昨日の記事で前振りしましたが、一昨日、雑司ヶ谷霊園に行ってきました。
なぜ、行ったのか自分でも分からない!
実は、青山霊園に行くつもりだったのですが、電車が雑司ヶ谷で止まったときに下車してしまいました。なんとなく降りたかったと言うのが本音。特に理由はないのですが、「雑司ヶ谷」という言葉に惹かれたという感じです。
夏目漱石の小説を読んでいると雑司ヶ谷が結構出てきます。小説『こころ』の舞台にもなった場所です。管理人の心の片隅に、「雑司ヶ谷」に惹き付けられる何かが残っているのかも知れません。「雑司ヶ谷」、「早稲田」、「一町先」、「電報」などのワードが頭をよぎります。芥川龍之介が自殺する数日前に、一人で漱石の墓参りをしたそうです。人を引き寄せる何かが漱石の墓にはあるように思えてきます。
雑司ヶ谷霊園に埋葬されている故人として有名な方はたくさんいるようですが、全然興味がないので、前回、ちょうど2年半前に雑司ヶ谷霊園に行ったときには夏目漱石のお墓にだけお参りしました。
(過去記事『夏目漱石のお墓参りに行ってきました』)
今回、2年半ぶりに漱石のお墓参りです。
親戚でもないのに、命日でもないのにお墓参りに行くのも少し変かも知れませんが、天気の良い日はお墓参りが一番です(笑)。蚊がいなくなった今頃がお墓参りのハシゴをするにはベストシーズンです。今回は、漱石以外の墓地もゆっくり散策しましたので、ご紹介していきます。一般的な墓地案内ではなく、雑司ヶ谷霊園を訪れてみたくなるような記事にしたいと思います。
とにかく霊園内をたくさん歩きました。散策というより徘徊です。
【 目 次 】
- 雑司ヶ谷霊園
- 夏目漱石のお墓
- ラファエル・ケーベル(Raphael Koeber)の墓
- 聖心会ミッショナリーの墓地
- ヘンリー・クレイ・ブラウンリーの墓(Henry Clay Brownlee)
- アリス・ミラー(Alice Miller)の墓
- 竹下夢二の墓(Yumeji Takeshita)
- ジョン万次郎の墓
- 東郷青児の墓
- 荻野吟子の墓
- 大川橋蔵の墓
- 泉鏡花の墓
- 小泉八雲(Lafcadio Hearn)の墓
- リチャード・ウォートン・ボガー(Richard Wharton Boger)の墓
- ルドルフ・レーマン(Henning Rudolph Ferdinand Lehmann)の墓
- ハンス・グンデルト(Hans Gundert)の墓
雑司ヶ谷霊園(Zoshigaya Cemetery)
雑司ヶ谷霊園の地図(Zoshigaya Cemetery Map)です。
霊園に行ったら、まず管理事務所に行って地図を入手します。地図なしで歩き回っても、目指すお墓を見つけるのは困難です。
クリックすると大きな地図を利用できます。(地図のpdf版は都立霊園公式サイト「TOKYO霊園さんぽ」でダウンロード)できます。
都立雑司ヶ谷霊園は、三代将軍家光のころ、寛永15年(1638)に薬草栽培の御薬園となり、八代将軍吉宗の享保4年(1719)には御鷹部屋に変わり、将軍の鷹狩りに使う鷹の飼育場所として使われました。
『明治政府の自葬禁止(明治5年(1872)6月28日)、神葬地設定(明治5年(1872)7月13日)、火葬禁止(明治6年(1873)7月18日)、旧朱引内の埋葬禁止、墓地令(明治7年(1874)6月22日)等の法令・布告・布達にともない共葬墓地の必要が生じ、東京府が東京会議所に命じて雑司ヶ谷旭出町墓地を造営、明治7年(1874)9月1日に開設。その後明治22年東京市に移管、昭和10年には「雑司ヶ谷霊園」と改め現在に至っている。』(Wikipedia 『雑司ヶ谷霊園』、雑司ヶ谷霊園管理事務所配布資料)
この「旧朱引内」とは、旧東京市の15区より若干広い範囲で、雑司ヶ谷のあたりも「旧朱引内」に入ります。ここでの埋葬は一切認めないという政府の決定に対し住民の不満が高まります。このため、明治政府は翌明治7年(1874)6月22日に「墓地令」を制定して青山神葬祭地、雑司ヶ谷墓地など十カ所を市民のための共葬墓地として指定しました。(参考:「板橋村だより」)
敷地の面積は約10万㎡で、東京ドーム2個分強の広さがあります。
夏目漱石のお墓(The grave of Soseki Natsume)
漱石のお墓の裏面に「夏目ひな子」の名前が刻まれてあります。漱石の五女で、明治44年10月29日に1歳で亡くなっています。
この大きなお墓には、漱石(金之助)と鏡子夫人、そしてひな子ちゃんの三人の名前が刻まれています。
今年、6月30日に放送された『歴史秘話ヒストリア』で「漱石先生と妻と猫 ~「吾輩は猫である」誕生秘話~」をやっていました。(過去記事『「歴史秘話ヒストリア」でやっていた夏目漱石を見て知ったこと』)
この番組で、妻・鏡子役を演じた大塚千弘さんが素敵だったので、鏡子夫人のイメージが管理人の中ではぐんとアップしました。小説を読んでいるだけでは分からない、漱石の私生活と「猫」との関係がよく分かりました。鏡子の自殺未遂、漱石のロンドン留学と神経衰弱に陥る状況、そして黒猫などにまつわる逸話を丁寧に解説した番組です。この番組を見逃した方は、再放送されるまでお待ち下さい。漱石ファンには必見の番組です。
鏡子夫人は1963年に85歳で亡くなっています。彼女は漱石との間に2男5女(筆子、恒子、栄子、愛子、純一、伸六、ひな子)をもうけましたが、五女ひな子は1歳で亡くなります。幼子が亡くなるというのは、いつの時代でも心が痛みます。
この大きな墓石に漱石・鏡子夫妻とひな子の三人の名前だけが刻まれているのを見ると、夫婦がどれだけこの幼子の死を悲しんだかが伝わってくるようです。
ラファエル・ケーベルの墓(The grave of Raphael Koeber)
ラファエル・フォン・ケーベル (1848年1月15日 - 1923年6月14日)は、ドイツ系ロシア人の家に生まれ、モスクワ音楽院で音楽を学んだのち、ハイデルベルク大学に移り哲学と文学を学びました。明治24年6月(June 1893)、明治政府のお雇い外国人教師として来日し、帝国大学文科大学で哲学、西洋古典学や美学を講じました(1893-1914, 21年間)。
夏目漱石も彼から講義を受けており、後年に随筆『ケーベル先生』を著しています。また、東京音楽大学でも教鞭をとり、ピアノと音楽史の指導にあたるとともに、数多くの演奏会に出演しピアニストとしての手腕も発揮しました。日本の哲学の基礎を築き、また、日本近代音楽の発展に大きな影響を与えたケーベルは、大正12年(1923)に横浜で亡くなりました。
ケーベルのお墓は、管理事務所から漱石のお墓に行く途中にあります。
手入れがされておらず、荒れ放題という感じです。夏目漱石の随筆『ケーベル先生』は読んだことがあるのですが、上で書いたような経歴の方だとは知りませんでした。漱石は、ケーベルが来日した1893年に帝国大学を卒業しています。二人はその後も交流があったようです。
『1904年(明治37年)の日露戦争開戦の折にはロシアへの帰国を拒否したが、1914年になって退職し、ミュンヘンに戻る計画を立てていた。しかし横浜から船に乗り込む直前に第一次世界大戦が勃発し、帰国の機会を逸した。その後は1923年(大正12年)に死去するまで横浜のロシア領事館の一室に暮らした。墓地は雑司ヶ谷霊園にあるが、ロシア正教からカトリックに改宗して生涯を終えた。』(Wikipedia 『ラファエル・フォン・ケーベル』)
漱石の『ケーベル先生の告別(青空文庫)』は、横浜を発つ(予定だった)ケーベル先生に向けた餞の言葉になっています。
ケーベルは、1848年、ドイツ人の父とロシア人の母のもとにニジニ・ノヴゴロド(ロシア)で生まれています。日本ではあまり馴染みのない町ですが、有名な文学者マクシム・ゴーリキーもこの地で生まれています。
ケーベルについては、荒れ果てた墓地を見れば分かる通り、日本では忘れられた存在になっています。Wikipediaを見ると、日本語版の他、ドイツ語、英語、フランス語、ロシア語の各版があります。確認したところ、他言語版は英語版を翻訳したもののようです。ケーベルは育ての親である祖母が自殺した知らせを日本で受けるなど、日本語版Wikiには書かれていないことが少しだけあります。
日本で活躍し、そして亡くなった明治の"お雇い外国人"について、もう少し注目を浴びても良い気がします。この"お雇い外国人"という言葉は感謝の気持ちが込められていない、相手を卑下した言い回しですね。よく見かける言葉ですが、使うときには注意が必要でしょう。
The grave of Raphael von Koeber (1 January 1848-14 June 1923)
Raphael von Koeber was a German-Russian philosopher and a musician. He was born in Russia, and studied music at the Moscow Conservatory and then philosophy and literature at University of Heidelberg in Germany.
In 1893, he was invited to the Imperial University of Tokyo as Foreign advisor by Meiji Japan, and taught Philosophy, in particular, Greek philosophy, Medieval philosophy and Aesthetics. He had many students, among them were the famous writer Natsume Sōseki, who represented the essay "Teacher Koeber" in later years.
Moreover, he gave piano lessons and taught music history at the Tokyo Music School (Currently the University of Arts), giving a lot of piano concerts. He introduced a philosophy into Japan and effected on the Japanese modern music. He died at Yokohama in 1923.
聖心会ミッショナリーの墓地(The Society of the Sacred Heart)
ケーベルの墓地のすぐ近くにある聖心会ミッショナリーの墓地。
聖心会はローマ・カトリックの女子修道会で、1800年に聖マグダレナ・ソフィア・バラによって、フランスで創立されました。その後、世界各地に広がり、1908年には、ローマ教皇ピオ10世の命を受け、女子の高等教育機関設立のために、日本にも聖心会会員が送られました。それ以来、オーストラリア、ヨーロッパ、アメリカ等から来日し、日本の子女の教育に貢献し、1916年から1953年までに没した聖心会会員24名が、ここ雑司ヶ谷霊園に埋葬されています。
当時は土葬だったらしく、以前は棺を埋葬した部分がこんもりとした土まんじゅうになっていたそうです。園内にある花屋さんで聞きました。墓所はきれいに清掃されています。前回訪れたときよりきれいです。24名が埋葬されているのですが墓石の数は7基です。この24名がどのような方々だったのかはわかりません。花屋さんはイギリス人シスターたちだと言っていました。
The Society of the Sacred Heart is an international Roman Catholic religious congregation for women established in France by St. Madeleine Sophie Barat in 1800 and then spread to many parts of the world. In 1908, Religious of the Sacred Heart were sent to Japan at an appeal from Pope Pius X to establish an institution for higher education for woman, 24 Religious of Sacred Heart who died in Japan between 1916 and 1953 are burried here at Zoshigaya cemetery.
ヘンリー・クレイ・ブラウンリーの墓(Henry Clay Brownlee)
「聖心会ミッショナリーの墓地」のすぐ脇に「ヘンリー・クレイ・ブラウンリーの墓」があります。霊園の案内板もなく、埋葬されているのがどのような人物だったのかはわかりません。墓石に刻まれた文字から、彼の名前は、Henry Clay Brownlee。1853年6月20日にセントルイス(ST LOUIS MO)で生まれ、1916年9月14日、東京で亡くなっています。墓標から分かるのはこれだけです。
ネットで調べても彼の名前はヒットしません。それほど有名な方ではないようです。
でも、気になります。
その理由は、墓地の立地条件です。
この場所は、霊園の中でも道路に面した一等地です。彼の墓地面積も広い方だし、何より墓石が立派です。この場所の権利を入手し、墓地を作るにはかなりの費用がかかったと思います。
「調べても分かりませんでした」、ではつまらないので、プロファイルします。
・ ヘンリー・クレイ・ブラウンリーは、1853年6月20日、ミズーリー州セントルイスで、ジョン・アレクサンダー・ブラウンリー(John Alexander Brownlee )の長男として生まれます。彼には4人の弟妹がいます。
・ 1889年、36歳の時、ヘンリーはイダ・ウォーカー(Ida Walker)と結婚します。
・ ヘンリーの祖父(William Craig Brownlee)は英国スコットランドのエジンバラに近いTorfootの出身です。祖父の代に米国に移民したものと考えられます。
・ ヘンリーの母親の名前は不明です。名前を伏せる事情がある女性だったのかもしれません。妻Ida Walkerの家系も不明です。
この墓地が聖心会の墓地に隣接していること、どちらの墓地も1916年に作られていることから考えると、聖心会と何らかの関係があるのかもしれません。
Henry Clay Brownlee
生没年: June 20,1853(ST LOUIS MO) - September 14, 1916 (Tokyo)
妻: Ida Walker (Marriage: 1889)
父親:John Alexander Brownlee ( - 1863); Businessman in St. Louis, MO
兄弟:John Divel Brownlee, d. 12 Jul 1895.
Lucy Lee Brownlee, d. date unknown.
Taylor Blow Brownlee, d. date unknown.
William Craig Brownlee, d. 03 Jul 1894.
Ref: http://www.genealogy.com/ftm/b/r/o/Kimberly-J-Brownlee-/WEBSITE-0001/UHP-0338.html
"Death of an American Citizen in Japan", Embassy of Japan
アリス・ミラー(Alice Miller)の墓
アリス・ミラー(Alice Miller、1853年2月11日 - 1928年3月5日、75歳)
アリス・ミラーは、米国人キリスト教宣教師で、慈善学校を通して、後に発展する雙葉保育園の基礎を築いた人物です。不幸な境遇にある女性の救援活動に尽力しました。
彼女はケンタッキー州アーリントン出身で、明治28年(1895)、42歳の時に来日しました。大規模な宣教師団体に属さない独立した活動を行うグループに所属していたようです。
彼女は、商人ジェイムズ・ミラー(James Q. Miller)の一人娘でした。生涯独身だったようです。
明治39年(1906)まで四谷教会で、そして亡くなる昭和3年(1928)まで自身が設立した千駄ヶ谷教会を拠点に、貧困児童の教育や孤児の養育、働く母親を助けるための幼児保育活動など、地域の人々が必要とした福祉活動に尽力しました。
お墓はきれいに掃除されています。教会の関係者が定期的に掃除しているか、墓の管理を委託しているのでしょう。
出典:「雑司ヶ谷霊園に眠る著名人」ただし、誕生年に誤りがある。
竹下夢二の墓(Yumeji Takeshita)
竹久 夢二(明治17年(1884)9月16日 - 昭和9年(1934)9月1日、49歳)
数多くの美人画を描き、今でも変わらぬ圧倒的な支持を得ている大正ロマンを代表する画家、竹下夢二のお墓です。
きれいな花が供えられていました。高そうです。
今年9月に立て替えられた真新しい看板です。
ジョン万次郎の墓
ジョン万次郎(中濱 萬次郎、文政10年1月1日(1827年1月27日)- 明治31年(1898)11月12日、71歳)
ジョン万次郎という名前を聞いたことがないという人はいないと思いますが、具体的に何をした人かを答えることのできる人は限られていると思います。
まず、墓地の写真を見ましょう。
石柱には「贈 正五位 中濱萬次郎翁記念碑」と書かれています。
この石柱の文字は、「侯爵 徳川家達書」となっています。癖のない達筆です。
徳川家達(いえさと)って誰? おいおい!
過去記事の『皇女和宮の謎の解明シリーズ』で何度か出てきた名前です。徳川家達(いえさと、1863年8月24日 - 1940年6月5日)は、最後の将軍徳川慶喜の後、徳川宗家を継いだ方です。14代将軍家茂の遺言に従い、徳川家の跡取りとして和宮が田安徳川家の家達を指名しました。明治10年、和宮が薨去されたとき、彼が葬儀の喪主を努めることになるのですが、実際には、イギリスに留学中だったため、代理(松平確堂)を立てることになります。
天璋院篤姫は、明治16年(1883年)11月20日、満47歳で没していますが、その葬儀の喪主を務めたのも徳川家達です。
中学の時の英語の教科書にジョン万次郎のことが載っていました。当時暗記した文章を今でも覚えています。
"One day in the summer of 1841, an american ship was sailing near the Torishima to catch whales."
Image: Nekoshi
2015年9月24日、BS日テレ、「片岡愛之助の解明!歴史捜査 #18 日米の架け橋 ジョン万次郎の真実を追え!」で、ジョン万次郎について詳しく解説していました。
番組の内容はおおむね以下の通りです。
文政10年(1827)、中浜万次郎は、現在の高知県土佐清水市中浜に生まれます。家が貧しく、小さい頃から働いて家族を養っていました。天保12年(1841)1月5日、万次郎が14歳の時、漁師仲間4人と共に小さな漁船で漁に出ました。出航3日目に天候が悪化、嵐となり、遭難、漂流します。漂流7日目に奇跡的に伊豆諸島の無人島鳥島に漂着します。彼らはそこで143日間生き抜きました。鳥島には川がなく、水と食料に苦労したようです。ある日のこと、彼らはアメリカの捕鯨船ジョン・ハウランド号( John Howland、377トン)により発見され、救助されます。当時の日本は鎖国状態であったため、船はハワイ経由でアメリカに向かいます。しばらく滞在したハワイで仲間4人は下船しますが、船長のホイットフィールド(Captain Wiliam Whitefield)に気に入られた万次郎は、アメリカに向かいます。この捕鯨船の基地は、アメリカ東海岸、マサチューセッツ州のニューベッドフォード(New Bedford)でした。帰港後に、彼は船長の故郷である隣町のフェアヘイブン(Fairhaven)に住んで、学校に通います。万次郎は16歳になっていました。それから19歳までの二年半の間、バートレット・アカデミー(Bartlett's Academy)で航海術や高等数学を学びました。
それにしても心の広い素敵な船長です。リンカーンによる奴隷解放は1862年9月なのでまだ先です。当時は、白人以外の人種を蔑視していたアメリカで、ジョン万次郎がホイットフィールドから受けた支援は特筆すべきことです。アメリカ北東部の住民にはこんな素敵な人たちが多いのでしょうか。マサチューセッツ州に俄然、興味が湧きました。
Captain William Whitfield
万次郎は飛び抜けて優秀な生徒だったらしく、地元では強く印象に残る存在でした。
後年、万次郎の子孫が当時の大統領フランクリン・デラノ・ルーズベルトから書簡をもらっています。
"THE WHITE HOUSE WASHINGTON"と印刷されたレターヘッドの手紙には以下のように書かれていました。とても心暖かい手紙で、ちょっと感動しました。
(letter head) THE WHITE HOUSE
WASHINGTON
June 8,1933.
My dear Dr. Nakahama:-
When Viscount Ishii was here in Washington he told me that you are living in Tokio and we talked about your distinguished father.
You may not know that I am grandson of Mr. Warren Delano of Fairhaven, who was part owner of the ship of Captain Whitfield which brought your father to Fairhaven. Your father lived, as I remember it, at the house of Mr. Tripp, which was directly across the street from my grandfather’s house, and when I was a boy I well remember my grandfather telling me all about the little Japanese boy who went to school in the Fairhaven and who went to church from time to time with the Delano family. I myself used to visit Fairhaven, and my mother’s family still own the old house.
The name of Nakahama will always be remember by my family and I hope that if you or any of your family come to the United States that you will come to see us.
Believe me, my dear Dr. Nakahama,
Very sincerely yours,
署名
署名
Dr.Toichiro Nakahama,
Tokio. (提供:中濱京氏)
万延元年(1860)、ジョン万次郎(当時33歳)は、日米修好通商条約の批准書を交換するため遣米使節団の一員(士官クラスの「通弁主務」)として咸臨丸に乗船します。航海は悪天候に見舞われ、サンフランシスコまでの37日間の航海で太陽が出たのはわずかに5、6日だけでした。最高責任者の軍艦奉行 木村摂津守、艦長の勝海舟はじめ日本人乗組員のほとんどが船酔いにかかり、実際に操船したのは、経験豊富なジョン万次郎と航路案内人という名目で乗船していた米国海軍のブルック大尉ほか10名のアメリカ人軍人でした。
Image: Nekoshi
この事実が分かったのは、日米修好100周年にあたる1960年、ブルック大尉の船中日記を子孫が本として出版したことによります。
John M. Brooke's "Pacific Cruise and Japanese Adventure 1858 - 1860", GEORGE M. BROOKE JR.,1960
咸臨丸に乗船していた勝海舟や福沢諭吉は、この時の航海のことを書いていますが、自分に都合のよいことばかり書かれていたことが分かりました。
ジョン万次郎の功績はもっと広く知られるべきだと思いました。
参考:
「日テレ 番組HP」
米国の視点からの以下の記事がとても参考になります。
"Timeline of Manjiro’s Life to supplement Voyages of Manjiro Map interactive"
東郷青児の墓
東郷青児(とうごう せいじ、明治30年(1897)4月28日 - 昭和53年(1978)4月25日)は日本の洋画家。名前を知らなくても、彼の絵を一度は見たことがあると思います。
彼の絵は切手にもなっています。
「夢見るような甘い女性像が人気を博し、本や雑誌、包装紙などに多数使われ、昭和の美人画家として戦後一世を風靡した。」(Wikipedia)
石塔には「正四位 勲二等旭日重光章 東郷青児之碑」と掘られています。
ジョン万次郎が「正五位」なので、東郷青児は彼より2ランク上の位階を授与されたことになります。「正四位」と「正五位」の間には「従四位」という位階があります。一般人にとって、この位階は、まさに「異界」です。何のことかさっぱり分からない。でも、墓地巡りをするときに、知っていると楽しめます。ちなみに、和宮様 の位階、品位(ほんい)は「一品(いちほん)(明治16年)」です。
墓地を徘徊するというロールプレイングゲームをする場合、叙位叙勲についての情報カードは必須アイテムです。このアイテムを持っていないと、「ゴール」にたどり着けず、霊園から退場することになります。もともと、叙位叙勲は、親族や友人にとっては価値のあるものですが、一般人にとっては意味不明のアイテムです。しかし、霊園の中では、このカードが役立ち、親族・友人と一体感が生まれます。
荻野吟子の墓
荻野吟子(おぎの ぎんこ(本名:荻野ぎん)、1851年4月4日 - 1913年(大正2年)6月23日、62歳)
霊園内でひときわ目立つお墓があります。荻野吟子のお墓です。
彼女は、近代日本における日本人女性初の国家資格を持った女性の医師です。嘉永4年(1851)、現埼玉県熊谷市俵瀬で生まれています。
16歳の時に結婚しましたが、夫から淋病をうつされ離婚。上京し順天堂医院に入院し婦人科治療をうけるのですが、そのとき治療にあたった医師がすべて男性で、男性医師に下半身を晒して診察される屈辱的な体験から、女医となって同じ羞恥に苦しむ女性たちを救いたいという決意により、女医を志します。
荻野吟子の生涯を描いた渡辺淳一の伝記小説『花埋み(はなうずみ)』(1970年)がベストセラーとなり、世に知られるようになりました。1980年に山本陽子主演で舞台化された。1971年にテレビドラマ化され、ポーラ名作劇場(ANN系列)にて放送されました。また、1980年に山本陽子主演で、1998年に三田佳子主演で『命燃えて』として舞台化されています。(Wikipedia)
傍らに建つ石像がとても目立っています。少し美しすぎるように思いますが。
大川橋蔵の墓
二代目 大川橋蔵(1929年(昭和4年)4月9日 - 1984年(昭和59年)12月7日、55歳)
テレビ時代劇「銭形平次」を長年演じ、お茶の間のアイドル的存在だった大川橋蔵。もとは歌舞伎役者で、のちに時代劇の俳優となります。本名は丹羽 富成(にわ とみなり)、旧姓は小野(おの)。
熱烈なファンがいるのでしょう。墓前にはきれいな花がたくさん供えられていました。
泉鏡花の墓
泉 鏡花(いずみ きょうか、明治6年(1873)11月4日 - 昭和14年(1939)9月7日、満65歳)
明治後期から昭和初期にかけて活躍した小説家です。名前は聞いたことがありますが、作品は一つも読んだことがない。青空文庫でざっと目を通したのですが、残念ながら管理人は魅力を感じません。
小泉八雲(Lafcadio Hearn)の墓
小泉 八雲(こいずみ やくも、1850年6月27日 - 1904年(明治37年)9月26日、54歳)
現代に伝わる伝説や幽霊話などを再話し、独自の解釈を加えて情緒豊かな文学作品としてよみがえらせた小泉八雲ことパトリック・ラフカディオ・ハーン (Patrick Lafcadio Hearn)。
1850年、当時はイギリス領であったレフカダ島(the island of Lefkada 、1864年にギリシャに編入)にて、イギリス軍医であったアイルランド人の父チャールス・ブッシュ・ハーン(Charles Bush Hearn)と、レフカダ島と同じイオニア諸島にあるキティラ島(Kytheran)出身のギリシャ人の母ローザ・カシマティ(Rosa Antoniou Kassimatis)のもとに出生。
「ラフカディオ」の名はこの島の名Lefkadaから採られています。
明治23年(1890)4月4日、米国出版社の通信員として横浜に降り立ちますが、まもなく契約を破棄します。伝手(つて)により島根県の師範学校と中学校の英語教師の職が決まり、同年の8月30日に松江に到着しました。その後、士族の娘小泉セツとの結婚し、長男の誕生など、1年2ヶ月にわたる松江滞在中、充実した期間を過ごしました。
明治29年(1896)1月には、正式に日本に帰化し、小泉八雲と名乗りました。この年の8月から、東京帝国大学の英文学の教師となり、多くの学生から尊敬の念を集めましたが、明治36年(1903)に契約が終了し、大学側の雇用方針に馴染めないことから再契約を行わず退職しました。
八雲が退職した後の後任の英語教師には英国留学から帰国した夏目漱石が就任します。世の中は狭いものです。二人は同じ霊園内に埋葬されているのですから。
その翌年の1904(明治37)年4月には、早稲田大学の創立者大隈重信に招かれ教授に就任しましたが、同年9月26日に狭心症の発作により死去しました。
Foto: Wikipedia
引用: Wikipedia 「小泉八雲」
京都外国語大学付属図書館/京都外国語短期大学付属図書館
東條英機の墓
この人物については、誰でも知っている割に、評価が分かれています。
リチャード・ウォートン・ボガー(Richard Wharton Boger)の墓
リチャード・ウォートン・ボガー(Richard Wharton Boger、1868年9月4日 - 1910年12月28日、42歳)の墓です。それって誰? 管理人も知りません。墓石には、 "Royal Artillery Military Attache to the Britannic Majesty's Embassy"と書かれています。駐日英国大使館付武官だったようです。1904年に来日しています。
1902年1月30日に調印発効した日英同盟(Anglo-Japanese Alliance)の関係で来日していた駐在武官ではないでしょうか。早速、調べてみましょう。
1868年9月4日、イギリスのイングランド南岸のハンプシャー州ワイト島で生まれました。ちなみに、下の画像の矢印の島がポートランド島(Isle of Portland)です。ポルトランドセメントの名前の由来となった白い砂のある島です。ちょっとマニアックな知識ですが。
父親はHenry Turtliff Boger、母親はHelen Margaret。
イギリス陸軍に入り、陸軍中佐になりました。1904年に日露戦争勃発すると日本陸軍の要請で満州に派遣され戦争状況の視察を行っています。この際の功績に対し、勲四等旭日章が贈られました。その後、駐日イギリス大使館付き武官となり日英友好のため尽力。1910年12月28日、42歳の時、東京で亡くなっています。
引用:東京に眠る外国人列伝(紅毛掃苔録 江戸・東京篇のうち)
彼のお墓が雑司ヶ谷にあることは在京の英国大使館でも知らないようです。
ルドルフ・レーマン(Henning Rudolph Ferdinand Lehmann)の墓
ヘニング・ルドルフ・フェルディナント・レーマン(Henning Rudolph Ferdinand Lehmann、1842年10月15日 - 1914年2月4日、72歳)
レーマンは、ドイツの造船技術者、機械工学技師。オルデンブルク大公国・オルデンブルク出身。
レーマンの経歴、業績は、墓所の傍らに建つ石碑で網羅されています。石碑には以下のように記されています。この文章を書いた人は頭がいいことがひしひしと伝わります。情報に「抜け」がありません。
1842年 ドイツ・オルデンブルグに生まれる。カールスルーエの工科大学で河海工学を専攻
1869年 27歳で単身来日。我が国最初の鋼鉄船を建造
1870年 京都の「欧学舎」に始まり、東京の外国語学校など諸学校で技術の専門知識と外国語教育を通じて、多くの有意な人材を輩出し、我が国の造船、製紙、牧畜などの殖産産業に大きく寄与。1871年~1877年の3回にわたって、我が国最初の和独・独和辞書の校定・編纂に従事し刊行。独逸語教育の始祖。
1887年 日本政府より多年の功績に対し、勲五等栄光旭日章が授与される。
1907年 ドイツ東アジア協会(OGA)会長に就任。日独文化交流に貢献。
1914年 2月4日急性肺炎のため東京小石川の自宅で逝去享年72歳。ドイツ政府より王冠章二等と鷲章三等を授与される。
妻ベン(日本人)次男アドルフも此処に眠る。
「レーマン」の薫陶を受けた門人らにより結成された「レーマン会」が1884年「京都私立独逸学校」を設立した。これが「京都薬科大学」創立の礎となった。
2004年10月京都薬科大学創立120周年を記念し墓所を修復。
(石碑より転載)
ハンス・グンデルト(Hans Gundert)の墓
ハンス・グンデルト(Hans Gundert)は、わずか1歳で亡くなったドイツ人の子供です。
1907年10月23日に生まれ、翌1908年10月19日に亡くなりました。
ハンスの父親は、ヘルマン・ヘッセの従兄弟のヴィルヘルム・グンデルト(Wilhelm Gundert、1880.12.4 - 1971.3.8、91歳)で、1906年にプロテスタント宣教師として来日しています。
ヴィルヘルムは、内村鑑三の友人で、明治から大正期に日本に滞在し布教活動や日本研究をおこないました。東京、熊本(1915-1920)、水戸(1922-1927)でドイツ語を教えました。ドイツに帰国後ハンブルク大学学長になっています。1920年~1922年にはドイツに一時帰国し、博士号を取得しています。
下の写真は、ヴィルヘルム・グンデルトとその妻、さらに、見えにくいのですが、ヴィルヘルムに抱かれたハンスの姿が写っています。1908年6月6日に撮影されたもので、ハンスはこの4ヶ月後に亡くなります。
外国赴任中に赤ちゃんが亡くなるということは、両親、特に母親にとって、かなりの衝撃となります。異国での生活のストレスと子供の死亡が重なって精神障害に陥る方もいるようです。ネットでいろいろ調べましたが、グンデルトの私生活についての情報は見つかりませんでした。
参考:「雑司が谷ぞうさんぽ (旧 雑司が谷みちくさあるき)」
以上で、雑司ヶ谷霊園の徘徊は終わりです。これだけの事前情報があれば、谷中霊園の散策を満喫できるのではないでしょうか。
管理人の目的が外国人のお墓の探索だったので、紹介したお墓が外国人に偏っていますし、記事の内容の濃淡が際立っています。その分、これまでにない霊園案内になっていると思います。
記事の中で、お墓が掃除されているかどうかを書いていますが、それには理由があります。東京都が無縁墓所の整理促進を進めており、掃除されていないような無縁墓所は近いうちに無くなってしまいます。
次は、機会を見て、谷中か青山霊園を徘徊したいと思います。
霊園関係の記事は、今後、(オリンピックに向けて)外国人観光客に説明する場合に役立つように、できるだけ外国語表記を挿入しています。少し読みにくいかもしれませんが、闇雲に外国語表記にしているわけではないことをご理解下さい。
明治以降は、西暦より和暦の方がタイムスパンを理解しやすいので、最初に和暦、その後に西暦を記載するようにしています。
その他の有名人のお墓
今回、ご紹介しなかった有名人のお墓がいくつかあるので、名前だけ紹介します。
○
小栗忠順(おぐりただまさ)の墓
小栗忠順(1827-1868、41歳)と聞いてもピンとこないかもしれませんが、「徳川埋蔵金伝説」で必ず登場する方です。小栗上野介という名前で覚えている方もいると思います。徳川幕府の実質的に最後の勘定奉行でした。新政府により処刑された唯一の人物・・・と、どこかで読んだ記憶があります。とても優秀な人物だったらしい。何人かの旧幕臣がその才で新政府に取り立てられる中、小栗の死は日本にとって大きな損失になったことは間違いありません。この処刑はとても不自然です。
○
金田一京助の墓
金田一京助(1882-1971、89歳)は、あの有名な名探偵金田一耕助の父親です・・・嘘です(笑)。
有名な方なので、説明は不要でしょう。
○
永井荷風の墓
永井荷風(1879-1959、80歳)は、明治・大正・昭和期の小説家です。作品は一つも読んだことがありません。こういうタイプの人は苦手なので。
他にも有名な方がたくさん埋葬されているようです。
単に有名人のお墓だから訪れるというよりも、自分自身と何らかのライン、つながりがある方のお墓を選定して訪問する方がよいように思います。つながりといっても親戚という意味ではありません。自分の心の中で関心のあることと結びつく人物であれば、それでよいと思います。真摯な気持ちになってお墓参りができます。
グンデルトの肖像写真を載せたいので、データを貸して頂けませんか? 現在グンデルト家ではこの肖像写真を持っていません。長女を通じて日本に流出したようです。できればICUの『聖書之研究』百号感謝会の写真もよいデータがありましたらお願いいできませんか。ICUからは使用許可はもらいましたが、データはもらえませんでした。
ご連絡いただければ幸いです。
あなたの調査力には感心のいたりです。
渡辺
>渡辺好明さんへ
コメントありがとうございます。
後ほどメールで回答いたします。