アントニオ・ホセ・デ・スクレ(Antonio José de Sucre, 1795 - 1830, 35歳)
今日は、いよいよアントニオ・ホセ・デ・スクレです。世界遺産の古都スクレは、ボリビアの初代大統領であるアントニオ・ホセ・デ・スクレ大元帥にちなんで名付けられました。スクレが31歳の時のことです。

スクレは、南米ではとても有名で、スペインから南アメリカを独立に導いた英雄として知られています。スペイン語版のWikipediaをご覧下さい。他の言語と比較して圧倒的なボリュームです。
スクレについては、日本語版のWikipediaでも詳しく紹介され、その記述もよくまとまっているので、本記事では、日本語版Wikipediaを補足する形で、誰も知らないスクレについて書きたいと思います。
スクレは、ベネズエラ東部のクマナで生まれ、スペイン領アメリカの独立戦争の勃発とともに独立派の軍に入り、士官としてベネズエラ東部で戦歴を重ねました。
ボリビアの国名となったボリビア建国の英雄シモン・ボリバルも実はベネズエラ人。カラカスの出身です。シモン・ボリバルがボリビアの初代大統領となり、第二代大統領がスクレでした。しかし、シモン・ボリバルは名目的な大統領であったことから臨時大統領と位置づけ、スクレを初代大統領とする見方もあるようです。
スクレは1826年から1828年まで2年間大統領を努めます。そして、大統領を辞任した理由が、この国籍にありました。ボリビアの支配層の人たちがベネズエラ生まれのよそ者のスクレの支配を嫌って、反乱を企てたのが原因でした。
スクレは非常に若くして出世し、1824年に現ペルーのアヤクーチョの戦い(Batalla de Ayacucho)でスペイン軍を撃破し、大元帥(Gran Mariscal )に昇格します。ボリビアの大統領を辞任後、1830年、コロンビアで暗殺されます。35歳でした。 早死にした英雄というと、なんとなく坂本龍馬を思い出します。龍馬は、スクレが暗殺された6年後の1836年生まれ、31歳で暗殺されています。
シモン・ボリバルは、中南米の旧スペイン植民地が小国に分かれ分裂していたのでは、再びスペインの植民地になってしまうことを危惧していました。そのため、パナマ会議を招集し、統合を呼びかけますが、各国は批准しません。ボリバルは、スクレに期待しますが、スクレはボリバルの政治姿勢を嫌い、隠遁生活を望みます。
このことは、現在の状況から見れば、ボリバル、スクレ、そして、中南米諸国にとって不幸だったのではないかと思います。中南米諸国は、その後、統合する機会を失い、他の欧米諸国の”国家”と比べ、さまざまな指標において県レベルの国々が一つの独立国として成立することになり、不効率な行政を招き、国の発展を妨げることになります。
この辺までが一般的なスクレの情報です。スクレの人生をもう少し詳しく見ていきましょう。
1821年、スクレはエクアドルの独立派の救援に赴き、翌1822年、キト郊外のPichinchaの戦いでスペイン軍を破り、キトに入城します。
そこには、マリアナ(Mariana Carcelén Marquesa de Solanda:1805-1871)という17歳の美貌の娘がいました。彼女はキトで有数の大富豪の娘でした。戦いの影響を避けるため、当時、彼女は家族と共にサント・ドミンゴ修道院に避難していました。この娘は本当に美しかったようです。(下の画像はスクレ市の自由の家に掲げられているマリアナの肖像画です)

スクレの入城を知った彼女は好奇心からスクレを見に出かけ、そこで二人は直ぐには恋に落ちました。二人は結婚の約束をしますが、スクレはペルー戦線に参加しなければならず、それは直ぐには実現しませんでした。
1824年、ペルーのアヤクーチョの戦いで、スクレの率いる6千の歩兵と騎兵は、9,320名からなる重装備のペルー副王軍を壊滅させます。3時間続いたこの戦いで、スクレ軍の被害は戦死者300名(309名の数字もある)、負傷者600名でしたが、副王軍の死者は1,400名(1,800名とも)、捕虜は数千名にのぼりました。この戦いの勝利は、南アメリカのスペインからの独立を決定づけるものとなりました。
アヤクーチョの戦いの降伏文書署名

その後、スクレは、ボリバルの命令によりアルト・ペルーに部隊を移動し、ペルー副王残党軍を完全に制圧することになります。
1825年4月、アルト・ペルーを解放し、ラテン・アメリカ大陸部での解放戦争は終結します。
1825年8月6日、アルト・ペルー共和国議会は、独立におけるボリバルとスクレの功績を讃え、国名をボリビア共和国と決定し独立を宣言しました。また、首都名を(チュキサカから)スクレと定めました。
ボリバルはラパスに入って臨時大統領になりますが、スクレに政務を預けて去り、スクレは1826年にボリビアの初代大統領に選ばれました。
1828年、スクレがキトを離れてから6 年の歳月が流れていました。その時、スクレはボリビアの大統領を努めていました。スクレは、マリアナとの結婚の約束を果たす決心をします。Vicente Aguirre大佐に、彼女と結婚するための委任状を送ります。その時マリアナは23歳になっていました。この代理人を立てた結婚式は1828年4月20日にキトで行われました。
その2日前の4月18日、(スクレ市にいる)スクレは、サン・フランシスコ軍司令部で反乱兵士の放った2発の銃弾を頭と腕に受け瀕死の重傷を負います。スクレはこの日大統領を辞任しています。(サン・フランシスコ軍司令部は、サンフランシスコ教会を接収して設置されていました。現在、その一部が「軍事歴史博物館」になっています)
彼は、病床からマリアナに次のような手紙を書いています。
「君はもう少しで死者と結婚するところだったよ」

なお、ボリビアの第三代大統領ペドロ・ブランコは、大統領に指名された数日後にラ・レコレタ修道院で暗殺されています。
同年、大統領を辞任したスクレは、キトに向かいます。キトでは妻の実家で静養し隠遁生活を送りますが、時代が彼を求めていました。エクアドルとペルーの国境争いが発生し、スクレはエクアドルの司令官として戦いに参加し、ペルー軍を殲滅します。
1830年、スクレはコロンビアの国会議長に選出されますが、ボゴタから家族の待つキトに戻る途中のBerrueco山中で、同年6月4日、森の中で待ち伏せた複数の暗殺者に狙撃され、頭に弾を受けて即死しました。享年35歳でした。


スクレが暗殺された時、妻のマリアナは25歳でした。
25歳で未亡人になった彼女ですが、スクレが暗殺されてから13ヶ月後にIsidoro Barriga y López de Castroというコロンビア人の将軍と再婚しています。
スクレとマリアナとの間には、1829年7月10日に娘のテレサが生まれました。しかし、再婚数ヶ月後の1831年11月15日、スクレの忘れ形見テレサは、抱いていた義父の手から庭に落ち亡くなっています。これを犯罪と見るか事故と見るかは意見が分かれるようです。
ボリバルは、自分の後継者と考えていたスクレ暗殺の知らせを聞き、ひどく落胆したと伝えられています。そして、ボリバルもスクレ暗殺と同じ年の12月に病死しています。
最後に、再婚した後にマリアナが言った言葉で、この記事を締めくくりたいと思います。「スクレ」に悲哀を感じてしまいます。
"Con Sucre me casaron, con Barriga me casé"
「スクレとは、家族の薦めによる結婚だったけど、バリガとは自分の意志で結婚したのよ」
【追記】
ここで使用している画像は、スクレの「自由の家」、軍事歴史博物館等で撮影したものです。
実際の画像は古ぼけ黄ばんでいるのですが、画像処理をすると、まるで描かれた当時のように色彩が蘇ります。
マリアナがまるで悪女のような印象を与えたかも知れないので、少し補足します。
彼女が45歳の時、二番目の夫に先立たれ、66歳で亡くなっています。亡くなる時もとても美しかったそうです。慈善活動を行い、質素な生活をしていたそうです。当時としては典型的な女性だったようで、悪女だったわけではありません。
Wikiスペイン語版で、「Finalmente, el 15 de diciembre de 1861 」は、1871の間違いです。






