2015年05月09日

最近、皇女和宮の秘密にはまっています


 久しぶりの更新です。
 更新していない理由はいろいろあるのですが、一つには「皇女和宮」にはまってしまったこと。
 
 ここ2週間は、このことだけに費やしています。
 
 ダン・ブラウンの「ダ・ヴィンチコード」で、「「本書に出てくる芸術作品、建築、資料、謎の儀式がみな正確なものである」と書いていますが、これって、欧米の小説では一般的な書き方で、あくまでも小説として発表しているのであれば、「書いてあることは真実である」と書かれていてもそれは小説の一部として捉えるのが普通です。「本当のことだと書いてあるのに作者の想像なのか!」などというのは、「野暮」というものです。まさに、そんなことを言うのは野暮で田舎者なのです。

 これに噛みつく人は別の意図があります。「ダ・ヴィンチコード」が世界的なベストセラーになったことから、柳の下のドジョウを狙った人たちが多くの批判的、あるいは検証的な書籍を出しました。

 そもそも、小説として出版しているので、ノンフィクションな筈がありません。
 
 しかし、和宮に関するいくつかの陰謀説を採った小説を読んでいると、これは本当にあったことなのではないかと思えてしまう。

 そこで、いろいろ調べているのですが、奥が深くゴールになかなか辿り着けない。

 和宮に関わる様々な陰謀説として代表的なものは次の三点でしょう。

1.和宮替え玉説
2.和宮には左手がなかった
3.和宮暗殺
4.家茂の棺から発見された一房の毛髪は、和宮のものではなかった!

 調べれば調べるほど不思議な和宮。
 「皇女和宮」という響きが良い。英語では、「Imperial Princess Kazunomiya」。単なるプリンセスではないところが、欧米人の注目を浴びているゆえんでしょう。

 今、気になっているのが、和宮の葬儀について。
 なんと、どこにも記載されていません。篤姫の葬儀の記述はたくさんあるのに、和宮の葬儀についての記述が極端に少ない。というか、ネット上では皆無です。

 和宮は、1846年7月3日に生まれ、1877年9月2日に脚気の療養先で訪れていた箱根の塔ノ沢で逝去されています。享年31歳の若さでした。

 Wikipediaでも「当初、政府は葬儀を神式で行う予定であったが、和宮の「家茂の側に葬って欲しい」との遺言を尊重する形で、仏式で行われた。」とあっさりしたものです。「葬儀」そのものについては欠片も書かれていない。

 ネット上でみられる記述は、これを引用したもの。「葬儀」についてどこにも書かれていない。とても奇妙です。

 葬儀はいつ、どこで?
 葬儀は誰が執り行った?
 どのような葬儀だった?
 出席者は誰?
 出席者数は?
 当時の新聞報道は?
 
 これらのことは、篤姫の葬儀については書かれている情報です。ところが、和宮については何もない。
 もちろん、亡くなった箱根の阿弥陀寺で通夜・密葬が、徳川将軍家の菩提寺芝・増上寺で本葬が執り行われたことは知られていますが、管理人の疑問はその詳細。 

 和宮の死にまつわる状況は、とても奇妙なのです。
 「情報がすっぽり抜けている」

 これは、意図的に情報を操作した人がいた証なのではないかと思います。
 
 和宮は現在、増上寺の徳川家墓所に埋葬されていますが、埋葬当初は、現在の東京プリンスホテルの場所に埋葬されていました(目と鼻の先ですが)。1950年代に同地が国土計画興業に売却されたため、和宮をはじめ、歴代将軍及びその正側室の墓所と遺骸も発掘・改葬されたそうです。

 管理人は、このすぐ近く(徒歩1分くらい)で4年間ほど働いていた時期があるので、土地勘はあります。

 1958年に行われた和宮の墓の発掘調査では、和宮の血液型はA型かAB型で、身長は143.4cm、体重34kgであり、骨格の形状から極端な反っ歯と内股が特徴の小柄な女性であったと推定されているそうです。また、(三重のお棺の中から、)左手の手首から先の骨がいくら探しても見つからなかった(Wikipedia)。

 Wikipediaの記述には納得がいかない。
 
 この時の発掘調査の写真が公開されていますが、和宮の遺体は足を折り曲げている。まるで、幼女がうたた寝をしているような姿勢だったそうです。これって、おかしいです。
 なぜ、そのような状態で埋葬したのか?

 先日、管理人の父が亡くなりました。
 納棺の際に、遺体に足袋を履かせるのですが、「自分の親の時には、死後硬直により足袋をはかせるのが難しかった」と従兄弟から聞きました。管理人の場合は、お寺の都合で葬儀まで時間があったためか死後硬直が解けていることから、足袋を履かせることは簡単でした。

 和宮の遺体が足を曲げた状態で埋葬されたのはなぜでしょうか。
 遺体の防腐処理がなかった時代です。正確には、「皇族の防腐処理はしなかった時代」です。死亡・お通夜から埋葬まではかなりの日数が経っています。

 埋葬時にはとても腐敗していたと思います。このため、亡くなって、お寺でお通夜したときの姿勢で、そのまま埋葬されたと思われます。強烈な悪臭を放つ遺体を誰も触りたくありません。

 うちの愛猫ケタルが死んだとき、わすか2時間後には死臭が漂っていました。
 愛猫ドラちゃんが死んだときは、どこで死んだか分からず、一週間後に近くにお宅の庭で腐敗臭によりやっと見つけました。強烈な臭いです。身体が2倍くらいに膨らんでいました。この文を書いていても悲しみがこみ上げます。

 明治10年(1877年)8月7日 和宮は脚気の治療のため箱根に行きます。
        同年9月2日午後5時頃 死去
          9月6日 遺体が帰京(死後4日後)
          9月13日 増上寺で本葬儀(死後11日後)

 防腐処理には石灰を使ったようで、和宮の墓所の発掘調査では、棺の中に石灰に埋もれるように遺体があったようです。

 さて、和宮が亡くなって寺に運ばれたとき、なぜ、遺体の足をまっすぐにして寝かせなかったのでしょうか。
 それは、やろうとしてもできなかったからなのではないでしょうか。いわゆる死後硬直です。

 死後硬直は解けるのですが、寺の儀式に入ってしまったため、そのままの状態で、だれも触ることができなかったのでしょう。


 上で書いたことが、管理人が最初に考えたことです。
 皆さん、矛盾を探しましょう。おかしくないですか?

 和宮についての調査は継続中です。

 実は、外国になら当時の記録があるのではないかと、英語、スペイン語、オランダ語、ポルトガル語で調べてみたのですが、見つかりません。もっと調べるには、外国語の論文検索になります。通常の検索エンジンに出てこない情報を調べることができますが、時間がかかります。

 現在、多方面からアプローチしている段階で、まとまり次第、結果は「なんでも保管庫」にアップします。

和宮関連記事

 『なんでも保管庫』に以下の6本の和宮関連記事をアップしました。

1.皇女和宮の埋葬のナゾに迫る
 この記事で指摘したなぞの解明、最も書きたかった和宮埋葬時の姿勢のナゾの解明を管理人なりに行っています。

2.皇女和宮の写真の真偽を確認する
 和宮が写っているといわれている写真の真偽を検証しました。たぶん、記事としては一番面白い内容になっていると思います。

3.明治時代の新聞報道から皇女和宮薨去の原因を読み解く
 和宮が亡くなってから埋葬されるまでの情報がほとんど見つからなかったことから、当時の新聞を調べてみました。なぞの解明にあたり、結論を導くことになった重要な記事です。

4.皇女和宮が晩年に住んでいた邸宅の場所は、現在ではどこになるの?
 和宮と南部家のナゾを追ううちに、京都から東京に戻った和宮が晩年に住んだ麻布の御邸があった場所が、現在ではどの場所で、土地はどのような形状だったのかを知りたくなったので調べてみました。麻布の和宮邸を現地で確認できます。昔の住所だけでは土地の形状までは分からないので調べてみました。

5.皇女和宮のお顔を3Dにしてみる
 和宮とされる写真を調べるうちに、写っている人物を立体で見た方がイメージが膨らむことから、3D動画を作ってみました。

6.皇女和宮が抱えていた湿板写真を復元したら驚きの結果に!
 和宮の棺の中で見つかった写真湿板にスポットをあてた記事です。この湿板に写っていた画像は、翌日に失われてしまいましたが、湿板写真から画像の復元をやってみました。すると、驚きの結果に!


posted by ネコ師 at 04:15| Comment(0) | TrackBack(0) | なぞの解明 | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
コチラをクリックしてください

この記事へのトラックバック

▲ このページのTOPへ戻る

MIX洋猫と世界遺産ランキングに参加しています。
このバナーは「セサールの酔猫バナー」という名前です。
この酔っぱらいのような猫のことをもっと知りたい方は
猫カテゴリーからご覧下さい。

にほんブムグ村洋猫へのリンク


Copyright Ⓒ Nekoshi, 2007-2017 All Rights Reserved.