2010年03月30日

コンドルは飛んでいく。どこへ?


 サイモンとガーファンクルのハーモニーが美しく、一躍有名になった「コンドルは飛んでいく」。

 Wikiを見ていて気になる記述が。「ペルーの曲であるが現在日本で入手可能な音源は圧倒的にボリビア、次いでアルゼンチンのグループによる演奏が多い。」(Wikipedia)

 元々はインカ時代のフォルクローレだと思うので、ペルーとかボリビアとかアルゼンチンとか、後の時代の国境線の線引きは意味がない。ペルーの曲ではなく、アンデスのフォルクローレとした方が正確かなぁと思います。

 この曲を聴くと、『自分はアンデスにいるんだぁ』と実感します。なかなかコンドルを見ることはないのですが、1度だけ見ました。写真もあるのですが、小さいのでほとんど点です(笑)。高い場所を飛ぶので、望遠レンズがないと写真撮影は無理です。そのうちそのときの写真を見つけアップしますが、ほとんど判読不能です。

 リャマの次は、コンドルを触ってみたいと考えているネコ師です。

 「コンドルは飛んでいく」というフォルクローレには、もともとは歌詞がないのですが、様々な人が歌詞を付けています。使っている楽器ケーナやサンポーニャ(パンフルート)は管楽器なので、演奏している人は歌えない! これが歌詞がない理由です。うん、間違いない!

 この代表的な歌詞、どんなものか訳してみました。
 ・・・・、大衆向け、という感じですね。そもそもマチュ・ピチュなどが出てくると興ざめします。マチュ・ピチュは標高が低いです~。このフォルクローレに、スペインの侵略以前のインカを懐かしむ、というテーマで詩を付けるのには抵抗があります。個人的には、インカ時代を理想郷のように称える考え方には、じんま疹が出そうです。

歌詞 -El Condor Pasa-


Oh majestuoso Cóndor de los Andes,
llévame, a mi hogar, en los Andes,
Oh Cóndor.
Quiero volver a mi tierra querida y vivir
con mis hermanos Incas, que es lo que más añoro
oh Cóndor.

En el Cusco, en la plaza principal,
espérame
para que a Machu Picchu y Huayna Picchu
vayamos a pasear.

ああ、アンデスの威厳あるコンドルよ、
連れて行っておくれ、アンデスの私の家へ
ああ、コンドルよ
私の愛する国に戻り、懐かしいインカの兄弟たちと共に暮らしたい
ああ、コンドルよ
クスコの大広場で、
私を待っていておくれ
マチュ・ピチュとウアイナ・ピチュへ行くために
さあ、出かけよう
(ネコ師訳)

 YouTubeにはたくさんこの曲がアップされています。ネコ師はBGMとして聴くのため時間が長いのが好きなので、下の曲を選びました。






 下は、サイモンとガーファンクル(Simon & Garfunkel)のバージョンです。
 この歌詞はやはり、いいなぁ、と思います。



 この曲は、1913年、ペルーの民族学研究家で作曲家でもあったダニエル・アロミアス・ロブレス(Daniel Alomias Robles)が、インカの王女を主人公にしたオペレッタの挿入曲として作ったとの説がありますが、そもそもそれ以前に、このメロディは存在しなかったのかについてはだれも説明していません。

 ふと、過去記事の『スクレ近郊の集落観光ツアーに参加』の季節により楽器を使い分ける、ということを思い出しました。寒く風の強い冬のアンデスでは、パンフルートは、この時期に使います。この曲は、まさにそんな光景、そして、作物の栽培ができる夏期(雨期にもなっている)を待ちわびる心象風景を描いているように感じます。

 「サイモンとガーファンクル」の歌詞は、これとはまったく切り離しているところが、逆にすごいと思います。他でも言えますが、ヒット曲をガンガン飛ばしている時期の作詞家は、まさに「神がかり」状態だと感じます。作詞家が歴史を勉強しているのではなく、曲自体に歴史が詰め込まれていて、作詞家はそれを引き出した、あるいは解釈した、という感じがします。

 Simon & Garfunkelの歌詞の日本語版は、Webでいくらでもヒットしますので、そちらをご覧ください。


posted by ネコ師 at 14:32| Comment(0) | 世界遺産 スクレ市 | 更新情報をチェックする

2010年03月28日

南米大陸をスクレの緯度で見た断面図


 南米大陸を世界遺産スクレの緯度近くの南緯19°34′(スクレの実際の緯度は、南緯19°2′です)で切り取った断面図(クロスセクション)を作ってみました。

 地図や地形図を見ただけでは、アンデス山脈がイマイチよく分からないと思っていたので、今日は思い立ってクロスセクション作りに挑戦。

 クロスセクションは、どの緯度で切り取るかで、形が全く違ったものになります。

 こうやってみると、スクレは、アンデスの肩の辺りにあるんだぁ、と改めて思いました。

 この緯度ですとウユニ塩湖の北にあるコイパサ塩湖(Salar de Coipasa)を通ります。アンデス山脈の少し低くなっているところが、塩湖のあるところです。西経68°9′あたりです。

 このクロスセクションでは、4,500mが最も高い標高です。ウユニに行くときは、最高でも4,200mです。

 クリックすると拡大できます。
南米大陸クロスセクション

posted by ネコ師 at 13:34| Comment(2) | 世界遺産 スクレ市 | 更新情報をチェックする

2010年03月15日

スクレ近郊の集落観光ツアーに参加


 今日は、スクレから車で40分ほどのところにあるハトゥン・ヤンパラという集落に『観光客』として行ってきました。

 ホテルのフロントで、スクレの近郊でお勧めの観光スポットは?と聞いて紹介されたのが、この集落訪問ツアー。

 フロントで旅行社に申し込み、すぐ出かけることに。実は、ツアーの中身をほとんど知らないのに、予約するという場当たり的な決定です。どこに行くのかも知らないという相変わらずいい加減なネコ師です。

 ホテルで待っているとガイドが迎えに来ました。早速、出発です。専用ガイドに運転手付専用車を使った個人ツアーです。

 スクレ市内を出て、毎週日曜市が開催される有名なタラブコ村方向に車を走らせ、30分ほど行ったところを脇道に入り、10分ほど行くと、目指すハトゥン・ヤンパラ(Jatun Yampara)集落に着きます。この道で、同じ旅行社の別の車とすれ違いました。後で聞いたら、カナダ人旅行者2名を集落に案内した帰りだとか。

 せっかく専用ガイドがいるので、今日は「質問魔」と化したネコ師です。

 先ず、集落の名前の意味を聞いてみます。Jatunとは、ケチュア語で「大きい」という意味で、Yamparaは「風」という意味だそうです。つまり、風の強い所という意味です。この地域は風が強く、6月から8月にかけて強風が吹くのだそうです。

農家の家を見学

Jatun_Yampara01.jpg


 最初に、農家の家を見せてもらいます。旅行会社から連絡が行っているらしく、農家の人が愛想良く案内してくれます。農家の人の目には、観光客は「歩くドル箱」のように写っているようで、とても親切でした。
 実は、このような家は見慣れているので、あまり関心がないのですが、一応、写真を撮ります。台所です。

Jatun_Yampara02.jpg




 丘を一つ越えて、別の集落にいきます。きれいな光景が広がってきました。

 畑の中を通るとき、トウモロコシを見かけたので、トウモロコシ(Maíz)だと言ったら、ガイドがChocloだと言います。???。 そういえば、レストランでもChocloと言う言葉を良く聞きます。辞書をほとんど使わないネコ師には、この違いが分からないまま、ずっと過ごしてきました(汗)。今日は、お客様なので、ガイドに遠慮なく聞きまくります。

 Choclo(チョクロ)は生トウモロコシのことで、Maíz(マイース)は乾燥させてカチカチになったものを言うそうです。知らなかった(汗、汗)。そういえば、レストランで出てくる茹でトウモロコシのことを皆がChocloと言っていたなぁ、と改めて思い出しました。

Jatun_Yampara03.jpg


Jatun_Yampara04.jpg


 いつもこのような光景だと思ったら大間違い。この地域の年間降水量は400mm程度なので、この時期以外の年間の大部分は、一切、緑が見えないはげ山状態です。

Jatun_Yampara05.jpg


チチャを飲む


 集落のバー? のようなところに連れて行かれ、チチャをごちそうになります。このチチャは、良く発酵しているので、胃がデリケートなネコ師でも飲むことができました。

Jatun_Yampara08.jpg


 チチャは、トウモロコシの粉を上の写真の瓶の中に入れ、2、3ヵ月かけて発酵させるそうです。瓶のふたは、トウモロコシの芯を束ねたものを使います(下の写真)。

Jatun_Yampara09.jpg


 杯に入れたチチャを飲む前に少し床にこぼします。大地の神パチャママに捧げるのだそうです。

 Wikiの説明ではパチャママの意味は、ケチュア、アイマラ共に共通した「母なる大地」だそうです。豊穣を司る大地の神であり、全てのものの母親とされているそうです。ほんとうにそうかな?
 
Jatun_Yampara10.jpg


 パチャママの「ママ」は、ケチュア語で、やはり「母」という意味だそうです。それじゃぁ、「パチャパパ」はいないのか聞いてみたら、皆爆笑していました。そんな神はいないそうです。
 ついでに、現地のたばこを一服いただきます。

宿泊施設を見学


 この集落は、観光客が宿泊できます。私は泊まりたいとは思いませんが。なかには物好きな人がいて泊まるのでしょう。暖炉とバス・トイレ付きです。人生に疲れたら、ここに長期滞在するというのも一つの方法かも。再び社会復帰できるかどうかは知りませんが。

Jatun_Yampara06.jpg


Jatun_Yampara07.jpg


 この集落には水がないのですが、この宿泊施設の水は、小川からポンプでくみ上げているのだそうです。

「投てき具」を使う


 石をヒモを使って遠くまで投げる「投てき具」の実演を見せてもらいました。テレビで見たことがありますが、実物は初めて。

 これを何に使うのかというと、遠くに行ってしまったリャマをこちらに呼び寄せるのに使うそうです。これを使って、リャマのいる近くに石を投げると、リャマが戻ってくるそうです。農家の人に直接聞いたのでなければ、信じられない話です。

 ネコ師も試しにやってみました。ヒモの輪になっているところを小指に通し、石をセットして、ブンブン振り回し、もう一方の端を離すと、石が遠心力で遠くまで飛んでいくという、単純ながらも、優れものの道具です。

Jatun_Yampara11.jpg


Jatun_Yampara12.jpg

パチャママの祠(ほこら)


 パチャママは大地の女神で、ボリビアでは土着の神として信仰されています。教会には、イエス・キリストとパチャママが祭られています。

 異端に厳しかったフランシスコ会も、スクレではパチャママ信仰を完全に取り除くのに失敗したようです。

 新しい集落をつくるとき、祈祷師がパチャママの宿る石を探し、それに生け贄のリャマの血を捧げ、祠を造り安置します。以降、この石は、集落を災いから守る信仰の対象となり、大切に扱われます。

Jatun_Yampara_Pachamama.jpg


 なんと、小さな吊り橋まであります。

Jatun_Yampara_Puente.jpg


リャマの子どもを思いっきり撫でる


 リャマだぁ!

Jatun_Yampara13.jpg


 ウユニでは、近づくのがやっとで、触ることができなかったリャマですが、今回は触りまくります(ムフフ)。

 農家の人に、子どものリャマを捕まえるようにお願いします。子リャマは逃げ回っていましたが、あえなく御用となります。

Jatun_Yampara14.jpg


 ネコ師の手が、可愛いリャマの子どもを触りまくります。
 うっうっうっ。 この時を夢見ていました揺れるハート 

Jatun_Yampara15.jpg


Jatun_Yampara16.jpg


Jatun_Yampara17.jpg


Jatun_Yampara18.jpg


 リャマがいやがっている? それは気のせいです。

Jatun_Yampara19.jpg


Jatun_Yampara20.jpg


 写真のリャマの子どもは、3月3日に生まれたばかりの赤ちゃんリャマです。毛がふわふわで柔らかく、顔が妙に小さい感じがします。とくに口元が。

 とにかくカワイイです。写真を撮りまくります。足も「こんなになっているんだぁ」と、感動です。足の裏側と表側の写真です。小さくてカワイイです。

Jatun_Yampara21.jpg


Jatun_Yampara22.jpg


 とにかくカワイイです! この円らな瞳をご覧ください!
 連れ帰って、うちのペットにしたいです~。

Jatun_Yampara23.jpg


 リャマも猫も同じ動物なので? 猫が喜ぶような撫で方でリャマも撫でます。結構、気持ちよさそうにしています。

 頭も耳もあごも首も、とにかく触りまくりました。こんな機会はもうないかも。カワイイです~。

Jatun_Yampara24.jpg


 スクレの近くではまずリャマを見かけることはありません。今回が初めてです。

 このリャマは、最初、2頭だったのが7年かけて、いまでは15頭に増えたそうです。雄は1頭だけで、残りは雌か去勢した雄。なぜ雄が1頭だけかというと、2頭以上雄がいると喧嘩したり、どこかに行ってしまうからだそうです。

 リャマたちは餌の牧草を求め、遠くの方まで行ってしまいますが、飼い主が口笛を吹くと戻ってくるのだそうです。犬じゃあるまいし、人になつかないリャマが人間のいうことをきくので、どうやって訓練するのか、ずっと不思議に思っていました。

 種明かしはこうです。

 冬の間は、このあたりの草は全て枯れ、はげ山状態になります。当然、リャマが食べる牧草も全くありません。農家は、小麦を収穫した後の茎の部分を家畜の飼料として保存しています。この飼料を口笛を吹いて条件付けしてリャマに与えることで、飼い慣らすことができるようです。

 これも、農家の人から直接聞かない限り、信じられないことでした。「へぇー」って感じです。

食堂


 比較的大きな食堂です。なかなかいい雰囲気でした。

Jatun_Yampara25.jpg


陶器づくり


 現地にある材料を使って陶器を作っています。

 この集落の観光開発は、今回利用した旅行社『Agencia de Turismo Sucre』が独自に行ったものだそうです。宿泊施設や、リャマ、陶器作り、織物、楽器の展示など、観光ツアーの旅行者を飽きさせない工夫がされています。

 この陶器は、この集落で出土したものを参考に作られています。ボリビアの中でも陶器のデザインは異なっており、この集落独自のデザインがあります。

Jatun_Yampara26.jpg


 ガラスケースの中に入っている陶器がここで出土したものだそうです。旅行会社の人が見つけました。

Jatun_Yampara27.jpg


Jatun_Yampara28.jpg


Jatun_Yampara29.jpg


 この地域の粘土は、まるで石のようになっています。見かけは細かい石の破片のようですが、この石臼?でゴリゴリとこすると、粉々になって粘土粉になります。

Jatun_Yampara30.jpg


Jatun_Yampara31.jpg


 これが陶器を焼く窯です。焼き方があまりに簡単なので驚きました。
 先ず、この窯全体を焼くため、下から薪を焚きます。1時間くらいだそうです。釜が十分に焼けたら、粘土で作った素材を中に入れ、窯にふたをして一昼夜待つだけ。何となく蒸し焼きという言葉がピッタリです。伏せ焼きでしたっけ?、この焼き方。

 陶器作りは、何日も火を焚くというイメージだったのでこの簡単な方法には驚きました。日本の古代の土器もこんな感じで焼いたのではないかと思います。

 この地域は、写真を見て分かるように、ほとんど木がありません。つまり、薪が貴重だということです。薪を採るために遠くまで出かけなければなりません。少ない薪で、土器を焼き上げる工夫に感動したネコ師です。

Jatun_Yampara32.jpg


 ちなみに、上の説明では、陶器、土器などの用語をいい加減に使っていますが、焼成温度により使い分けがあるようです。磁器は最も焼成温度が高いもののようですが、良く知りません。

機織り


 リャマから刈り取った毛を自然顔料で染色し、紡いで毛糸を作り、簡単な機織り機で織物を作ります。これら全てが、現地にある材料で行われており、少し感動しました。
Jatun_Yampara33.jpg


 この糸を紡いでいるおばあさんが絵になるので、たくさん写真を撮らせていただきました!

Jatun_Yampara34.jpg


 リャマから刈り取った毛は、色別に分けられます。白い毛が自然の顔料で染められます。染色顔料は、鉱物由来のものと植物由来のものに分かれます。ここでは、植物からのものが多いようです。

Jatun_Yampara35.jpg


民族衣装


 集落毎に独自のデザインがあります。素人目にはどれも似ていますが、彼らから見れば全然違うようです。

 衣装には、お祭り用、普段着用、葬儀用などそれぞれTPOに応じてデザインが異なります。お祭り用の衣装は、たくさんの色を使います。普段着用は、色の数を減らします。葬儀用は黒を主体とした色調にします。服だけでなく、帽子もそれぞれの場面で異なるデザインのものが使われます。

 既婚者と未婚者でもデザインが違います。お祭り用の衣装では、女性の帽子の場合、帽子の上に飾りがないのが未婚者用です。

 下の写真は、帽子の上に飾りがあるので既婚者です。この帽子をかぶった女性を口説いてはいけません(笑)。

Jatun_Yampara36.jpg


 男性の場合も、帽子の縁に飾りのないのが未婚者用です。

 下の写真では、縁に飾りがあるので、既婚者です。この帽子をかぶった人は、未婚者の女性を口説いてはいけません(笑)。

Jatun_Yampara37.jpg


 男女が出会う絶好の機会のお祭りで、既婚か未婚かすぐに見分けられるところが、優れものです。後のトラブルが減ります(汗)。


 写真ではアップしませんが、この他に楽器コーナーがあります。
 面白いと思ったのは、季節により使う楽器が違うということです。

 南米アンデス地方の民族音楽フォルクローレに使われる笛の一種であるサンポーニャは、その音色が示すように、風の強い冬の時期に使われます。夏の時期は、陽気な太鼓やウクレレに似たチャランゴが使われます。

 音楽は、現地の文化をそのまま映し出しているように感じています。季節によって使う楽器が異なるというのも、また、文化なのかなぁと感じました。

ツアーの評価

 このツアーの料金は、ガイド、運転手付専用車両がついて40ドルです。これを高いと見るかそれなりと見るかは意見が分かれるところですが、個人的には満足しています。

 団体ツアーではなく、個人ツアーのため、ガイドを独り占めでき、聞きたいことを好きなだけ聞くことができます。聞き取れなかったり、知らない単語が出てきたりしたら聞き直すことができます。さらに、なんと言っても、リャマの子どもを思いっきり撫でることができたのが収穫でした。こんな豪華ツアーは探してもありません! 本当はアルパカの方が良かったのですが、アルパカは難しいようです。既に絶滅危惧種です。

 ボリビアの中でもこういう手作りの暖かい感じのするツアーって、そうそうないと思います。あるとしても、観光ズレした集落に連れて行かれ、がっかりするのではないかと思いますが、このツアーは違うなぁと感じました。このツアーは、この旅行社だけの特別企画だそうです。

 スクレには42の旅行社があり、そのうち大きなものは3つ。この旅行社はその中の一つで、うちのホテルが一押しの旅行社です。

 ネコ師は、いつもは別の旅行社を使うのですが、この旅行社も気に入りました。


posted by ネコ師 at 14:15| Comment(3) | 世界遺産 スクレ市 | 更新情報をチェックする

世界遺産:パラグアイのイエズス会伝道所


 パラグアイで唯一の世界遺産をご紹介します。1993年世界遺産に登録されています。

 『サンティシマ・トリニダー・デル・パラナ(SANTISIMA TRINIDAD DEL PARANA)』と『ヘスス・デル・タヴァランゲ(JESUS DEL TAVARENGUE)』

 この二つは、イエズス会がつくった教化村の遺跡です。
 といっても、大部分の人は、何のことかさっぱり分からないと思います。世界文化遺産を楽しむには、それなりの準備が必要です。

 この世界遺産を今日までご紹介しなかった理由は、歴史を知らないと全く理解できない世界遺産だからです。せっかくの世界遺産訪問が、「通りすがりの異邦人」で終わってしまわないように、しっかりご紹介したいと思います。

 ところで、その歴史をご紹介するには、相当勉強しなければなりません。なまけもののネコ師がやっと重い腰を上げ、書くことにしました。

まずは歴史から


 新大陸が発見されて以降、新大陸に住む先住民をキリスト教へ改宗させるため、多くの宣教師が派遣されました。その中心は、教皇の先兵とも言われた修道会に属する人たちでした。

 このブログでおなじみのフランシスコ会の他、ドミニコ会、そして、イエズス会等の修道会に所属するたくさんの若い宣教師たちが新大陸を目指しました。

 フランシスコ会は、自分たちの信ずる信念(カトリックの原理原則)から、先住民の宗教を邪教・異端として、徹底した破壊活動を行いました。マヤの膨大な図書を焼却した初代ユカタン司教ディエゴ・デ・ランダもフランシスコ会会士でした。

 一方、イエズス会は、非キリスト教徒もカトリックの潜在的信徒になりうると考え、先住民の信仰する神もキリスト教の天使の一人とするような柔軟な方法で、教化していくやりかたを採りました。

 宣教師たちの布教は、会派が違ってもその方法は似ています。教化のためには、ミサに出席させなければなりません。このため、先住民がバラバラに住んでいては困ります。そこで、住民を一カ所に集め、定住させる方法が採られました。これはスペインの植民地で共通した先住民支配の方法でした。これをどこまで強制的にやるかどうかが、違いますが。

 パラグアイの先住民はたくさんの部族がいるようですが、中心はグァラニー語を話す人たちでした。彼らは、森の民と言われ、密林に住んでいましたが、彼らを教化のため定住させたのが、この教化村でした。

 パラナ河をはさんで、パラグアイ、アルゼンチン、そしてブラジルのイグアス地域に20カ所の伝道所が作られ、10万人を超えるグアラニーがユートピアと呼ばれるこの楽園で豊かな生活を送っていました。ブラジルでは、労働力の確保のため、ガラニー族狩りが盛んに行われていました。これを逃れるため多くのガラニーの人たちは、これらの伝道村に逃げ込みました。伝道村は、教皇の保護の下、執政官でさえ立ち入りには許可が必要だったとされています。まさに、一つの独立国家を築いていたと言えます。

ところが、これが破壊します。

 これは大きく分けて二つの理由があると思います。一つは、ブラジルからのポルトガルの侵入です。当時、ブラジルを領土としていたポルトガルは、西には金銀を産する鉱山があると信じ、盛んに遠征隊を派遣しました。この奥地遠征探検隊(奴隷商人)は『バンデイランテス』と呼ばれ、彼らは、無抵抗主義の伝道村を頻繁に襲い、住民を奴隷としてサン・パウロに送りました。

 1750年、スペインとポルトガルはマドリード条約を締結し、帰属があいまいで係争の種であったブラジル南部・ウルグアイの勢力範囲の確定を図ります。この条約では、ポルトガルはウルグァイ川以東の地域をスペインから手に入れ、スペインはラ・プラタ地方を入れました。この条約により、ウルグァイ川以東の地にあった「伝道村」はすべて放棄して、スペイン領となるウルグァイ川の西側 に移住することを迫られました。イエズス会士と先住民は、この取り決めに激しく反発しますが、スペイン・ポルトガル連合軍によって1756年ま で鎮圧されてしまいます。有名な映画の「ミッション」は、これらの伝道村の抵抗を描いたものですが、このような歴史的経緯を知らないと全く理解できない映画になってしまいます。

 もう一つは、イエズス会の崩壊です。イエズス会は、教皇に忠実を誓い、また、異教徒を強制的ではなく懐柔する方法でカトリックに改宗させる方法を採ったことから、大きな成果を納めましたが、そのことが、ヨーロッパ諸国のプロテスタント、カトリック双方の信者から反感を買うことになりました。

 こうした中、1759年、ポルトガルでイエズス会士が追放され、財産が没収されたのを皮切りに、 1765年にフランス、1767年にスペインでイエズス会士が追放されました。これらの圧迫に屈して教皇は、1773年、イエズス会の解散を命じました。

行き方

 世界遺産の教化村を見るには、首都アスンシオンから国道1号線を約300Km南下し、エンカルナシオンまで行き、そこから32Km離れた遺跡まで行くことになります。結構、遠いのと、遺跡までの道が複雑なので、本当にたどり着けるのか不安になります。私は、マイカーで行ったので、特にそう感じました。

写真


Jesuitica08.jpg


Jesuitica07.jpg


Jesuitica06.jpg


Jesuitica05.jpg


Jesuitica04.jpg


Jesuitica03.jpg


Jesuitica02.jpg


Jesuitica01.jpg


posted by ネコ師 at 09:23| Comment(0) | パラグアイ編 | 更新情報をチェックする

2010年03月13日

カーソルでページがめくれる猫雑誌がこのブログで見れます!


 カーソルで本のページをめくることができる猫雑誌を、このブログで見ることができます。これをHPではなくブログにアップしている人はほとんどいないと思います。

 これまで、別のHPにアップしていましたが、やっとこのブログにアップできるように改造しました!

 別のHPだと何かと面倒だし、新しく作るのもおっくうになります。

 Seesaaブログにこのフラッシュをアップするには、改造が必要だったので、そのままにしていましたが、今日、急に思い立ち、やってみました。何の問題もなく、無事に表示できました。少し不具合がありますが、徐々に直していきます。

 今回は、ここまでで力尽きたので、中身は、前回アップしたものと同じです(おいおい、手抜きかよ)。表紙の厚さだけ、少し厚くしました。

 下の表紙をクリックすると、このブログの別ページで表示されます。
 カーソルでページをめくることができます。初めての方は、お楽しみください。2度目の方は、再びお楽しみください(笑)。表紙込みで20ページです。

カーソルでページをめくれる猫雑誌

 下のサンプル画像をクリックすると、このブログの別ページが開きます。
  
 フラッシュの読み込みに少し時間がかかります。白いページが表示されたときは読み込み中ですので、気長にお待ちください m(_ _)m
 
 カーソルでどの方向からでもページをめくることができます。
 全てのページをPDFファイルにして保存することもできます。

cover_cat_magazin.jpg



▲ このページのTOPへ戻る

MIX洋猫と世界遺産ランキングに参加しています。
このバナーは「セサールの酔猫バナー」という名前です。
この酔っぱらいのような猫のことをもっと知りたい方は
猫カテゴリーからご覧下さい。

にほんブムグ村洋猫へのリンク


Copyright Ⓒ Nekoshi, 2007-2017 All Rights Reserved.