2010年10月24日

世界遺産スクレ:軍事歴史博物館


  軍事歴史博物館(MUSEO HISTORICO MILITAR)は、スクレの中央市場の直ぐ近くにあります。スクレで最も古い教会の一つであるサン・フランシスコ教会の隣に位置しています。

 元々は、サン・フランシスコ修道院として使われていた建物を改修して、軍事歴史博物館にしました。

 入場料は10Bs.。この他、写真を撮影するのであれば、さらに 5Bs.。

 この博物館には、太平洋戦争とチャコ戦争で使われた武器や装備が展示されています。太平洋戦争といっても、日米の戦争とは別のものです。このような博物館は歴史を知らないとつまらないのですが、歴史を知っていると結構楽しめます。

 そこで、簡単に歴史のおさらいをしましょう。

歴史おさらいコーナー


 ボリビアは、1825年にスペインから独立します。この頃のスペインは国力が衰え、アメリカ大陸のスペイン植民地は、イギリス、オランダ、フランスなどの侵略に脅かされていました。

 南米の最初の独立への動きは、1809年、スクレで発生した「自由への叫び」といわれる反乱がその端緒になったとされていますが、なにしろ、この当時、スペイン本国はナポレオンにより侵略されていました(スペイン独立戦争(1808年-1814年))。
 この機に乗じて、アメリカ大陸のスペイン植民地は次々と独立を宣言していきます。

1811年8月 パラグアイがスペインから独立を宣言
1816年7月 ラプラタ連合(アルゼンチンおよびその近傍)がスペインから独立を宣言
1818年   チリがスペインから独立
1819年12月 ボリバル、コロンビア共和国 (大コロンビア)を宣言
1821年2月 メキシコがスペインから独立宣言
1821年6月 ベネズエラがスペインから独立
1821年6月 ペルーがスペインからほぼ独立
1821年9月 中米グアテマラのスペイン総督府が独立を宣言
1822年5月 エクアドルがスペインから独立
1822年9月 ブラジルがポルトガルから独立を宣言
1825年8月 ボリビアがスペインから独立
1828年   ウルグアイの独立が承認される。

太平洋戦争(Guerra del Pacífico):1879-1884


 太平洋戦争は、1879年から1884年にかけて、ボリビア共和国・ペルー共和国同盟とチリ共和国の間で行われた戦争です。この戦争は複雑でよく分からないのですが、単純に見れば、火薬の原料となる硝石がらみの権益争いのようです。この戦いで、ボリビアは海岸に接する領土を失い、内陸国となりました。

チャコ戦争(Guerra del Chaco):1932-38


 チャコ戦争とは、1932年から1938年にかけてボリビアとパラグアイの間で行なわれた戦争です。南米のスペイン旧植民地が独立した頃は、国境線が確定しておらず、この確定のための戦争が国境を接するほとんど全ての国との間で行われました。国境の確定には、「戦争」という手段が採られるのが当時の常識でした(現代も同じですが)。国境紛争は、利権が絡んだ時に発生します。

 ボリビアとパラグアイ両国の未確定国境地帯であった広大なグラン・チャコに石油が埋蔵されている可能性があるという調査結果を受けて、ボリビアがこの戦争を仕掛けました。しかし、この戦争は『代理戦争』と呼ばれています。グラン・チャコの石油掘削権取得を狙った米国企業等の策謀によるもののようです。当時のボリビア政府はスタンダード・オイル社と、パラグアイ政府はロイヤル・ダッチ・シェル社と結びついており、これらの石油メジャーが戦争に大きく荷担したと言われています。

 この戦いでは、ボリビア側が兵員数、装備の面から有利と考えられていました。しかし、自然条件の厳しいチャコに侵攻したボリビア軍は、装備の貧弱なパラグアイ軍に惨敗します。もろんパラグアイ側の被害も甚大でした。この戦いにおけるボリビア兵士の捕虜は諸説がありますが、2万人から20万人。パラグアイ政府には捕虜を養うだけの余力が無く、この捕虜の多くはパラグアイの食糧難から殺害されたと言われています。もともと人口の少ない両国にとって、この戦争による戦死者の数の多さは、その後の国の発展にも大きな影響を及ぼしました。

 私の知り合い(ボリビア人)に聞くと、おじいさんがこの戦いで戦死したという人が結構います。このような話を聞くと「捕虜20万人殺害」というのもあり得るのではないかと思いますが、現実には、そんなはずがありません。それだけの兵士をどこで殺害して、遺体をどこに埋めたのでしょうか。単なる数字遊びの世界です。ただ、ボリビア側の戦死者の数は、公表よりはるかに多かったのではないかと思います。

 この戦いについては過去記事をご覧下さい。
 博物館の内部をご案内します。

【1階】

 1階は広い中庭に、大砲を中心とした兵器が陳列されています。

【2階】
 戦争で使われた装備が陳列されています。


写真集


 中央市場に面したサン・フランシスコ教会。毎週末に結婚式が行われています。

museo_milital01.jpg


 サン・フランシスコ教会に接する軍事歴史博物館の入り口
museo_milital02.jpg


  軍事歴史博物館の入り口には、ボリビアの解放者スクレ将軍の銅像が出迎えてくれます。左側奧の兵隊さんに、「博物館に来たの。じゃあ、奧に行って」と言われました。

museo_milital04.jpg


 奥に進むと広い中庭があります。「あれ? 飛行機が!」

museo_milital05.jpg


 中庭は、ほとんどが前述の2つの戦争で使われた大砲が占めています。 

museo_milital06.jpg


 口径○○mm砲、という説明を受けますが、さっぱり分かりません。
 これを見て感じたのは、スペイン侵略当時の大砲とは異なり、意外に小さな大砲だということです。砲身の鋳造技術が向上したのでしょう。大砲のほとんどがドイツ製とイギリス製でした。

museo_milital07.jpg


museo_milital08.jpg


museo_milital09.jpg


museo_milital10.jpg


museo_milital11.jpg
museo_milital12.jpg


 中庭に飛行機発見! この飛行機は、空軍の練習機だそうです。ブラジル製です。ここにあるということは、墜落しなかったようです。

museo_milital13.jpg


 車輪がゴム製のものは、修復の段階で造り替えたものです。オリジナルは木製おるいは鉄製でした。

museo_milital14.jpg


museo_milital15.jpg


 案内をしてくれた兵隊さん。ガイドとしては、?マークが付きますが・・・。
 ご覧の通り、私以外は誰も観光客がいません。何しろ、入り口には軍事歴史博物館の看板はなく、軍の施設となっているので、よほど観光ガイドを読んでいる人でないとここまでは来ないようです。

museo_milital16.jpg


museo_milital17.jpg


museo_milital18.jpg


museo_milital19.jpg


museo_milital20.jpg


museo_milital21.jpg


museo_milital22.jpg


 ここから二階です。
museo_milital23.jpg


museo_milital24.jpg


 タイプライターと、中央が計算機。

museo_milital25.jpg

 この計算機は初めて見ました。これから「タイガー計算機」、そして電卓へと進化していったのでしょう。見かけは「タイガー計算機」より洒落ています。

museo_milital26.jpg


 この骸骨のようなタイプライタも初めて見ました。欲しいです。

museo_milital27.jpg


 暗号送信機です。たぶんドイツ製。エニグマ暗号機を開発したドイツですから。

museo_milital28.jpg


 コピー機(?)です。実際は、輪転機のようです。デザインが洗練されています。

museo_milital29.jpg


 これは、??? 忘れました(汗)。 何でしょう? 輪転機の一部のようです。

museo_milital30.jpg


 砲弾輸送用のコンテナです。そう言われれば分かりますが、見ただけではさっぱり分かりません。これは初めて見ました。

museo_milital31.jpg


 迫撃砲弾です。これも言われて初めて分かります。そういえば「羽がある!」。普通の砲弾とは違います。

museo_milital32.jpg


 これ、何でか分かりますか? リュックサックです、・・ではなく、無線機用の背負い袋です。

museo_milital33.jpg


 これもなんだか分かりますか?
 測距儀です。これで距離を計測します。

museo_milital34.jpg


 ところが、です。この器具は、潜望鏡のようにもなります。こうなると、どうやって測定するのかさっぱり分かりません。何しろ角度を示す目盛りがないし、・・、どうやって使うのか私には理解できません。これ、欲しいです! 

museo_milital35.jpg


 何という楽器かは知りませんが、この痛みようは、・・・。どうすればこんなになるのでしょうか?  と思ったら、ここは軍事歴史博物館でした。軍隊の突進に使ったのかも知れません。

museo_milital36.jpg


 無線電話機です。チャコ戦争で使われたものだそうです。さすがはドイツです。チャコ戦争の外国人軍事顧問はドイツ人でした。

museo_milital37.jpg


 え~っ。携帯電話! これもチャコ戦争で使われたものだそうです。「いつの時代だよ!」と思いたくなるような機器ですが、・・・。

museo_milital38.jpg


 無線機の交換機です。

museo_milital39.jpg


 二階の展示室。

museo_milital40.jpg


 ボリビア軍の制服です。色別に出身地域を示しています。スクレ駐屯部隊は黄色です。

museo_milital41.jpg


 チャコ戦争で使われた小銃です。

museo_milital42.jpg


 チャコ戦争の時の軍服です。とても厚手の生地でできています。とてつもなく暑いチャコで、ボリビア兵はこの軍服には苦労したと思います。

museo_milital43.jpg


 機関銃です。チャコ戦争で使われました。ところが、この機関銃は水冷式。連射により砲身が熱くなるのを水で冷やす方式なのですが、チャコには「水がない!」。そこで兵士たちは注水タンクにオシッコを入れて砲身を冷やしたそうです。兵隊さんの手の位置が注水口です。

museo_milital44.jpg


museo_milital45.jpg


museo_milital46.jpg


 映画でよく見る機関銃の弾。実物を初めて見ました! ちょっと感動!

museo_milital47.jpg


 チャコ戦争で使われた水筒。手前の小さい方がパラグアイ軍のものです。

museo_milital48.jpg


museo_milital49.jpg


museo_milital50.jpg


 奧の小さい固まりが手榴弾。中央が煙爆弾、手前がガス弾です。

museo_milital51.jpg


 さて、この記事の締めくくりは、絵画で。

 スペインからの独立運動の中で発生した1816年のフンバテの戦い(Batalla de Junbate)で、スペイン人兵士の心臓を食べたというタラブコ族(これについては過去記事で詳しく説明しています)。

Batalla_Junbate.jpg


 ボリーバルとスクレとの接見

Encuentro_Sucre_Bolival.jpg


 そして、スクレの死。 スクレは暗殺されました。

Muerto_Sucre.jpg



 都合により、しばらくの間、ブログの更新はお休みします。


追記:都市伝説


 この博物館に隣接するサンフランシスコ教会の向かいに広場(Plaza Santa Cruz)があります。そこは昔、墓地として使われていたのだそうです。これにはびっくり。なぜなら、そこは中央広場(Plaza 25 de Mayo)から1ブロックの所に位置しているからです。

 スクレの町は当初はとても小さく、人口が増えるにつれて拡張していったのですが、墓地の位置が、あまりにも中心部に近いのには驚きました。

 先日の記事でご紹介した知人の家は、中央広場から4ブロックですが、そこからも人骨が出土しています。墓地を町外れに造ったというよりも、町に隣接した、ごく近くに造ったという感じです。

 そうすると、当然のごとく、都市伝説が生まれます。古い都市には、幽霊の話や怪奇な話がたくさんあります。残念なことに、スクレについては、それをまとめた書物が見あたりません。ポトシにたたくさんあるそうです。

 そのうち、ご紹介できればと思います。


 
posted by ネコ師 at 16:41| Comment(0) | スクレの博物館 | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
コチラをクリックしてください

▲ このページのTOPへ戻る

MIX洋猫と世界遺産ランキングに参加しています。
このバナーは「セサールの酔猫バナー」という名前です。
この酔っぱらいのような猫のことをもっと知りたい方は
猫カテゴリーからご覧下さい。

にほんブムグ村洋猫へのリンク


Copyright Ⓒ Nekoshi, 2007-2017 All Rights Reserved.