブルがあり、冷や汗の連続でした。これについては、また、別の機会に。
【ちょっと追記】
パラグアイのブラックマーケットについて補足します。パラグアイは、著作権フリーの大国でした。街にはコピー商品があふれていました。しかし、表向きはこの状況は改善されています。アスンシオンでは、たとえば音楽CDのオリジナルを販売している店がいくつかあります。ところが、スクレでは、・・・・、実は見たことがありません。スクレでどこでオリジナルのCDを売っているのでしょうか。これは、20年前のパラグアイと同じレベルです。
バックグラウンドのない空虚な経済指標より、著作権が如何に守られているかが、その国の社会的発展を示していると思います。この点でボリビアは最低ランクに属します。著作権に関しては20年前のレベルです。
4年ぶりのパラグアイ。・・・、何も変わっていませんでした(笑)。
とはいいながら、変わっていた所も少しだけあります。
まず、車の量が増えたこと。この増え方は異常です。シャム猫も三毛猫もハチ割れ猫も皆車を持っているという感じです。走っている車は、日本の中古車。
たぶん、日本ではニュースになっていないと思いますが、近年の日本の中古車の南米への移送量は異常に増えているのではないかと思います。日本では二束三文の値段しかない中古車は、南米では高く売れます。
なにしろ、走行距離メーターが二回り(つまり20万キロ)している車もよく見かけるので、2、3万キロしか走っていない日本の中古車は新品のように評価されています。
日本からの中古車は、チリのイキケという港町に船で輸送されます。イキケには専門の工場があり、日本から届いた右ハンドルの中古車を左ハンドルに替えます。これは、単にハンドルの位置を変えるだけでなく、車内の装飾もすべて替えてしまいます。見ただけでは、かつて右ハンドルの車だったとは全く分かりません。
ボンネットを開けてみても同じです。一部に溶接の跡がありますが、ほとんど見分けられません。昔は、溶接の跡もあったし、ダッシュボードももとのままで、ハンドルのあった場所には穴が開いていましたが、今は、ダッシュボード毎新品に替えてしまいます。
車体表面の塗装、内装を新装し、見た目は新車と同じです(内装までするのは稀ですが)。カーナビも付いていて、さすがは日本の車ですが、このカーナビ、ボリビアの道路には対応していません(笑)。
この急激な中古車市場の変化は、日本の中古車価格に反映されていません。日本の誰かがごっそり儲けているのに、それは知らされていません。
20年以上前は、中南米各国は、車の輸入に対して価格の200%、300%という高額の税金を科していました。これは、車が贅沢品であり、それを買える人たちは裕福層だったこと、さらに、自国の経済状況から外貨の流出を抑えたいという政治的思惑が働きました。
しかし、最近の南米における日本車ブームは、庶民レベルが購買層となっているため、政府としてこれを制限する輸入規制は打ち出せないのではないかと思います。庶民にとって車は生活上の「足」となっており、以前のような輸入規制をすることは難しいのではないかと思います。
パラグアイの首都はアスンシオンです。パラグアイ河沿いにある都市です。スペイン植民地の時代は、地理的に重要であったことから、重視されましたが、今では、都市の空洞化が進んでいます。
ネコ師が初めてアスンシオンを訪れた1991年には、パラグアイの経済状態が良く、周辺国からたくさんの観光客が来ていました。パラグアイには観光スポットはほとんど無いので、観光客の目的は買い物。
パラグアイではブラックマーケットが発達しており、周辺国よりもかなり安い値段で様々なものを購入できました。
多くのホテルにカジノがあり、ネコ師も確定申告に困るほどたんまり儲けました(嘘です)。
ところが、経済が停滞し、アスンシオン市内(セントロ)のホテルは倒産したり、廃業するところが相次ぎ、また、土地なし農民がパラグアイ河河川敷に住み着くようになり治安が悪化しました。さらに、市内には駐車場が極端に少ないことから、新しいショッピングモールが郊外に次々と造られていきます。
今回感じたのは、市内の空洞化は、市役所の努力で治まったものの、郊外の発展が著しいというもでした。
以前は、大統領官邸付近は、土地なし農民のテント(ゴミ袋製)がたくさんあったのですが、今は撤去され、その中心はウルグアイ広場(Plaza Urguaya)に移っています。このあたりはとても危険です。アスンシオンを訪問される方は要注意です。これが最新情報です。
以前は、アスンシオン市内の道路は穴ぼこだらけでしたが、今回はそのような道路は見あたりませんでした(実際には、道路の穴と雨水の排水は密接な関係がありますが省略)。
セントロの歩道はきれいに整備されていました。セントロの象徴的建物である旧ガラニーホテルは、長期間休業・放置されていましたが、アルゼンチン資本により、最近改装され再オープンしたそうです。これを聞いてうれしくなりました。あのカジノに何日通ったことか!
南米を旅行する時、カジノで遊ぶというのも楽しみの一つかも知れません。カジノは別にラスベガスだけではありません。中南米の観光地では結構見かけます。儲けるかどうかは別として、それなりに遊ぶにはコツがいります。そのうち、カジノの遊び方を書きたいと思います。パチンコとは違いますよ。ネコ師は、「深夜特急」を読むまでは賭け事に興味がなかったのですが、一度興味を持つと理系の悲しさで、直ぐに解析しようとしてしまいます。ルーレット、ブラックジャック、ポーカーなど、一定のルールの下で行われているゲームには、何らかの必勝パターンがあるのではないか! 実際、統計的には計算できるのですが、現実は違います。ポーカーのテーブルで親(ディーラー)が、ストレート、フラッシュ、フォーカードを連続で出した時には、テーブルにいた客は皆席を立ちました。賭け事は統計と関係がありそうでいて実は無縁のような気がしています(その場にいたネコ師談。これが連続して起きる確率を誰か計算して下さい)。補足しますと、ディーラーは、そこら辺にいるただのおねぇちゃんです。映画で見るような凄腕ディーラーでも何でもありません。カードを配るのが精一杯の娘達です。
アスンシオンは現在、建設ラッシュ。物価も上がっています。タクシーに乗って驚きました。スクレの10倍以上です。
セントロ郊外には新しいショッピングモールができています。これは大規模なものではなく、従来の商店街をモールに転換したような感じのものですが、それぞれのモールが特異性を持っていて、従来にないアスンシオンの町を造っているようでした。
今回のパラグアイ訪問の目的は、観光ですが、実は、裏には隠された目的が。半分は仕事でした。以前のパラグアイ滞在中の写真データが消失したため、その回復が実はメインの目的でした。おかげさまで、「南米植物写真集プランタス」の記事をたくさんつくることができました。
アスンシオンからスクレへの帰路は、たくさんトラブルがあり、冷や汗の連続でした。これについては、また、別の機会に。
【ちょっと追記】
パラグアイのブラックマーケットについて補足します。パラグアイは、著作権フリーの大国でした。街にはコピー商品があふれていました。しかし、表向きはこの状況は改善されています。アスンシオンでは、たとえば音楽CDのオリジナルを販売している店がいくつかあります。ところが、スクレでは、・・・・、実は見たことがありません。スクレでどこでオリジナルのCDを売っているのでしょうか。これは、20年前のパラグアイと同じレベルです。
バックグラウンドのない空虚な経済指標より、著作権が如何に守られているかが、その国の社会的発展を示していると思います。この点でボリビアは最低ランクに属します。著作権に関しては20年前のレベルです。
2010年03月15日
世界遺産:パラグアイのイエズス会伝道所
パラグアイで唯一の世界遺産をご紹介します。1993年世界遺産に登録されています。
『サンティシマ・トリニダー・デル・パラナ(SANTISIMA TRINIDAD DEL PARANA)』と『ヘスス・デル・タヴァランゲ(JESUS DEL TAVARENGUE)』
この二つは、イエズス会がつくった教化村の遺跡です。
といっても、大部分の人は、何のことかさっぱり分からないと思います。世界文化遺産を楽しむには、それなりの準備が必要です。
この世界遺産を今日までご紹介しなかった理由は、歴史を知らないと全く理解できない世界遺産だからです。せっかくの世界遺産訪問が、「通りすがりの異邦人」で終わってしまわないように、しっかりご紹介したいと思います。
ところで、その歴史をご紹介するには、相当勉強しなければなりません。なまけもののネコ師がやっと重い腰を上げ、書くことにしました。
まずは歴史から
新大陸が発見されて以降、新大陸に住む先住民をキリスト教へ改宗させるため、多くの宣教師が派遣されました。その中心は、教皇の先兵とも言われた修道会に属する人たちでした。
このブログでおなじみのフランシスコ会の他、ドミニコ会、そして、イエズス会等の修道会に所属するたくさんの若い宣教師たちが新大陸を目指しました。
フランシスコ会は、自分たちの信ずる信念(カトリックの原理原則)から、先住民の宗教を邪教・異端として、徹底した破壊活動を行いました。マヤの膨大な図書を焼却した初代ユカタン司教ディエゴ・デ・ランダもフランシスコ会会士でした。
一方、イエズス会は、非キリスト教徒もカトリックの潜在的信徒になりうると考え、先住民の信仰する神もキリスト教の天使の一人とするような柔軟な方法で、教化していくやりかたを採りました。
宣教師たちの布教は、会派が違ってもその方法は似ています。教化のためには、ミサに出席させなければなりません。このため、先住民がバラバラに住んでいては困ります。そこで、住民を一カ所に集め、定住させる方法が採られました。これはスペインの植民地で共通した先住民支配の方法でした。これをどこまで強制的にやるかどうかが、違いますが。
パラグアイの先住民はたくさんの部族がいるようですが、中心はグァラニー語を話す人たちでした。彼らは、森の民と言われ、密林に住んでいましたが、彼らを教化のため定住させたのが、この教化村でした。
パラナ河をはさんで、パラグアイ、アルゼンチン、そしてブラジルのイグアス地域に20カ所の伝道所が作られ、10万人を超えるグアラニーがユートピアと呼ばれるこの楽園で豊かな生活を送っていました。ブラジルでは、労働力の確保のため、ガラニー族狩りが盛んに行われていました。これを逃れるため多くのガラニーの人たちは、これらの伝道村に逃げ込みました。伝道村は、教皇の保護の下、執政官でさえ立ち入りには許可が必要だったとされています。まさに、一つの独立国家を築いていたと言えます。
ところが、これが破壊します。
これは大きく分けて二つの理由があると思います。一つは、ブラジルからのポルトガルの侵入です。当時、ブラジルを領土としていたポルトガルは、西には金銀を産する鉱山があると信じ、盛んに遠征隊を派遣しました。この奥地遠征探検隊(奴隷商人)は『バンデイランテス』と呼ばれ、彼らは、無抵抗主義の伝道村を頻繁に襲い、住民を奴隷としてサン・パウロに送りました。
1750年、スペインとポルトガルはマドリード条約を締結し、帰属があいまいで係争の種であったブラジル南部・ウルグアイの勢力範囲の確定を図ります。この条約では、ポルトガルはウルグァイ川以東の地域をスペインから手に入れ、スペインはラ・プラタ地方を入れました。この条約により、ウルグァイ川以東の地にあった「伝道村」はすべて放棄して、スペイン領となるウルグァイ川の西側 に移住することを迫られました。イエズス会士と先住民は、この取り決めに激しく反発しますが、スペイン・ポルトガル連合軍によって1756年ま で鎮圧されてしまいます。有名な映画の「ミッション」は、これらの伝道村の抵抗を描いたものですが、このような歴史的経緯を知らないと全く理解できない映画になってしまいます。
もう一つは、イエズス会の崩壊です。イエズス会は、教皇に忠実を誓い、また、異教徒を強制的ではなく懐柔する方法でカトリックに改宗させる方法を採ったことから、大きな成果を納めましたが、そのことが、ヨーロッパ諸国のプロテスタント、カトリック双方の信者から反感を買うことになりました。
こうした中、1759年、ポルトガルでイエズス会士が追放され、財産が没収されたのを皮切りに、 1765年にフランス、1767年にスペインでイエズス会士が追放されました。これらの圧迫に屈して教皇は、1773年、イエズス会の解散を命じました。
行き方
世界遺産の教化村を見るには、首都アスンシオンから国道1号線を約300Km南下し、エンカルナシオンまで行き、そこから32Km離れた遺跡まで行くことになります。結構、遠いのと、遺跡までの道が複雑なので、本当にたどり着けるのか不安になります。私は、マイカーで行ったので、特にそう感じました。
写真
2008年09月24日
パラグアイの子供達-ベスト・セレクション-
子供たちは、どこの国でもカワイイですね。
子供を持つ親たちが大切に育てているというのは、万国共通だと感じます。
ここで紹介する子供達は、パラグアイの田舎の子供達です。
撮影したのは3~7年前なので、写っている子供たちはかなり大きくなっていると思います(だからUPしているのですが)。
子供たちを撮した写真は、現像し大判に焼き付けして、可能な限り親御さんに手渡したのですが、中には手渡す機会が無く、残念ながら手元に残ったものもあります。
私は、撮影したら可能な限り被写体になってくれた人に写真を渡すようにしています。
実際には、現像して、再度、その場所を訪れるということはそうそうあることではありませんが。
「写真の撮りっぱなし」というのは、私には馴染めません。
田舎に行くと、写真は貴重で、親や本人にとっても大切な想い出になると思います。
私がこのように思うのは、自分の記憶を振り返った時、「あのとき、XXXさんが写真を撮ったのは覚えているけど、その写真は見たことがない。あの写真があれば、記憶のページがつながる」という想いがあるからだと思います。
よく、プロカメラマンのブログで素敵な子供達の写真を見るたび、「写っているこの子供達は、自分の写真を見ることはない」ということを思わざるを得ません。
パラグアイの子供達も元気いっぱいです。
上の女の子と下の男の子は兄弟です。父親がそばにいるためか、二人とも安心して被写体におさまってくれました
この兄弟、写真で見る以上に美男子、美女です。カメラの腕が悪く、表現できず残念です
女の子だけの一団です。男の子たちはサッカーに興じているのですが、女の子達はというと、・・・・・・、よく分かりません このときは、ただ、歩いていました
この子たちが口元に手をやっているのは、「ぺろぺろキャンディ」を食べているからです
この子たちも兄弟です。
隣に父親がいますが、この画像には写っていません。
後日、父親から「写真はまだ出来ないか」、と言われ、大急ぎで現像して手渡しました
男の子達の遊びといったら、やはりサッカーです。
サッカーに興じる子供達は、本当に生き生きしています。この中から、世界的なプレーヤーが出てくるかもしれません。
そういえば、ピラール(おっ、うちのぴーちゃんの語源)というところで、サンタクルスに会いました(サッカーファンでないと分からない?)。
サッカーボールは貴重なため、この小学校に寄付しました。
アイスクリーム屋さんの娘さんで、あまりにカワイイので写真を撮らせて頂きました。あとでお母さんには、一連の写真をお渡ししました この子はすごくカワイイ子なのですが、私のカメラの腕ではそれを表現できないのがくやしい~
お母さんもべっぴんさんです 期待しても、お母さんの写真はありません m(_ _)m
・・・、とお店を出ると、カワイイお嬢さんが涼んでいます。
写真を撮らせて~、とお願いして、ぱちり。
実は、その横に化粧の濃い「お姉さん」が
「なぜ、私を最初に撮らないのよ!」とちょっと不機嫌そう
このお姉さん、これでも17~18才くらいだと思います。
写真に写った以上にきれいな子でした。
この子たちは兄弟でしょうか。いつもチョロチョロと走り回っていました。 後ろの女の子はカワイイですね。 この男の子は、確か、サッカーをしていたと思います。 この半身のポーズがなかなかいいなぁ、と思っています
結構、お気に入りのショットです
上で、何度か「きれいだ」と書いていますが、これは一般的な表現で、実は私はあまり感じていません。「慣れ」のせいだと思います。
パラグアイではきれいな人はいくらでもいます。星の数ほど。
でも、その意味の「美しさ」は、どこにでもある「美しさ」なのだと思います。まるでうつろう景色のような。
2008年09月23日
パラグアイってどんなところ?
外付けHDDの1号機がクラッシュしたため、パラグアイの写真をアップできなかったのですが、分散していたバックアップから寄せ集めて、大体欲しい画像はゲットしました。
パラグアイは、南米大陸のちょうど中央にある小さな国です。
国土面積は日本よりちょっと大きいくらい。
人口は6百万人くらい。
言語は、スペイン語とガラニー語が公用語です。
スペイン系とインディオとの混血が圧倒的に多いため、他の中南米の国のように白人中心の社会ではないところがこの国の特徴です。
パラグアイの首都は、アスンシオンです。
アスンシオンの郊外で、年に一度、エキスポが開かれます。
日本ではエキスポと聞くと『万国博覧会』を思い浮かべてしまいますが、あれは「The Great Exhibition」で、エキスポという用語自体は博覧会とか展示会のように一般的に使われています。
エキスポには国中の人達が集まってきて、とてもにぎやかです。
いろいろな展示ブースや食べ物屋が並び、いつもの静かなパラグアイとはまた違った雰囲気があります。
パラグアイはココです
「アサード」といって、牛肉の塊を豪快に炭火でじっくりと焼きます。
牛肉を肉屋で買うとき、日本のように「100グラムいくら」の世界ではなく、単位は「キロ」です
アサードはパラグアイの定番料理で、どこの家庭でもよく食べているものです。・・・・が、肉と付け合わせの「いも」しか食べないので、栄養バランスに問題があります。
日系移民の方が野菜を作るようになり、パラグアイでもだいぶ野菜を食べるようになったようです。
焼き方は下の写真のように2つのタイプがあります。上のやり方で焼いた方がおいしい、という意見もあります。しかし、管理人には違いがよく分かりません。
アサード 焼き方①
アサード 焼き方②
さまざまな企業がブースを出しています。全体的に多いのは、お国柄を反映して農業関係です。
エキスポといったら、やはり「こんぱにお~ん」さんです。
出てきて、ポーズをとってくれました
何月か忘れましたが、たぶん冬だったのでしょう。南半休なので7月頃だったと思います。
かなり寒かったので、皆さんたくさん着込んでいます。
この子達もコンパニオンのようです。
何をしているのかよく分からないのですが、会場を巡回しているみたいで、ブースには関心を示さず、ただひたすら歩いていました もしかしたら、別の目的があるのかも知れません。
寒いにも関わらず「ヘソ出し」、ミニスカートです。
パラグアイの若い子たちは、皆同じような格好をしています。普段から「ヘソ出し」が普通なので、お腹の周りは脂肪で覆われ、寒くはないようです。何事も慣れと言うことでしょうか。
「腹の皮が厚い」のでしょうか
この子は、台湾のブースの受付にいた子です
一度外に出たのですが、「このまま帰ったのでは、一生後悔する」と思い、また戻り、写真を撮させて頂きました
昔、こんなアイドルがいたような
のどかなパラグアイでの、のどかな休日でした
MIX洋猫と世界遺産ランキングに参加しています。
このバナーは「セサールの酔猫バナー」という名前です。
この酔っぱらいのような猫のことをもっと知りたい方は
猫カテゴリーからご覧下さい。
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