新年最初の記事は、チャルカス・アウディエンシア(LA REAL AUDIENCIA DE CHARCAS)です。古都スクレの歴史を知るのに、この存在は欠かせません。
旧チャルカス・アウディエンシアのあった建物
チャルカス・コロニアル博物館
旧チャルカス・アウディエンシアの建物と同じ通りにある歴史博物館です。ここについてこちらの記事は、「チャルカス・コロニアル・人類学博物館」をご覧下さい。。
概要
チャルカス・アウディエンシアとして知られる「チャルカス・ラプラタ王立聴訴院(La Audiencia y Cancillería Real de La Plata de los Charcas)」は、アルト・ペルー(現在のボリビア)地域におけるスペイン入植地の最高裁判所でした。(Audienciaは、聴訴院の他、行政立法院とも訳される)
1776年まではペルー副王領に属していましたが、その後はリオ・デ・ラプラタ副王領に所属することになりました。リオ・デ・ジャネイロの独立運動が激化(1810年5月25日の五月革命)したことから、1810年に再びペルー副王領に所管が移ります。その本部は、ラプラタ市(現スクレ市、1776年にチュキサカ市に市名を変更)に置かれました。
このように書いても実態がよく見えませんね。アウディエンシアの権限は非常に大きく、その所管が変わるということは大変なことでした。リオ・デ・ラプラタ副王領に所管が移るまでは、リオ・デ・ジャネイロの港からスペイン本国に直接荷物を送ることができず、ペルーのリマ経由で送られていたようです。
1782年にチュキサカ管轄庁(Intendencia de Chuquisaca)が設置されますが、チャルカス・アウディエンシアの長官が管轄庁長官を兼務しました。
設立と所管地域
王立チャルカス・アウディエンシアは、スペイン国王フェリペ二世(Felipe II )の勅令(Real Cédula)により、ペルー副王領の組織として、1559年9月4日に設立されました。
チャルカス・アウディエンシアの権限が及ぶ地理的範囲は、スペイン王室が行った配分に従い、時代により変化しました。
当初は、チャルカス郡(Provincia de Charcas)のみに限定されたものでした。これは、1561年5月20日、ペルー副王コンデ・デ・ニエバス(Provincia de Charcas)が行った郡とアウディエンシアの領域に関する宣言に基づくものでした。:ラプラタは四方に100レグア(419Km)以上の領域を持つ”。(1レグア=4.19Km, 100レグア=419Km)
1563年8月29日、フェリペ二世は、チャルカス・アウディエンシアが管轄する範囲を大幅に拡大しました。この時に拡大されたのは、トゥクマン総督領(la Gobernación del Tucumán)、フリエス総督領(Gobernación del Juríes)、ディアギタス総督領(Gobernación del Diaguitas)、サンタ・クルス・デ・ラ・シエラ総督領(la Gobernación de Santa Cruz de la Sierra。これは、Gobernaciones de Andrés Manso、Gobernaciones de Ñuflo de Chavesを総合したもの)、モクソス郡(Provincia de Moxos)、チュンチョス郡(Provincia de y Chunchos)、さらには、クスコ市に至るまでの土地も領域に含まれていました(従属管轄区)。
このようにして、裁判管轄権の範囲は、北はprovincias de SayabambaおよびCarabaya、西はアタカマ砂漠から太平洋まで、東はモクソス郡(Moxos)とチュンチョス郡(Chunchos)まで、南はチャコ、トゥクマン、フリエス、ディアギタス(Chaco y Tucumán, Juríes y Diaguitas)の各郡に及ぶ非常に広大なものとなりました。
さらに、1566年10月1日には、リオ・デ・ラ・プラタとパラグアイの各総督領もチャルカス・アウディエンシタの裁判管轄の範囲に入りました。
1568年11月30日、チャルカス・アウディエンシアは、「コジャオ(Collao)からラプラタまで」を管轄するという調整が行われ、クスコ市およびその属領はリマ・アウディエンシアの管轄に復帰します。
このようなチャルカス・アウディエンシアの権限拡大は、リマ・アウディエンシアの権限縮小を意味するものでした。
1573年5月26日、コジャオ(Collao)について、二つのアウディエンシアの間で所管境界の確定が行われます。
コジャオはラプラタ市に向かってUrcosuyo 街道ではAyoviri村(エンコミエンダJuan Pancorvo)から始まり、Urcosuyo街道ではOmasuyos街道のAsilo村(エンコミエンダJerónimo de Castilla)から、Arequipa街道では、チャルカス領に向かってAtuncana村(エンコミエンダCarlos Inca)から始まる。
1680年のインディアス法の法規集、法律Ⅳ(王立ラプラタ・アウディエンシア・公使館、チャルカス郡[la Ley IX (Audiencia y Chancilleria Real de la Plata, Provincia de los Charcas)]、第Ⅱ巻XV編(インディアスの王立アウディエンシア・公使館について)に、このアウディエンシアの機能と職権範囲が規定されました。
(ちなみに、法律XVはリマ・アウディエンシアについて規定しています)
チャルカスのラ・プラタ・デ・ラ・ヌエバ・トレド市(ラプラタ市の正式名:現スクレのことです)に置かれたアウディエンシアは、(陛下の)長官(vn Presidente)、5名の裁判官(Oidor、聴聞官ともいう)、(陛下の)検察官(vn Fiscal)、裁判所上級執行官(vn Alguazil mayor)、vn Teniente de Gran Chanciller(この訳語が分かりません)、さらに大臣、役人から構成されていました。
1650年のペルー副王領と各地域に置かれたアウディエンシアの管轄範囲
チャルカス・アウディエンシアの所管地域の縮小
1661年12月6日、ブエノス・アイレス・アウディエンシアの設置に伴い、南部の領地(Río de la Plata、Paraguay、Tucumán)が分離されます。しかし、1671年12月31日、このアウディエンシアは廃止となり、密輸取り締まりをさらに強化するため、これらの領土は再びチャルカス・アウディエンシアに帰属することとなります。このチャルカス・アウディエンシア管轄下への復帰は、その管轄下に置かれた南部の統治者にとって、長距離の移動に多大な労力を要することから大変不便なものでした。
カルロス3世によるボルボン改革の一環として、1776年にリオ・デ・ラ・プラタ副王領が設置され、チャルカス・アウディエンシアが所管していた領域は、この副王領の行政範囲に移管されることになります。
1783年4月14日、ブエノス・アイレス・アウディエンシアが再度設置され、Río de la Plata、 Paraguay、Tucumánにおけるチャルカス・アウディエンシアの司法権限が移管されます。
1776年のリオ・デ・ラ・プラタ副王領の設置当時、チャルカス・アウディエンシアは、26の代官領(corregimiento)を所管していました。それらの代官領は、チャルカス郡を構成するスクコ市、ラプラタ市、ラパス市のいずれかに帰属していました。これは、Río de la Plata、Paraguay、Tucumánおよび Santa Cruz de la Sierraの各総督領に属する代官領も同様でした。
1787年5月3日、スペイン国王の勅令(Real Cédula)により、スクコ・アウディエンシアが設置され、リマとチャルカスのアウディエンシアが所管していた領地の司法権が移管されました。
教会司教区の所管区分について
次に、教会の管轄範囲を見てみましょう。旧ペルー副王領にある教会は、以下の区分で各司教区を分割管理しました。ご覧のとおり、ラプラタ大司教区(Dependían del arzobispado de La Plata)が広大な地域を所管していたことが分かります。そして、ラプラタ大司教区の大司教座は、世界遺産スクレのメトロポリタン・カテドラルに置かれました。
・スクコ司教区:Lampa, Azángaro y Carabaya の代官領
・ラプラタ大司教区:La Plata-Potosí, Oruro, Parma, Carangas, Chayanta, Cochabamba, Porco, Tarija, Tomina, Yamparaes, Lipes, Atacama, Apolobamba, Pilaya y Paspaya y Pomabamba.の各代官領
・ラパス司教区:: La Paz, Larecaja, Sicasica, Pacajes o Berenguela, Omasuyos, Chucuito y Paucarcolla の各代官領
サンタ・クルス・デ・ラ・シエラ司教区:Mizque代官領
【引用・参考URL、文献】
http://www.esacademic.com/dic.nsf/eswiki/121814
http://sarielalarico.blogspot.com/
HISTORIA DE BOLIVIA, Sexta edición, José de Mesa, Teresa Gisbert, Carlos D. Mesa Gisbert, 2007
アウディエンシアについての補足説明
上の説明では、結局、「アウディエンシア」って何なの? という疑問が残ると思うので、もう少し詳しく説明します。
16世紀初頭、スペインのアメリカ大陸植民地の管理は、「インディアス枢機会議」が行っていました。この組織は、もともとは1511年、スペイン国王フェルナンド2世の時代に組織されたカスティーリャ枢機会議がその母体になっていますが、1524年8月、カルロス1世によって国王直属の枢機会議に格上げされ、「インディアス枢機会議(Consejo Real y Supremo de las Indias)」となりました。
スペイン植民地に設置された「アウディエンシア」は、スペイン本国のインディアス枢機会議や通商院が制定した法令を植民地で施行するインディアス枢機会議所管の組織で、その名前には「王立(Raal)」、その幹部の肩書きには「陛下の(vn)」が付き、スペイン王室の利益を直接代表する組織でした。
その権限は、司法権の他に、徴税、教会の管理と多岐にわたり、立法権も有していました。これらの権限は副王の権限と重複したため、副王と対立することもありました。
スペイン王室はこの時代、その財政がたびたび破産の危機を迎えます。そのたびに植民地からの効率的な上納を確保する工夫が行われ、植民地への締め付けが強化されます。
スペイン王室から見れば、アメリカ大陸の植民地管理の方法は、任命した副王による委託管理と、インディアス枢機会議を通じた王室による直轄管理の二つの方式を同時期に採用していたことになります。
従って、副王が所管する副王直轄領、総督領、長官領といった副王領内統治のための行政区分とは別に、司法所管区分としてスペイン王室派遣の役人からなるアウディエンシアを通じた管轄区分があり、かつ、副王とアウディエンシアの権限がかなり重複しており、行政・立法は副王、司法はアウディエンシアという単純な区分ではなく、司法・立法・行政の権限が入り乱れた非常にわかりにくい統治構造になっています。副王がアウディエンシアの長官を努めることもありました。
ネットで検索しても、アウディエンシアの意味が結局よく分からないのは、この複雑な構造のせいではないかと思います。
当時の統治体制(行政区分)については、過去記事をご覧下さい。
最初の写真がチャルカス・アウディエンシアのあった建物ですが、実は、手前の建物だけではなく、見えている建物全てがチャルカス・アウディエンシアの建物でした。
この通りの名前は、「アウディエンシア通り」といい、その通りの中程にチャルカス・アウディエンシアの本部として使われた建物が残っています。現在は、アンディナ・シモン・ボリバル大学(Universidad Andina Simon Bolivar)の校舎として使われています。
1809年5月25日の「自由の叫び」は、この建物に逮捕監禁されていたスダーニェス博士を救い出すことから始まった反乱でした。
関連地図
本記事関連市内地図(クリックすると拡大できます)
追記
チャルカス・アウディエンシアの正式名称に使われている「Cancillería Real」をどう訳したらよいのか適訳が見つかりません。法律、行政に係るあらゆる書類を起草したり証明したりする組織のようです。
http://es.wikilingue.com/ca/Canciller%C3%ADa_Real
Cancilleríaという単語には意味がたくさんあり、日本の領事館の西語訳はこの単語を用いています。