2011年01月25日

1月24日は3名の司祭がアイマラ族に喰われた日


 今日1月24日、職場の人たちが組合の動員でスクレ市内を行進し、お墓まで行くという耳寄りな情報をキャッチ。何の行進か聞いたら、なんともおぞましいボリビアの歴史が明らかになりました。

 1899年、ボリビアは内戦状態に突入します。その原因は、首都をスクレからラパスに遷都しようとする動きに対し、これに反対する勢力が衝突したというものでした。

 1899年1月24日、最初の虐殺がラパスに近いCosmini、Ayo Ayoという所で発生します。アイマラ族のインディオ達は、神に祈るために教会に居残った3人の司祭を捉え、殺害した上、遺体をバラバラに切断し、その足と心臓を食べたと伝えられています。

 以前、タラブコの記事で、タラブコ族(ケチュア語族)がスペイン人の心臓を食べた記事を書きましたが、アイマラ族のインディオも人間を食べたのか、と驚きました。ボリビアにいるのはどんな国民なんだ、という感じです。

 タラブコ村でスペイン人が心臓を食べられた話は過去記事「タラブコ村のカーニバル(詳細情報)」をご覧下さい。写真は、「スクレ近郊のタラブコ村のカーニバルとカニバリズム」にもたくさん掲載しています。ここでの戦闘は「フンバテの戦い」といわれ、1816年3月12日に発生しています。Ayo Ayoの虐殺より83年も前のことです。

 スクレの共同墓地にはこの戦いで亡くなった人たちの慰霊碑があります。

 ポルコ、ポトシの銀山により栄えたスクレですが、銀を掘り尽くし、時代はスズ(錫)に移っていました。ラパスの近くで錫鉱山がたくさん見つかり、物流の拠点はラパス移っていました。斜陽の銀鉱山資本家からなる保守党と新興の錫鉱山資本家からなる自由党との衝突でした。この内戦は最後の市民戦争と呼ばれています。

 保守党はこの戦いに敗れ、首都機能はラパスに移管されます。スクレに残ったのは首都という名と最高裁判所だけ。他の行政機能は全てラパスに移りました。

 首都が移ったのには、こんな血なまぐさい出来事があったのです。虐殺は他にもいくつか起きました。この戦争については日本語では紹介されていないようです。

 スクレとラパスの関係は、このような歴史も踏まえ、市民の間にかなり感情的なものを感じます。この虐殺を聞いたインカ帝国東部方面国境守備隊タラブコ族は、「いつかアイマラを喰ってやる」と血が騒いでいるかも知れません。冗談ですが。

 ボリビア独立後の歴史は、内乱の連続で気が滅入ります。独立までの歴史の方が書いていて面白いのですが、その後の歴史はパスすることにします。

 ネコ師の任期も残す所あと4ヶ月。できるだけスクレの魅力を伝えたいと思います。

 今度、スクレの墓地にも行ってみたいと思います。そのうち、スクレの墓地という記事でも書こうかと思います。サンフランシスコ教会の向かいにあるサンタクルス広場も以前は墓地でしたし、カテドラルの裏側も墓地でした。スクレ市の拡大に伴い、墓地はどんどん郊外に移転されていきますが、墓地の移転に見る世界遺産スクレの発展過程というテーマも面白いかも知れません。私は書きませんが。


posted by ネコ師 at 14:36| Comment(0) | ボリビア・スクレの歴史/人物 | 更新情報をチェックする

2011年01月24日

ピリ・レイスの古地図の謎に挑む(第3回)

 ピリ・レイスの古地図に挑む、第三弾は、ピリ・レイスの古地図の失われた右半分の復元に挑みます。

ピリ・レイスの世界地図は、現存する部分は、アフリカの一部と南米大陸の海岸線が描かれた部分ですが、どう見ても、半分に切断されているように見えます。元の原図はどのようなものであったのか、興味をひかれます。

 ピリ・レイスの地図の中の書き込みに、インド、中国、パキスタンについてはポルトガル人の作成した地図を使ったと記載されているので、右半分があったことは、先ず、間違いありません。ピリ・レイスの地図は、世界地図だったと言うことです。地図には沢山の文字が記載されています。その全文は、過去記事をご覧ください。詳しくご紹介しています。

 もし、これが世界地図であるのなら、その失われた部分は、どのようになっていたのでしょうか。

 今回の記事では、それを復元してみます。

 ただし、根拠があるわけではないので、その辺はお手柔らかに。

Piris_Full_Map.jpg


 以下のリンクをクリックすると、フラッシュで見ることができます。
 文字が多いのですが、それなりに楽しめるのではないかと思います。

 できれば、過去記事もご覧頂くとうれしいです。

 フラッシュの中でオスマントルコが制海権を握っていたとありますが、実際には、インド航路ではポルトガルが勢力を伸ばし、オスマン帝国の紅海方面の艦隊の提督であったピリ・レイスは、ポルトガル艦隊との戦いで自分の艦隊を置き去りにして逃げ帰った罪で、カイロで斬首の刑にあっています。それも、略奪した戦利品を守るために部下の艦船を置き去りにして戦線離脱したのですから、処刑されるのも当然だったのでしょう。

 ピリ・レイスの記録を調べた限りでは、この古地図を作成した以外、取り立てて紹介する人物ではなさそうです。

     『ピリ提督の古地図の復元』をフラッシュで見る

 このフラッシュは、サイズを小さく抑えるために画質を落としているため、音質も画質も悪いので、高画質版をアップします。

 ダウンロードして、見たら捨ててください。10Mbもあるので(笑)。
 実行ファイル形式です(Pili_Reis_Full_Map.exeというファイルです)。下のリンクからダウンロードできます。

 復元した地図をもっと詳細に見ることができます。

     超高画質な実行ファイルをダウンロードして見る

 このバージョンで作っているので、アップしたYouTubeのフラッシュの質を見ると悲しくなります。

 ピリ・レイス関係の記事を3回に渡ってアップしました。

 ピリ・レイスの地図が、オーパーツだとする考え方には、個人的には違和感を持ちます。○○の専門家が論文で発表したとかいうのは、たいていでたらめです。その論文を読んだこともない人間が書いているのがほとんどです。最低でも論文を読んでいることが議論の前提条件だと思いますし、それを引用するのは、原文を読んでからにして欲しいと思います。

 ピリ・レイスの地図に関する記事はこれで終わりにしますが、また、新たな見地が見つかったなら、追加記事を書きたいと思います。

 現時点で関心があるのは、ピリ・レイスの地図に書き込みをしたのは誰かということです。

 最初は、ピリ・レイス自信の書き込みかと思っていました。でも、翻訳している過程で違うことが分かりました。誰が書き込みをしたのでしょう? 翻訳して分かることは、書き込みをした人物は、あまり頭の良い人間ではなかったと言うことです。文章がきわめて稚拙です。書き込みに脈略が無く、複数の人間が書いた文章のようにも感じます。

 でも、本当は、ピリ・レイス自身の書き込みだと思います。誰が書いたか分からなくしながらも、この地図はピリ・レイスが作った、ということをしっかり印象づける書き方をしています。

 ビデオの中身を画像でもご紹介します。以下のような内容のビデオです。
 個人的には気に入っています。

ピリ・レイスの地図の歴史


 
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ピリ・レイスの古地図復元


ピリ・レイスの地図


ピリ・レイス


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復元された全体地図


ピリ・レイス提督の地図


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ピリ・レイスの古地図の謎に挑む(第2回)

 『ネコ師』の総力結集記事です。

 前回の記事では、Google Earthの地球画像を使って、「ピリ・レイスの地図を地球に被せればピッタリ海岸線が一致する」というところまで書きました。

 今回は、『ピリ・レイスの地図』自体をもう少し詳しく分析して、その謎に迫っみたいと思います。


【つなぎ合わせた地図の数】


 ピリ・レイスの世界地図は、「約20枚の海図および世界地図」を参考にしたとこの地図の中に書かれています(地図に記載されている文章の和訳を下に掲載しています。地図上の場所は、下の図画割り画像の6.の部分に書かれています)。

 ピリ・レイスの地図に記載されている内容をよく読むと、この地図が世界地図であることは疑いのないことです(6.の部分をお読みください。できるだけ正確に訳しました)。

 現在残っている部分(ピリ・レイスの地図と呼ばれている)をよく見ると、少なくとも4つか5つの地図を貼り合わせていると思います。ここでは、4つの地図を貼り合わせたと仮定します。

cryptic map


1.①と、②の上部分は、そこに描かれている絵が逆向きになっています。この部分が5つ目の地図ではないかと思います。

2.②と③では、方位角が合いません。②の部分を基準にすると、③はかなり南西側に傾いています。

3.③と④では、まるで違う地図をつないだかのようです。③を基準にすると④は南北方向が90度傾いているように見えます。これが、従来の作図法で検証しようとして、研究者たちが説明できなかった部分です。


【ピリ・レイスの地図に近い図法は何か】

 ピリ・レイスの地図に近い図法は何かについて、考えてみたいと思います。
 ピリ・レイスの地図が描かれた16世紀初頭の航海図に用いられた図法は、現代でいうところのメルカトル図法でした。この図法は、角度が正確なため、航海に適しており、メルカトルが図法として発表する以前から一般的に使われていました。

 ところで、ピリ・レイスの地図は、このメルカトル図法で描かれたものではないようです。ピリ・レイス本人は、メルカトル図法で描いたつもりかも知れませんが、彼がこの地図を作成するにあたって使用したギリシャ時代の古代地図が違う図法で描かれていた可能性が高いのではないでしょうか。

 現在、様々な地図作成図法が考案されています。球体の地球を平面である地図にいかに投影するかで、それぞれ目的に合わせた作図法が使用されています。

 前項の疑問2.をうまく説明できる図法をいろいろ探して試してみました。その結果、北極を中心とした正距方位図法が最も近い図法ではないかと思います。下の正距方位図法とピリ・レイスの地図の②と③の位置関係をご覧ください。かなり近い形状・位置関係にあるのではないかと思います。

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 次に、南半球部分です。複数の地図を使ったとピリ・レイス自身がこの地図の中に書き込んでいること、また、地図が90度傾いているような南米の海岸線であることを思い出してください。

 地球を単に真下から見ると下のGoogle Earth画像になります。意外に大陸の表示部分が小さいことに気づきます。

 ピリ・レイスの地図で表現されているような広範囲に大陸を表示するには何らかの投影図法を用いていることが分かります。

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 下の画像は、上で示した北半球と同じ正距方位図法で南半球を描いた図です。

 この緯線がどこか分かりますか。トルコのイスタンブールです。南極を中心とし、トルコのイスタンブールを通る子午線に合わせたものです。

 なぜ、トルコ? ピリ・レイスがこの地図を描いたのは、トルコの海軍の軍事拠点「ゲリボル」(東経26度40分)です。このことも地図の中に明記されています。

 ピリ・レイスの地図④と比較してみてください。驚くほど傾斜角が符合していると思いませんか。
 
 ピリ・レイスの地図の中に、この地図の作成にあたりギリシャ時代の古地図も用いたと書いてあります。なぜ、正距方位図法を用いると、これほど一致するのでしょうか。正距方位図法は、飛行機の航路に用いられる図法で、目的地までの最短距離を知ることができます。古代の近距離の地図では、誰でも最短コースを選ぶと考えられることから、この図法の方が、普通だったのではないかと思うのですが。確認していないので分かりません。

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 下の画像は、「ボンヌ図法」で作成したものです。アルゼンチン部分は、正距方位図法で作成したものと似ていますが、・・・。まあ、こんな図法もあるという程度の参考図法です。当時、または古代ギリシャ時代にこのような図法があったとは思えないので。

ボンヌ図法


 以上、ご覧いただいたように、ピリ・レイスの古地図の②と③の部分は、北極を中心とした正距方位図法、④の部分は、南極を中心とし、イスタンブール、またはカイロ付近を中心子午線とする正距方位図法で描いたものに、よく似ています。この二つの図をつなぎ合わせたのが、ピリ・レイスの地図のようにも見えます。

 一方、正距方位図法は、2地点間の最短距離を示すことができるため、航空航路図などに使われますが、移動するに従い、現在位置と目的地の角度が変化していきます。これに対し、メルカトル図法は、目的地までの角度が途中でも一定になるため、海図として使われてきました。

 古代の地図が正距方位図法を用いて作成されているという事実が確認できれば、上の仮説に信憑性がでてきます。誰か確認してみてください。


【ピリ・レイスの古地図に書かれている内容】
 
 ピリ・レイスの古地図には、たくさんの文字が記載されています。前回の記事に書いたように、最初は、無謀にもこのラテン語を翻訳しようかと思ったのですが、その道の専門家がしっかり英語に翻訳していました。以下で、地図のそれぞれの部分にどんなことが記載されているのか書きたいと思います。

 下の区画割り画像の「数字」に説明の番号が対応しています。下の画像をクリックして拡大表示することができます。地図に書かれている内容の確認にご利用ください。

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 以下、地図に書かれているラテン語の英語訳の日本語訳です。まあ、ネコ師の訳なので、適当ですが。機械語翻訳にかけたのをざっと見直した程度の訳のため、適宜、修正していきます。とりあえず版ということで。

 上の画像の番号に対応しています。出典は、上記画像に記載しています。

1. "vakami"を呼ばれる一種の赤いシミがあり、それが離れてあるので、初めは見えませんが。山脈は豊富な鉱石を含んでいます。そこで、羊のうちのいくつかは上等な羊毛を持っています。
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2.この国には住民がいて、皆、裸で生活しています。
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3.この地域はAntilia地方として知られています。それは太陽が沈む側にあります。ここには、白、赤、緑および黒の4種類のオウムがいると言われています。人々は、オウムの肉を食べます。また、彼らの頭飾りは全てオウムの羽毛で作られています。ここに黒い試金石に似た石があります。人々は斧の代わりにそれを使用しています。それは非常に困難です。。。[不明瞭] その石を見ました。

[注:ビリ・レイスは著書「Babriye」の中で次のように書いている:「我々が地中海で捕獲した敵船の中で、我々は、これらのオウムの羽毛で作られた頭飾りさらに試金石に似た石を見つけた。」]
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4.この地図は、『Kemal Reis』の甥として知られている『Piri Ibn Haji Mehmed』(ネコ師注:ピリ・レイスのこと)によって、919年のムハッラム(muharrem)の月(すなわち、1513年3月9日から4月7日までの間)に、ゲルボル(Gallipoli)で描かれました。【ネコ師注:この記述を見る限り、地図中の書き込みは、ピリ・レイス自身が書き込んだものではないようです。しかし、自分で書いてもこのような表現をする場合もあるようです。】

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5. このセクションでは、これらの土地や島々がどのように見つかったか伝えます。

 これらの海岸は、「Antiliaの海岸」と命名されています。【ネコ師注:Antiliaは謎の大陸アトランティス島】それらは、アラビア歴896年に発見されました。しかし、それは以下のように報告されています。
 
 この場所を発見したのは、ジェノバの無神論者、コロンブスでした。
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 一例を挙げると、ある本が前述のコロンブスの手に入りました、そして、その中に、西の海(大西洋)の終わり、すなわち海洋の西側には、海岸および島々、すべての種類の金属およびさらに宝石があると記されていました。

 上述したように、彼はこの本を徹底的に研究して、ジェノバ王にこれらのことを一つずつ説明し、そして次のように言いました:

「お願いです。私に2隻の船を与え、その場所を見つけに行かせてください。」 

 彼らは次のように言いました:「愚かな者よ。西の海の終わりや境界を見つけることができるというのか? そこは暗い蒸気で満たされているよ。」

 コロンブスは、ジェノバから支援が得られないことを知り、急いで、スペイン王のところへ行き、彼の物語を詳細に伝えました。彼らはジェノバ人と同じように応えました。

 コロンブスは彼らに長い間懇願を続けた結果、最後に、スペイン王は、彼によく装備された2隻の船を与え、次のように言いました。

 「コロンブスよ。おまえの言うことが起こるとするなら、私たちはおまえをその国の[提督]に任命しよう。」

 彼が西の海へコロンブスを派遣したと言うことに関して。
 前述のイスラム勇士Kemal(ピリ・レイスの叔父)にはスペイン人の奴隷がいました。

 この奴隷は、Kemal Reisに言いました。彼は、コロンブスと共に3度、その場所に行ったことがある。

 彼は次のように言いました:「最初に、私たちはシブラルタルに到着しました、そして、そこから2つの間の直線の南および西。。。[不明瞭]。

 まっすぐに4千マイル進み、私たちは島を見つけました。しかし、徐々に海の波は泡立たなくなり、海は鎮まりました。また、「北極星」は (コンパス上では水夫たちはまだ「星」と言いますが)、少しずつ隠れてゆき、見えなくなりました。また、その地域の星は、ここと同じような配置にはなっておらず、異なる配置で見られます。

 彼らは、最初に見つけておいた島に錨をおろしました、島の住民がやってきて、彼らに矢を放ち、彼らが上陸するのも情報を入手するのも許しませんでした。男も女も矢を射ます。矢じりは魚の骨で作られており、また、全住民は裸でした。そしてさらに、非常に、[不明瞭]。

 彼らは島に上陸できないことが分かったので、島の反対側に廻りました。そこで、彼らは一艘のボートを見つけます。彼らを見かけるとすぐ、ボートは猛スピードで陸地に向け逃げだしました。彼らはそのボートに乗り込み、中をのぞくと、人間の肉を見つけました。この島の住民は、島から島へと渡り歩き、人間狩りをして、その肉を食べていたのです。

 彼らは、コロンブスがさらに別の島を見たと言ったので、それに近づきました。その島には、大きなヘビがいるのを見ました。彼らは、この島への上陸をあきらめ、そこで17日間停泊しました。この島の人々は、船か住民に危害を与えないことが分かり、魚を捕まえて、小舟で船まで持ってきました[不明瞭]。

 スペイン人たちは喜び、住民にガラスのビーズを与えました。コロンブスは、ガラスのビーズがここでは価値があることを本で読んで知っていました。ビーズを見て、住民たちはもっとたくさんの魚を持ってきました。スペイン人は、いつもガラスのビーズを彼らにあげました。ある日、彼らは、住民の女性が金の腕輪をはめているのを見つけました。そこで、金の腕輪とガラスのビーズを交換しました。スペイン人は住民に、もっと金を持ってきたら、もったたくさんのビーズをあげると言いました。

 ある日、さらに、彼らは住民の手の中に真珠を見つけました。彼らは次のことを理解しました、彼らがビーズを与えると、さらに多くの真珠がもたらされました。真珠はこの島の海岸で、深さ1あるいは2ファゾムの場所で見つかりました。

 またさらに、多くのログウッド材と2人のインディオを船に載せて、スペイン王の下へその年の内に運びました。

 コロンブスは、彼らの言語を知らなかったものの、彼らと通商の契約書を取り交わしました。この航海の後、スペイン王は、宣教師を派遣し、大麦を送りました。そして、インディオに種をまき、収穫する方法を教え、また彼らをキリスト教に改宗させました。彼らは、独自の宗教を持っていませんでした。彼らは裸で歩き、動物のようにそこに寝ました。現在、これらの地方はすべてに開かれ、有名になりました。

 前述の島および海岸は、コロンブスによって名前が付けられました。これらの場所は、それらによって知られているかもしれません。また、さらに、コロンブスは偉大な天文学者でした。この地図上の海岸および島は、コロンブスの地図によるものです。

6. このセクションでは、この地図がどのような方法によって描かれたのかを示します。今世紀、いかなる者もこのような地図は持っていませんでした。この貧乏人の手によってそれは描かれ、今、それは編纂されます。約20枚の海図および世界地図( 『それらは、人が住む世界の4分の1を示す2つの角を持つ支配者アレグサンダー大王の時代に描かれた海図で、アラビアでは、”Jaferiyeの海図”と呼ばれる』)、 そのタイプの8つのJaferiyes海図およびの1枚のインド(al-Hind:アラビア語でインド亜大陸)のアラビアの地図、および4人のポルトガル人 によって描かれたインド亜大陸、パキスタン(Sind:アラビア語)、及び中国の国々を表した地図、さらに、私が抽出コロンブスによって描かれた西側地域についての地図、によって描かれています。
これらの全ての地図を一つの縮尺の地図に減らすことによって、この地図の最終形式が決まりました。このため、この提出する地図は、船乗りたちが精確であり信頼できると考えている私たちの国にある地図と同じように精確で、かつ信頼性が高く、さらに、七つの海においても信頼に足りるものです。

[ネコ師注:この部分が一番重要です。一部、アラビア語が入っているので、訳し直しました。]

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7.それはポルトガルの不神論者によって関連づけられます、それはこの場所に22時間の中でそれらの最長のことで、2時間の中でそれらの最短のことに絶えずあります。しかし、その日は非常に暖かい。また、夜に、多くの露があります。
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8.後方のこの地域へ行く途中で、ポルトガルの船は逆風に遭遇しました、海岸から。海岸からの風。。。[不明瞭で]それ[船]。南の方角に嵐に よって運転された後に、彼らは、それらの向こうの海岸を見ました、それらはその方へ進みました[不明瞭で]。彼らは、これらの場所がよい停泊地であること を理解しました。それらは錨を投げて、ボートで海岸へ行きました。彼らはそこで全員裸の住民に出会いました。しかし、住民たちは矢じりが魚の骨で作られていた矢を放ちました。コロンブスたちはそこに8日とどまりました。彼らは通商のサインを取り交わしました。はしけ舟はこれらの国を・・見て、・・それらに関して書きました、どれ・・・。進行のない前述のはしけ舟、に、後方、ポルトガルへ返った、到着した場所について情報を与えました・・・・。彼らはこれらの土地について詳細に記述しました。・・・・彼らはそれを発見しました。
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9.また、この国では、この形の中の白い頭髪のある怪物およびさらに6-角のある雄牛はいるように見えます。ポルトガルの不神論者は地図の中でそれを書きました・・・・。
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10. この国は不毛の土地です。すべてが荒れ果てており、また、大きなヘビがいると言われています。このような理由で、ポルトガルの不神論者はこれらの土地に降りませんでした。また、非常に暑いとも言われています。

 <ネコ師:問題箇所の記述です。これが書かれている場所は、『南極』と一部の人から指摘されている所ですが、ピリ・レイスは『暑い』と書いています。>
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11. また、これらの4隻の船はポルトガルの船です。彼らの船が書き込まれています。それらの船は、インドに到着するために、西の土地からアビシニア[Habesh] のポイントまで旅をしました。彼らはShulukに向かって言いました。この湾を横切った距離は4200マイルです。
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12. ....この海岸上で、タワー
[注:これらのラインの各々の半分が見当たらないという事実は、地図の最も明瞭な証拠が二つに裂されたことであるということである]。
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13. また、フランドルから来たジェノバのkuke(船の種類)は嵐に見舞われ、嵐に駆り立てられたときた時、これらの島々を見つけました。このようにして、これらの島は知られるようになりました。
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14. 古代に、Sanvolrandan(Santo Brandan)という名の聖職者は七つの海を旅したと言われています。前述の聖職者は、この魚の上に上陸しました。彼らは、そこは乾いた土地だと考え、火をつけました。火が魚の後部を燃やし始めた時、この魚は海へ飛び込みました。彼らはボートに再び乗り、船に逃れました。この出来事はポルトガルの不神論者は言及していません。それは古代の世界地図(Mappae Mundi)から得られたものです。
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15.彼らは、これらの小さな島々にUndizi Vergineと名前を付けました。それは11人の処女という意味です。
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16. そして彼らがAntiliaの島と呼ぶこの島。多くの怪物およびオウムが住んでおり、さらに多量のログウッド材があります。それに住民はいません。
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17. このはしけ舟は嵐によってこれらの土地で座礁し、嵐が静まるとそのまま残りました。。。。名前はNicola di Giuvanといいます。彼の地図には、見ることができるこれらの川にが、大量の金を持っていることが書かれています[それら河床に]。(川の)水が無くなった時、彼らはその砂の中から大量の砂金を集めました。それらの地図上で、。。。。

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18. これは、嵐およびcam(この土地への。詳細はこの地図の端に書かれています。[注:8.を見る])に遭遇したポルトガルからのはしけ舟です。

19. ポルトガルの不神論者はここから西へは行きません、こちら側はすべて完全にスペインが所有しています。それらは、協定にその・・・  [1行]・・・・ 境界線としてジブラルタル海峡の西側に2000マイルを作りました、ポルトガルの領土はその側に交差しません。しかし、後方サイドおよび南サイドはポルトガルが所有しています。
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20. また、嵐に遭遇したこの快走帆船は、この島で座礁しました。その名前はNicola Giuvanでした。また、この島においては、1本の角の雄牛が多くいます。この理由で、彼らはこの島を雄牛の島という意味の「 Vaccaの島」と呼びます。
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21. この快走帆船の提督は、ジェノバ人でポルトガルで育ったMessir Antonという人でした。ある日、前述の快走帆船は嵐に遭遇し 、この島で座礁しました。彼は、ここで多くのショウガを見つけ、これらの島々について書き残しました。
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22. この海は”西の海”と呼ばれます。しかし、フランクの水夫たちは、それをMare d'Espagnaと呼びます。それはスペインの海を意味します。現在まで、それはこれ らの名前によって知られていました、しかしコロンブス(この人がこの海を開き、これらの島を知らしめた)、そしてポルトガルもまた、”後方”の地域を開いたこの不神論者たちは、この海に新しい名前を与えることに合意しました。彼には、この海に”Ovo Sano[Oceano](すなわち”sound egg”)という名前を付けました。これ以前は、海には終わりや境界はなく、そこは暗闇であると考えられました。現在、彼らはこの海が海岸によって取り囲まれていることを理解し、それが湖に似ているのでこの海を”Ovo Sano”と呼ぶようになったのです。
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【ネコ師注】
 アメリゴ・ベスプッチの到達最南端は、南緯25度(クリチバの近くのCananéia)だったと彼の手紙から考えられています。
 ピリ・レイスの地図は、コロンブスとアメリゴ・ベスプッチの航海日誌・書簡から情報を得ているようです。

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23. この場所には、1本角の雄牛、さらにこのような形の怪物がいます。

24. これらの怪物は7スパンの長さがあります。それらの目と目の間隔は、1スパンの距離があります。しかし、これらは無害な生物です。
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 いやぁ、長くなりました。変な日本語がありますが、まあ、この程度でご勘弁を。

 ビリ・レイスの地図に記載されている文章を訳していて、気づいたこと、感じたことは次のようなことでした。

① コロンブスのことを不信論者という言葉 "infidel"で表現している。

② 同じことの繰り返しが目立つ。洗練された文章とはほど遠く、寄せ集めた知識をその場の勢いで書き込んだという印象がする。稚拙な文章(それはネコ師の翻訳のせい?、ではないと思うけど)。

③ 地図の場所とそこに描かれている「絵」の関係をしっかり説明している。

④ 地図が半分に切り取られていることが、文章が続かないことからも証明できる。

⑤ この地図の由来をしっかり記載している。

⑥ この書き込みは、ピリ・レイス自身によるものではなく、それほど学識のない人間の手によるものであること。

 まあ、こんな感じです。

 実は、方位線がすごく気になっています。また、次の機会に。

 クフ王のピラミッドの謎に挑む、とか、ティオティワカンシリーズでもいろいろ推理していますので、本記事に興味を抱かれた方は合わせてご覧ください。

 一部、倉庫に移動している記事がありますが。なにしろこのブログのアクセスが少なく、倉庫の方が多いので(涙)。気に入った方は、コメントいただけると次を書く気力が出てきます。


posted by ネコ師 at 12:00| Comment(1) | なぞの解明 | 更新情報をチェックする

ピリ・レイスの古地図の秘密に挑む(第1回):Google Earthの活用


 ピリ・レイスの地図をご存じでしょうか。オスマントルコの海軍提督ピリ・レイス(Piri Reis)によって1513年に描かれたとされる地図のことです。

 新大陸がコロンブスによって発見されたのが1492年のことですから、まだまだ南米の状況は、当時のヨーロッパで知られていませんでした。コロンブスは4回大西洋横断の航海に出ています。三度目の航海ではベネズエラに達していますが、最後の航海ではパナマ付近で座礁し、本国に帰ったのが1504年でした。このように、少なくともスペインでは南米全体については全く知られていない状況でした。

 注:この分野に詳しい方がたくさんいると思いますが、アメリゴ・ベスプッチについては、後日書きたいと思います。

 ピリ・レイスの地図が有名な理由として挙げられるのは、当時ほとんど知られていなかった南米大陸の海岸線が非常に正確に描かれていること、さらに、氷で閉ざされている南極大陸の一部が描かれていると言われていることです。

 この地図には、たくさんの文字が書き込まれています。その全文については、次回の記事でアップします。

 この書き込みの中に、西の海は、コロンブスの地図を用いて描いたと明記されています。ところが、ここにミステリーがあります。コロンブスは、合計4回の大西洋横断の航海に出ていますが、第1回の航海で新大陸を発見したこと以外、あまり大きな成果を上げていません。南米大陸もベネズエラまでしか行っていません。つまり、南米大陸の海岸線が正確に描かれているこの地図と、地図中の記載内容に矛盾があるということです。コロンブスの最初の航海で用いた地図は、大西洋の距離をかなり短く想定したもので、いつまでたっても陸地に着かないことから、水兵達が反乱を起こす寸前だったようです。

 ピリ・レイスの古地図についての説明は、YouTubeを見た方が視覚的に理解できます。


 また、この地図は、古代から伝わる古地図をかき集め作成したとされており、このことが、この地図をさらにミステリーなものにしているようです。古代になぜ、アメリカ大陸の地図があるのか。

 この地図を最初に見たとき、よく分からない地図だと思いました。縮尺がでたらめという感じがして、これでは航海にはとても使えないと感じました。ましてや、南極の地形など、現在の地図とぜんぜん合いません。

 ところが、先日、ふとしたことから、この地図って平面ではなく立体曲面をそのまま描いたものではないかと思いつきました。

 地図を作成するにあたって、もともと球体の地球を平面にいかに表現しようとするかで、様々な図法が考案されてきました。

 現在、地図の作図に使われている正角図法であるメルカトル図法(正角円筒図法)は1569年に発表されていますが、それ以前にも航海図の一般的図法として使われており、1511年の適用例も確認されています。磁石(後に羅針盤)、星の位置を頼りに航海するには、角度が重要で、方位を直線で地図上に示すことができる正角図法が多く用いられました。

 ところが、ピリ・レイスの地図は、この作図法とはどうも違うようです。いくつもの地図を使ったと書いてあります。

 そのことは、この地図の中に書いてあります。ラテン語で書かれてあり、一部読めない部分がありますが、英語訳され、webで読むことができます。無謀にも地図に書かれているラテン語を翻訳しようかと考えたのですが、よく考えたら、そんなことはこの分野の専門家がとっくにやっていました(汗)。

 この悩ましい地図の存在に学者たちは、南極大陸に見えるのは、実は南米大陸で、羊皮紙のサイズの関係で、回り込んで描かれている、などと子どもでも分かるような滑稽な説明をしています。羊皮紙というのは貴重なもので、描いてみたら用紙に入らなかったので歪めたというようなものではありません。

 さて、この地図が曲面をそのまま平面に投影するように描いたものだとするのなら、「地球に被せてみたら良いのではないか」とふと思い立ちました。以前ですと、そのようなことを思いついたとしても、実際に自分で確認してみる手段がありませんでした。ところが現代はそれが簡単にできます。

 前置きはこれくらいにして、驚くべき結果をご覧いただきたいと思います。

 Google Earthの地球画像に、ピリ・レイスの地図を被せたものです。

 無理に変形して合わせたのでないことは、方位線の形から分かると思います。

 これを作っていて驚いたのは、ピリ・レイスの地図を湾曲変形させ、地球の曲面に沿って被せようとすればするほど、地形の位置がピッタリ一致してくることです。特に、地図の縁の部分がピッタリ一致するのには、本当に驚きました。

Piri_Google_a1.JPG


Piri_Google_a2.JPG


Piri_Google_a3.jpg


Piri_Google_a4.jpg


 どれだけ一致しているのか理解してもらうために、作業過程をフラッシュにしてみました。海岸線が驚くほど一致しているのが分かると思います。

 最後から2枚目のスライドで最終的な位置調整をして、最後のスライドで、地図部分を切り取り、Google Earthの画像と比較できるようにしています。

 説明が長くなりましたが、下の画像をクリックするとフラッシュがスタートします。大きな音が出ますので、音量にご注意ください。






 今回はここまで。

 次回、もう一歩進めて、別の角度から書いてみたいと思います。画像の準備はできているのですが、文章をもっと詰めたいので、それは後日ということで。

【追記】

 第2回目の記事では、ピリ・レイスの地図そのものをもっと詳しく分析しています。また、地図に記載している書き込みを全文和訳しています。

 
posted by ネコ師 at 11:00| Comment(3) | なぞの解明 | 更新情報をチェックする

2011年01月23日

不思議な猫GIFアニメ


 今日は不思議な猫GIFアニメです。

 素材はまたまたセサールの着ぐるみにしました。芸がないというか、良い素材が見つからないので、仕方なくというか。

 このタイプのアニメはサイズがどうしても大きくなってしまいます。

kurukuru_cesar2.gif


 サイズが大きいため、ブラウザ上でうまく動かない時には、ダウンロードしてご覧下さい。画面右上の「元に戻す(縮小)」ボタンをクリックし、デスクトップが見える状態にして、デスクトップにGIFアニメをクリック&ドローして下さい。


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