『ネコ師』の総力結集記事です。
前回の記事では、Google Earthの地球画像を使って、「ピリ・レイスの地図を地球に被せればピッタリ海岸線が一致する」というところまで書きました。
今回は、『ピリ・レイスの地図』自体をもう少し詳しく分析して、その謎に迫っみたいと思います。
【つなぎ合わせた地図の数】 ピリ・レイスの世界地図は、
「約20枚の海図および世界地図」を参考にしたとこの地図の中に書かれています(地図に記載されている文章の和訳を下に掲載しています。地図上の場所は、下の図画割り画像の6.の部分に書かれています)。
ピリ・レイスの地図に記載されている内容をよく読むと、
この地図が世界地図であることは疑いのないことです(6.の部分をお読みください。できるだけ正確に訳しました)。
現在残っている部分(ピリ・レイスの地図と呼ばれている)をよく見ると、少なくとも4つか5つの地図を貼り合わせていると思います。ここでは、4つの地図を貼り合わせたと仮定します。
1.①と、②の上部分は、そこに描かれている絵が逆向きになっています。この部分が5つ目の地図ではないかと思います。
2.②と③では、方位角が合いません。②の部分を基準にすると、③はかなり南西側に傾いています。
3.③と④では、まるで違う地図をつないだかのようです。③を基準にすると④は南北方向が90度傾いているように見えます。これが、従来の作図法で検証しようとして、研究者たちが説明できなかった部分です。
【ピリ・レイスの地図に近い図法は何か】 ピリ・レイスの地図に近い図法は何かについて、考えてみたいと思います。
ピリ・レイスの地図が描かれた16世紀初頭の航海図に用いられた図法は、現代でいうところのメルカトル図法でした。この図法は、角度が正確なため、航海に適しており、メルカトルが図法として発表する以前から一般的に使われていました。
ところで、ピリ・レイスの地図は、このメルカトル図法で描かれたものではないようです。ピリ・レイス本人は、メルカトル図法で描いたつもりかも知れませんが、彼がこの地図を作成するにあたって使用したギリシャ時代の古代地図が違う図法で描かれていた可能性が高いのではないでしょうか。
現在、様々な地図作成図法が考案されています。球体の地球を平面である地図にいかに投影するかで、それぞれ目的に合わせた作図法が使用されています。
前項の疑問2.をうまく説明できる図法をいろいろ探して試してみました。その結果、北極を中心とした正距方位図法が最も近い図法ではないかと思います。下の正距方位図法とピリ・レイスの地図の②と③の位置関係をご覧ください。かなり近い形状・位置関係にあるのではないかと思います。
次に、南半球部分です。複数の地図を使ったとピリ・レイス自身がこの地図の中に書き込んでいること、また、地図が90度傾いているような南米の海岸線であることを思い出してください。
地球を単に真下から見ると下のGoogle Earth画像になります。意外に大陸の表示部分が小さいことに気づきます。
ピリ・レイスの地図で表現されているような広範囲に大陸を表示するには何らかの投影図法を用いていることが分かります。
下の画像は、上で示した北半球と同じ正距方位図法で南半球を描いた図です。
この緯線がどこか分かりますか。トルコのイスタンブールです。南極を中心とし、トルコのイスタンブールを通る子午線に合わせたものです。
なぜ、トルコ? ピリ・レイスがこの地図を描いたのは、トルコの海軍の軍事拠点「ゲリボル」(東経26度40分)です。このことも地図の中に明記されています。
ピリ・レイスの地図④と比較してみてください。驚くほど傾斜角が符合していると思いませんか。
ピリ・レイスの地図の中に、この地図の作成にあたりギリシャ時代の古地図も用いたと書いてあります。なぜ、正距方位図法を用いると、これほど一致するのでしょうか。正距方位図法は、飛行機の航路に用いられる図法で、目的地までの最短距離を知ることができます。古代の近距離の地図では、誰でも最短コースを選ぶと考えられることから、この図法の方が、普通だったのではないかと思うのですが。確認していないので分かりません。
下の画像は、「ボンヌ図法」で作成したものです。アルゼンチン部分は、正距方位図法で作成したものと似ていますが、・・・。まあ、こんな図法もあるという程度の参考図法です。当時、または古代ギリシャ時代にこのような図法があったとは思えないので。
以上、ご覧いただいたように、
ピリ・レイスの古地図の②と③の部分は、北極を中心とした正距方位図法、④の部分は、南極を中心とし、イスタンブール、またはカイロ付近を中心子午線とする正距方位図法で描いたものに、よく似ています。この二つの図をつなぎ合わせたのが、ピリ・レイスの地図のようにも見えます。
一方、正距方位図法は、2地点間の最短距離を示すことができるため、航空航路図などに使われますが、移動するに従い、現在位置と目的地の角度が変化していきます。これに対し、メルカトル図法は、目的地までの角度が途中でも一定になるため、海図として使われてきました。
古代の地図が正距方位図法を用いて作成されているという事実が確認できれば、上の仮説に信憑性がでてきます。誰か確認してみてください。
【ピリ・レイスの古地図に書かれている内容】 ピリ・レイスの古地図には、たくさんの文字が記載されています。前回の記事に書いたように、最初は、無謀にもこのラテン語を翻訳しようかと思ったのですが、その道の専門家がしっかり英語に翻訳していました。以下で、地図のそれぞれの部分にどんなことが記載されているのか書きたいと思います。
下の区画割り画像の「数字」に説明の番号が対応しています。下の画像をクリックして拡大表示することができます。地図に書かれている内容の確認にご利用ください。
以下、地図に書かれているラテン語の英語訳の日本語訳です。まあ、ネコ師の訳なので、適当ですが。機械語翻訳にかけたのをざっと見直した程度の訳のため、適宜、修正していきます。とりあえず版ということで。
上の画像の番号に対応しています。出典は、上記画像に記載しています。
1. "vakami"を呼ばれる一種の赤いシミがあり、それが離れてあるので、初めは見えませんが。山脈は豊富な鉱石を含んでいます。そこで、羊のうちのいくつかは上等な羊毛を持っています。
2.この国には住民がいて、皆、裸で生活しています。
3.この地域はAntilia地方として知られています。それは太陽が沈む側にあります。ここには、白、赤、緑および黒の4種類のオウムがいると言われています。人々は、オウムの肉を食べます。また、彼らの頭飾りは全てオウムの羽毛で作られています。ここに黒い試金石に似た石があります。人々は斧の代わりにそれを使用しています。それは非常に困難です。。。[不明瞭] その石を見ました。
[注:ビリ・レイスは著書「Babriye」の中で次のように書いている:「我々が地中海で捕獲した敵船の中で、我々は、これらのオウムの羽毛で作られた頭飾りさらに試金石に似た石を見つけた。」]
4.この地図は、『Kemal Reis』の甥として知られている『Piri Ibn Haji Mehmed』(ネコ師注:ピリ・レイスのこと)によって、919年のムハッラム(muharrem)の月(すなわち、1513年3月9日から4月7日までの間)に、ゲルボル(Gallipoli)で描かれました。【ネコ師注:この記述を見る限り、地図中の書き込みは、ピリ・レイス自身が書き込んだものではないようです。しかし、自分で書いてもこのような表現をする場合もあるようです。】
5. このセクションでは、これらの土地や島々がどのように見つかったか伝えます。
これらの海岸は、「Antiliaの海岸」と命名されています。【ネコ師注:Antiliaは謎の大陸アトランティス島】それらは、アラビア歴896年に発見されました。しかし、それは以下のように報告されています。
この場所を発見したのは、ジェノバの無神論者、コロンブスでした。
一例を挙げると、ある本が前述のコロンブスの手に入りました、そして、その中に、西の海(大西洋)の終わり、すなわち海洋の西側には、海岸および島々、すべての種類の金属およびさらに宝石があると記されていました。
上述したように、彼はこの本を徹底的に研究して、ジェノバ王にこれらのことを一つずつ説明し、そして次のように言いました:
「お願いです。私に2隻の船を与え、その場所を見つけに行かせてください。」
彼らは次のように言いました:「愚かな者よ。西の海の終わりや境界を見つけることができるというのか? そこは暗い蒸気で満たされているよ。」
コロンブスは、ジェノバから支援が得られないことを知り、急いで、スペイン王のところへ行き、彼の物語を詳細に伝えました。彼らはジェノバ人と同じように応えました。
コロンブスは彼らに長い間懇願を続けた結果、最後に、スペイン王は、彼によく装備された2隻の船を与え、次のように言いました。
「コロンブスよ。おまえの言うことが起こるとするなら、私たちはおまえをその国の[提督]に任命しよう。」
彼が西の海へコロンブスを派遣したと言うことに関して。
前述のイスラム勇士Kemal(ピリ・レイスの叔父)にはスペイン人の奴隷がいました。
この奴隷は、Kemal Reisに言いました。彼は、コロンブスと共に3度、その場所に行ったことがある。
彼は次のように言いました:「最初に、私たちはシブラルタルに到着しました、そして、そこから2つの間の直線の南および西。。。[不明瞭]。
まっすぐに4千マイル進み、私たちは島を見つけました。しかし、徐々に海の波は泡立たなくなり、海は鎮まりました。また、「北極星」は (コンパス上では水夫たちはまだ「星」と言いますが)、少しずつ隠れてゆき、見えなくなりました。また、その地域の星は、ここと同じような配置にはなっておらず、異なる配置で見られます。
彼らは、最初に見つけておいた島に錨をおろしました、島の住民がやってきて、彼らに矢を放ち、彼らが上陸するのも情報を入手するのも許しませんでした。男も女も矢を射ます。矢じりは魚の骨で作られており、また、全住民は裸でした。そしてさらに、非常に、[不明瞭]。
彼らは島に上陸できないことが分かったので、島の反対側に廻りました。そこで、彼らは一艘のボートを見つけます。彼らを見かけるとすぐ、ボートは猛スピードで陸地に向け逃げだしました。彼らはそのボートに乗り込み、中をのぞくと、人間の肉を見つけました。この島の住民は、島から島へと渡り歩き、人間狩りをして、その肉を食べていたのです。
彼らは、コロンブスがさらに別の島を見たと言ったので、それに近づきました。その島には、大きなヘビがいるのを見ました。彼らは、この島への上陸をあきらめ、そこで17日間停泊しました。この島の人々は、船か住民に危害を与えないことが分かり、魚を捕まえて、小舟で船まで持ってきました[不明瞭]。
スペイン人たちは喜び、住民にガラスのビーズを与えました。コロンブスは、ガラスのビーズがここでは価値があることを本で読んで知っていました。ビーズを見て、住民たちはもっとたくさんの魚を持ってきました。スペイン人は、いつもガラスのビーズを彼らにあげました。ある日、彼らは、住民の女性が金の腕輪をはめているのを見つけました。そこで、金の腕輪とガラスのビーズを交換しました。スペイン人は住民に、もっと金を持ってきたら、もったたくさんのビーズをあげると言いました。
ある日、さらに、彼らは住民の手の中に真珠を見つけました。彼らは次のことを理解しました、彼らがビーズを与えると、さらに多くの真珠がもたらされました。真珠はこの島の海岸で、深さ1あるいは2ファゾムの場所で見つかりました。
またさらに、多くのログウッド材と2人のインディオを船に載せて、スペイン王の下へその年の内に運びました。
コロンブスは、彼らの言語を知らなかったものの、彼らと通商の契約書を取り交わしました。この航海の後、スペイン王は、宣教師を派遣し、大麦を送りました。そして、インディオに種をまき、収穫する方法を教え、また彼らをキリスト教に改宗させました。彼らは、独自の宗教を持っていませんでした。彼らは裸で歩き、動物のようにそこに寝ました。現在、これらの地方はすべてに開かれ、有名になりました。
前述の島および海岸は、コロンブスによって名前が付けられました。これらの場所は、それらによって知られているかもしれません。また、さらに、コロンブスは偉大な天文学者でした。
この地図上の海岸および島は、コロンブスの地図によるものです。6. このセクションでは、この地図がどのような方法によって描かれたのかを示します。今世紀、いかなる者もこのような地図は持っていませんでした。この貧乏人の手によってそれは描かれ、今、それは編纂されます。約20枚の海図および世界地図( 『それらは、人が住む世界の4分の1を示す2つの角を持つ支配者アレグサンダー大王の時代に描かれた海図で、アラビアでは、”Jaferiyeの海図”と呼ばれる』)、 そのタイプの8つのJaferiyes海図およびの1枚のインド(al-Hind:アラビア語でインド亜大陸)のアラビアの地図、および4人のポルトガル人 によって描かれたインド亜大陸、パキスタン(Sind:アラビア語)、及び中国の国々を表した地図、さらに、私が抽出コロンブスによって描かれた西側地域についての地図、によって描かれています。
これらの全ての地図を一つの縮尺の地図に減らすことによって、この地図の最終形式が決まりました。このため、この提出する地図は、船乗りたちが精確であり信頼できると考えている私たちの国にある地図と同じように精確で、かつ信頼性が高く、さらに、七つの海においても信頼に足りるものです。
[ネコ師注:この部分が一番重要です。一部、アラビア語が入っているので、訳し直しました。]7.それはポルトガルの不神論者によって関連づけられます、それはこの場所に22時間の中でそれらの最長のことで、2時間の中でそれらの最短のことに絶えずあります。しかし、その日は非常に暖かい。また、夜に、多くの露があります。
8.後方のこの地域へ行く途中で、ポルトガルの船は逆風に遭遇しました、海岸から。海岸からの風。。。[不明瞭で]それ[船]。南の方角に嵐に よって運転された後に、彼らは、それらの向こうの海岸を見ました、それらはその方へ進みました[不明瞭で]。彼らは、これらの場所がよい停泊地であること を理解しました。それらは錨を投げて、ボートで海岸へ行きました。彼らはそこで全員裸の住民に出会いました。しかし、住民たちは矢じりが魚の骨で作られていた矢を放ちました。コロンブスたちはそこに8日とどまりました。彼らは通商のサインを取り交わしました。はしけ舟はこれらの国を・・見て、・・それらに関して書きました、どれ・・・。進行のない前述のはしけ舟、に、後方、ポルトガルへ返った、到着した場所について情報を与えました・・・・。彼らはこれらの土地について詳細に記述しました。・・・・彼らはそれを発見しました。
9.また、この国では、この形の中の白い頭髪のある怪物およびさらに6-角のある雄牛はいるように見えます。ポルトガルの不神論者は地図の中でそれを書きました・・・・。
10. この国は不毛の土地です。すべてが荒れ果てており、また、大きなヘビがいると言われています。このような理由で、ポルトガルの不神論者はこれらの土地に降りませんでした。また、非常に暑いとも言われています。
<ネコ師:問題箇所の記述です。これが書かれている場所は、『南極』と一部の人から指摘されている所ですが、ピリ・レイスは『暑い』と書いています。>11. また、これらの4隻の船はポルトガルの船です。彼らの船が書き込まれています。それらの船は、インドに到着するために、西の土地からアビシニア[Habesh] のポイントまで旅をしました。彼らはShulukに向かって言いました。この湾を横切った距離は4200マイルです。
12. ....この海岸上で、タワー
[注:これらのラインの各々の半分が見当たらないという事実は、地図の最も明瞭な証拠が二つに裂されたことであるということである]。
13. また、フランドルから来たジェノバのkuke(船の種類)は嵐に見舞われ、嵐に駆り立てられたときた時、これらの島々を見つけました。このようにして、これらの島は知られるようになりました。
14. 古代に、Sanvolrandan(Santo Brandan)という名の聖職者は七つの海を旅したと言われています。前述の聖職者は、この魚の上に上陸しました。彼らは、そこは乾いた土地だと考え、火をつけました。火が魚の後部を燃やし始めた時、この魚は海へ飛び込みました。彼らはボートに再び乗り、船に逃れました。この出来事はポルトガルの不神論者は言及していません。それは古代の世界地図(Mappae Mundi)から得られたものです。
15.彼らは、これらの小さな島々にUndizi Vergineと名前を付けました。それは11人の処女という意味です。
16. そして彼らがAntiliaの島と呼ぶこの島。多くの怪物およびオウムが住んでおり、さらに多量のログウッド材があります。それに住民はいません。
17. このはしけ舟は嵐によってこれらの土地で座礁し、嵐が静まるとそのまま残りました。。。。名前はNicola di Giuvanといいます。彼の地図には、見ることができるこれらの川にが、大量の金を持っていることが書かれています[それら河床に]。(川の)水が無くなった時、彼らはその砂の中から大量の砂金を集めました。それらの地図上で、。。。。
18. これは、嵐およびcam(この土地への。詳細はこの地図の端に書かれています。[注:8.を見る])に遭遇したポルトガルからのはしけ舟です。
19. ポルトガルの不神論者はここから西へは行きません、こちら側はすべて完全にスペインが所有しています。それらは、協定にその・・・ [1行]・・・・ 境界線としてジブラルタル海峡の西側に2000マイルを作りました、ポルトガルの領土はその側に交差しません。しかし、後方サイドおよび南サイドはポルトガルが所有しています。
20. また、嵐に遭遇したこの快走帆船は、この島で座礁しました。その名前はNicola Giuvanでした。また、この島においては、1本の角の雄牛が多くいます。この理由で、彼らはこの島を雄牛の島という意味の「 Vaccaの島」と呼びます。
21. この快走帆船の提督は、ジェノバ人でポルトガルで育ったMessir Antonという人でした。ある日、前述の快走帆船は嵐に遭遇し 、この島で座礁しました。彼は、ここで多くのショウガを見つけ、これらの島々について書き残しました。
22. この海は”西の海”と呼ばれます。しかし、フランクの水夫たちは、それをMare d'Espagnaと呼びます。それはスペインの海を意味します。現在まで、それはこれ らの名前によって知られていました、しかしコロンブス(この人がこの海を開き、これらの島を知らしめた)、そしてポルトガルもまた、”後方”の地域を開いたこの不神論者たちは、この海に新しい名前を与えることに合意しました。彼には、この海に”Ovo Sano[Oceano](すなわち”sound egg”)という名前を付けました。これ以前は、海には終わりや境界はなく、そこは暗闇であると考えられました。現在、彼らはこの海が海岸によって取り囲まれていることを理解し、それが湖に似ているのでこの海を”Ovo Sano”と呼ぶようになったのです。
【ネコ師注】
アメリゴ・ベスプッチの到達最南端は、南緯25度(クリチバの近くのCananéia)だったと彼の手紙から考えられています。
ピリ・レイスの地図は、コロンブスとアメリゴ・ベスプッチの航海日誌・書簡から情報を得ているようです。
23. この場所には、1本角の雄牛、さらにこのような形の怪物がいます。
24. これらの怪物は7スパンの長さがあります。それらの目と目の間隔は、1スパンの距離があります。しかし、これらは無害な生物です。
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いやぁ、長くなりました。変な日本語がありますが、まあ、この程度でご勘弁を。
ビリ・レイスの地図に記載されている文章を訳していて、気づいたこと、感じたことは次のようなことでした。
① コロンブスのことを不信論者という言葉 "infidel"で表現している。
② 同じことの繰り返しが目立つ。洗練された文章とはほど遠く、寄せ集めた知識をその場の勢いで書き込んだという印象がする。稚拙な文章(それはネコ師の翻訳のせい?、ではないと思うけど)。
③ 地図の場所とそこに描かれている「絵」の関係をしっかり説明している。
④ 地図が半分に切り取られていることが、文章が続かないことからも証明できる。
⑤ この地図の由来をしっかり記載している。
⑥ この書き込みは、ピリ・レイス自身によるものではなく、それほど学識のない人間の手によるものであること。
まあ、こんな感じです。
実は、方位線がすごく気になっています。また、次の機会に。
クフ王のピラミッドの謎に挑む、とか、ティオティワカンシリーズでもいろいろ推理していますので、本記事に興味を抱かれた方は合わせてご覧ください。
一部、倉庫に移動している記事がありますが。なにしろこのブログのアクセスが少なく、倉庫の方が多いので(涙)。気に入った方は、コメントいただけると次を書く気力が出てきます。