チチェン・イッツァ(Chichén Itzá)に行ってきました。昨日カンクンに戻ってきたところです。ネコ師は、今、なんとメキシコのカンクンに来ています。
チチェン・イッツァは、1988年に文化遺産としてユネスコの世界遺産に登録されました。久しぶりの世界遺産の記事です。いつも、世界遺産古都スクレだけでは、どうも力が入らない。
チチェン・イッツァは、カンクンから車で3時間くらいの所にあります。なんと、今回、チチェン・イッツァに3泊もしました。遺跡を徘徊すること十数時間。世界遺産を堪能してきました。ホテルの予約は、『agoda』というインターネット格安ホテル予約サイトで予約しました。
ウユニ塩湖の場合は、時期により塩湖の表情が変化するため、写真を大量にアップしましたが、チチェン・イッツァの場合は、いつ見ても同じなので、アップする画像は少なめにします。その代わり、昔の写真と比較できるようにしたいと思います。
ユネスコの世界遺産の修復はすばらしいのですが、まるで「昨日造ったような世界遺産」になってしまうことがあります。まだ、このブログでアップしていない(アップするのを忘れていました)、パラグアイの『Jesuiticaのイエズス会の遺跡』は、まさに、昨日造ったかのようでした。
チチェン・イッツァのような古代の遺跡を見るとき、遺跡の発見当時はどうだったのか、修復前はどうだったのかが、気になります。
チチェン・イッツァの歴史
チチェン・イッツァの遺跡は古くから知られていましたが、ヨーロッパで知られるようになったのは、1843年に探検家、作家、外交官でもあるジョン・ロイド・スティーブンス(John Lloyd Stephens)によって出版された「ユカタンの旅の事物記(Incidents of Travel in Yucatan)」によってですが、一般に広く知れ渡ったのは、米国の駐メキシコ領事だったエドワード・トンプソン(最初に探索を始めたのは1885年。彼は当時25才の米国の駐メキシコ領事でした)の功績が大きいようです。彼は1904年から1910年にかけ、ユカタン半島にあるマヤ文明の遺跡を調査しました。チチェン・イッツァから二週間で、ガイドから聞き出した次の目的地トゥルムに到着しています。
まずはチチェン・イッツァ遺跡の地図で大体の位置関係を把握してください。適当な地図がないので、現地案内図から作ってみました。
追記:位置図を大幅に改善しました。クリックすると拡大できます。
スティーブンスは、チチェン・イッツァでは、エスタンシアと呼ばれるこの周辺の土地を購入し、1904年から『セノーテ』と呼ばれる神聖な泉の底をクラムシェルでさらい、また、潜水服を使って財宝を探しています。これは全く科学的なものではなく、この行為でたくさんの遺物が破壊されました。トンプソンは、こうして発掘した数千点の出土品を違法に米国に持ち帰っています。つまり、盗掘です。
神聖な泉 『セノーテ』
エドワード・トンプソンがセノーテの底さらいに使ったクラムシェル。チチェンイッツァ遺跡の入口付近(トイレの前)に陳列してあります。トイレに行く人はたくさんいますが、誰もこのクラムシェルに興味を示しません。
エドワード・トンプソンは、「El Castillo」と呼ばれているピラミッドの階段部分で、ピラミッド内部への進入路を発見し、そこで出土したものを”盗掘”しています。セノーテからの盗掘品は、ハーバード大学博物館に保管されていましたが、2008年、同大学館長の申出で、メキシコ政府に(その一部が)返還されることになったそうです。実現したかどうかは不明ですが。 → 案内板の写真で確認したら、案内板に2008年に返還されたと書かれていました。
ガイドの話を元に書いているので、トンプソンが超悪者という感じですが、トンプソンのアシエンダは、1920年に不法に占拠され、彼の博物館は焼き払われています。この時期は、メキシコ革命の後の「革命収拾の時代」だっとという時代背景があり、「不法、違法」という言葉は、書いていてもむなしく響く感じがします。
ピラミッドの階段は、91段あります。これが4面あるので、合計で364段。これに最上階のステップを加え、365段、つまり一年を表しています。このピラミッド自体が、世界最大のカレンダーと言われているゆえんです。エジプトのクフ王のピラミッドでも、同じような論理を展開している研究者がいますが、どうもこじつけのように思います。
チチェン・イッツァの本格的な考古学的な調査および修復は、1924年に米国のカーネギー研究所が行ったもので、これは「チチェン・プロジェクト」と呼ばれ、20年間も続けられました。
このピラミッドの修復当時の写真です。たぶん、1920年代だと思います。階段部分が相当崩れていますが、頂上の建物もしっかり残っています。
天文観測所(Caracol Observatorio)
Caracol Observatorio(巻き貝の観測所)と名付けられている天文観測施設施設と思われる遺跡です。
下の写真は、19世紀中頃に撮影されたものです。
これが現在の状態です。1850年代とほとんど変化がないのが分かります。チチェン・イッツァ全体で言えることですが、遺跡の修復は、発見当時の状態への復元までに留めているという印象です。ピラミッドだけは、大幅に復元されていますが。
この修復作業は、周辺の住民が無償で働いたとガイドが言っていました。
下の写真は、「戦士の神殿」の、やはり19世紀の写真です。ネコ師が勝手に着色していますが。
これが現在の写真です。観光客が少し邪魔なので、"消えて頂きます"(笑)。
マヤ文明の研究は近年急速に進んでおり、数年前の常識が通用しなくなっています。5年後にはまたマヤ文明の別の側面が明らかになるかも知れません。マヤ文字の解読が進んでいるのが原因のようです。
「チチェン・イッツァ」とは
『チチェン・イッツァ(Chichén Itzá)』とは、マヤ語で魔法使いの井戸口という意味です。「イッツァ」の最後の音節にアクセントがあり、「イッツ ハー」と発音するそうです。
Chi (boca) 口
Chen (pozo) 井戸
Itz (magos) 魔法使い
ha (agua) 水
20年前、15の大学が共同してメキシコのカリブ海沿岸にあるセノーテの調査を行いました。その結果、世界一長い洞窟であることを確認しています。
5年前、Tulumで3つの墓が見つかっています。そのうちの一つは女性のもの。炭素14による測定結果、紀元前1万年という驚くべき年代をはじき出しています。ただし、炭素14による年代測定法は、古い年代ほど、より古く計測してしまうため、このデータをそのまま信用することはできないのですが、世界の四大文明に匹敵するものであることは間違いないようです。マヤ文明、インカ文明ともに、中南米の文明は、比較的新しいと考えられてきましたが、新たな遺跡が次々と見つかっており、その起源は、どんどん過去にさかのぼっています。これが、マヤ、インカ文明ファンの心を掻き立てます。
スペイン人侵略者、教会によって破壊されたため、数少ないマヤ文明の情報の中で、バイブルと言われているのが「PoPol VUH」。グァテマラのキチェ(Quiché)地域に住むインディオの神話です。
1550年頃にマヤの神話を口述筆記したもののようですが、マヤ語とラテン語で表記された原本は失われました。18世紀前半に修道士フランシスコ・ヒメネスによって写本されてものが、現存する最古のもののようです。
マヤの神話は、マヤ、アステカなど地域と時代を越えて、基本的には共通しているようです。マヤの最高神ククルカン(羽毛のあるヘビの姿の神)は、テオティワカンで見ることができる「ケツァルコアトル」と同じものです。「ククルカン」と聞いて思い出すのは、漫画「からくりサーカス」に出てくる巨大なあやつり人形。マヤ文明の歴史を知ると、漫画の鑑賞にも厚みが増します(笑)。
メキシコの文明については、過去記事「テオティワカン」シリーズで書きましたので、そちらもご覧ください。
チチェン・イッツァの遺跡は、「マヤ」のものが50%、残りの50%が「トルテカ」のものだそうです。この二つの文明では、建築様式が微妙に違います。マヤ様式では、建物の角を丸くし、トルテカ様式では、角張ったものにします。ピラミッドがその典型で、四角錐の角が丸く加工されているのが分かると思います。また、マヤ様式では、建物の天井を高く造るという特徴があります。ピラミッドの頂上の神殿らしきものは、天井の高さが6メートルもあります。
球技場
ピラミッドの近くにボール・ゲーム場(球技場)があります。これは、バスケットとサッカーを組み合わせたようなゲームで、時代を越え、マヤ文明の重要なゲームだったようです。この勝者は、生け贄にされたとの説もありますが、諸説あるようです。チチェン・イッツァの球技場はとても広く、162m×52mの広さがあります。矢印で書いているのがゴールのリングです。このリングに、手を使わず、足、腰、肩、頭だけで入れなければなりません。ボールは生ゴムから作られたもので、重さは3Kg(我々のガイドは8Kgと言っていました)もあり、ヘディングしたらむち打ち症になりそうです。
緯度の謎
チチェン・イッツァの緯度は、北緯20°40′58.15″
テオティワカンの太陽のピラミッドは、北緯19°41′32.54″その差は、わずかに1度弱で、同一緯度上にあると言えると思います。チチェン・イッツァと同じ緯度にあるピラミッドとしては、やはりユカタン半島にあるEdznáのピラミッド。これは、北緯19°35′48.08″で、そのズレはわずかに6分です。
数万キロに及ぶ『インカ道』は有名(これも過去記事でご紹介しています)ですが、マヤもこれに劣らぬ道路を造りました。カリブ海側のコバ(Coba)からチチェン・イッツァまで、幅10mの「マヤ道」がまっすぐに延びていました。このコバにあるピラミッドの緯度は、北緯20°29′39.49″。ほとんどブレがなく、カリブ海側のコバから、チチェン・イッツァ、そしてメキシコ高原のテオティワカンを同じ緯度上の直線で結ぶことができます。
ユカタン半島は、非常に平坦な地形のため、山がなく、山のように見えるのは遺跡と考えられています。このような未発掘の遺跡群は、ユカタン半島だけで1万カ所に及ぶということです。マヤ文明の調査は、まだまだ始まったばかりで、今後の研究が待たれます。
ガイドの話を聞いていて面白いと思ったのは、メキシコ人にとって不評なのは、前出のトンプソンともう一人、マヤ族の女性。アステカは、コルテスによって征服されたのではない。青い目を持ち、ひげを蓄えたコルテスに恋したマヤ族のたった一人の女性マリンチェによって滅んだと。スペイン人のコルテスの目の色が青かったとは思いませんが、マリンチェはコルテスとの間に子どもをもうけ、その子孫はメキシコに現在もいるようです。ここら辺の詳細は、過去記事「テオティワカン」シリーズをご覧ください。
ピラミッドの配置
上の地図で赤い線を引いているところをご覧ください。北と南のセノーテの線上にピラミッドが配置されているのが分かります。ユカタン半島は非常に平坦なため、建物の建設位置や方向は地形に左右されるということはありません。つまり、その配置・方向には何らかの意味が込められているのだと思います。こういう考えで線を引いてみたのが上の地図です。
ピラミッドは、その4辺を東西南北にほぼ向けています。正確に東西南北ではないのには理由があるのだと思います。春分の日と秋分の日にククルカンの降臨が見られるのは、北東側の階段です。これを演出するために、微妙にピラミッドの角度を東西南北の基軸からずらしたのかもしれません。
いつか詳しく説明したいと思いますが、測量の基本は、「見通す」ということです。これは昔も今も何ら変わっていません。「見通す」という行為には、ほとんど誤差が発生しません。「驚異的な精度」と言われることも、別に不思議でも何でもありません。無限遠の恒星、太陽を使って見通す限り、望遠鏡がなくても精度が高いのが当たり前だからです。計算すると驚異的な数字がはじき出されます。小学生がやっても(笑)。
二つのセノーテの間に造られたピラミッド。その位置は二つのセノーテの中間ではなく、南側に大きくずれています。なぜこの位置に造ったのか、必ず意味があるはずです。星座の配置・比例と関係があるのかも知れません。あるいは、全く想像もできないような意味を含んでいるのかも知れません。はっきりしていることは、ピラミッドのような中心的な構造物の配置は、緻密な計算によって決められているということです。「見通す」ことが可能な場合、基線からずれているということは、何らかの重要な意味が含まれているのだと思います。
マヤ族の家は、52年経つと破壊され、新たな家を建築したそうです。マヤ文化の都市が放棄された理由は、もしかしたら、この52という数値に関係あるのかも知れません。その場合の計算方法は、10進法ではなく、20進法かもしれません。
マヤに関する本はたくさん発刊されていて、チチェン・イッツァのサービスセンターの中のブックコーナーだけでも100種類以上ありました。チチェン・イッツァには、4日もいたので、もう来ることはないと思いますが、今後の研究の成果が楽しみです。
ピラミッドに登れるのなら、また行っても良いのですが・・・。
チチェン・イッツァは、歴史的にも奥が深く、とても書ききれません。かといって、シリーズで書く気力がないので、このくらいにします。いろいろ書きたいことがありすぎて。マヤのカレンダーについては、もう少し勉強してからアップしたいと思います。
とても参考になりました!
しかし、マイアミ空港のお寿司が一番ましとは。。。(こちらマイアミ在住です)
おいしいメキシカンを期待します。
コメントありがとうございます。
お役に立てて光栄です。
マイアミ空港のお寿司屋さんは、味噌しるも皿で出てくるなど、食器面ではひどいのですが、味は良かったです。誤解の無いように追加しますと、カンクンの日本人の板前さんのいるレストランではお寿司は食べていません(笑)。
コメントの投稿ができないのでおかしいとおもったら、自分で設定した「禁止ワード」の文字が入っていました(汗)。