2010年01月31日

世界遺産スクレ:恐竜の足跡


 先日、ついに恐竜の足跡を見に行ってきました。スクレの中心部からタクシーで15分くらいの近場。スクレの観光名所の一つになっています。世界遺産への登録を目指しているとか。スクレ自体が世界遺産に登録されていますので、同じ都市で2件目の世界遺産登録を目指すという何ともすごい話です。

 この恐竜の足跡。侮ってはいけない! なんと世界最大規模の恐竜の足跡群だそうです。

 足跡のある場所は、ボリビア最大のセメント工場、かつその原材料である石灰の採掘場のど真ん中。まずは、位置をGoogle Mapで確認してください。位置図は、クリックすると拡大表示できます。

Mapa_dianosaurus1.jpg


 少しアップした画像です。

Mapa_dianosaurus2.jpg


 足跡のある採掘跡地です。

DSCF2725.jpg


 工場の入口付近で、恐竜が出迎えてくれます。

DSCF2726.jpg


 ここは現在、スクレ市の公園として整備されており、正式名称は『市立ファンセサ白亜紀公園(Parque Cretácico Municipal Fancesa)』。

 この「Fancesa」というのは、恐竜の足跡のあるセメント会社の名前です。これを「Francesa」だとばかり思い込んでいて、なぜフランスのセメント工場がスクレにあるんだと、ずっと思っていました(思い込みは怖いです)。

 Fancesaという単語はたぶん固有名詞ではないかと思います。スペイン語スペルチェックでも認識されない単語です。web専門辞書でもヒットしません(汗)。それもそのはず、後で確認したら、Fábrica Nacional de Cemento S.A. の略称というまさに企業名そのものだそうです。スクレ市とサン・フランシスコ・ハビエル大学と他にもセメント工場を所有する企業体の三者で株式を所有しています。Wikipediaに「フランスのセメント工場・・・」との記述がありますが、でたらめです。思い込みは怖いものです。

 Fancesaセメント工場。この敷地内の石灰岩採掘跡地に、恐竜の足跡があります。

DSCF2718.jpg


 公園が整備されたのは2年前。この整備の仕方に少し驚かされます。チョットした「テーマパーク」という感じです。スクレとしては ”すごいです!”

 整備以前は、恐竜の足跡の所まで行けたのですが、整備後は、お立ち見台から見学するだけで、足跡を間近に見ることができなくなりました。

 前置きはこのくらいにして、恐竜公園をご案内致しましょう。

恐竜の足跡の発見

 この恐竜の足跡は、1994年、セメント会社の技術者が発見しました。石灰岩の質が悪くなったため、放置されていた採掘場の壁面でのことです。

 1996年、ボリビアの専門家が確認し、1998年にスイスのクリスチアン・メイアー先史学者が、6800年前にこの地域に生息していた恐竜の足跡であることを再確認しています。

出典:Descubrimiento el Pasado, Sucre、など

恐竜公園への行き方

 タクシーで行きましょう! スクレの中心部から恐竜公園までは5Km、タクシーで15分、料金は片道25ボリビアーノス(25Bs.、300円位)です。はるばるスクレまで来て、往復でも600円しかかからないタクシー代をケチってバスで行こうとする人の気持ちが私には分かりません。ちなみに、タクシー代は、市内は均一4Bs.。運転手に1時間待ってもらった場合の往復料金は、30Bs~50Bs.。(待ち時間によります)。重要な点は、スクレのタクシーの値段は1人当たりです。何人で乗っても、一人あたりの料金を取られます。恐竜公園までは、乗り合いでタクシーを利用するなら一人15Bs.でいいよ、というタクシー運転手もいました。市内は均一料金ですが、郊外だと値段にばらつきがあるようです。

 スクレのタクシーでボラれることはまずありません。運転手がおつりを持っていないのが欠点ですが。ただし、空港のタクシーは、ボリます。さすがボリビアです。

 カンクンからスクレに戻ったとき、市内まで35Bs.だと言われびっくり。「馬鹿言うんじゃないよ! 俺は観光客じゃなくスクレに住んでいるんだ」と言ってやりました。この時は、20Bs.でホテルまで戻りました。後で確認したら、通常の正規料金だと25Bs.と言うことでした(笑)。[Bs.→\ 換算は、Bs.に13をかけます]

入口

 入口部分の全景です。

DSCF2889.jpg


ジェラシック・パーク内

 受付で4ドルの入場料を払って内部へ。

DSCF2729.jpg


 入口からすぐの所に待合所があり、人数がまとまるまでそこで待ちます。内部の案内は、英語かスペイン語のガイドが付きます。

DSCF2888.jpg


 恐竜の種類は、まったく分からないのですが、復元模型がたくさんあり結構楽しめます。コースの終わりに、恐竜の足跡を見ることができます。足跡のある壁までちょっと遠いのですが、望遠鏡も設置されているので、望遠鏡代を支払えば間近に見ることができます。

中型イグアノドンティアン:Mid-sized Iguanodontian

 2億年前、後期白亜紀からジュラ紀中期の草食恐竜。体長は4m(手前の、今にも食べられそうな恐竜です)

DSCF2739.jpg


フィクノネモサウルス:Pycnonemosaurusn

 1億3千万年前、南半球に生息していた肉食恐竜。体長7m

DSCF2740.jpg


Carnotaurus

 1億3千万年前、南半球に生息していた肉食恐竜。体長7m

DSCF2747.jpg


ノトセラトプス:Notoceratops

 1億3千万年前、大部分が北半球に生息していた草食恐竜。体長5m

DSCF2749.jpg


ティロサウルス:Tylosaurus

 2億年前、世界中に生息していた恐竜。魚、は虫類をえさとしていた。体長7m

DSCF2756.jpg


コールアウェイサウルス:Callawaysaurs

 2億年前、世界中に生息していた恐竜。魚をえさとしていた。体長5m
 ネス湖のネッシーを思わせる形をしていますが、顔が怖い。

DSCF2761.jpg


 この大きな恐竜の名前が分かりません。この恐竜は、とてつもなく巨大で、足の間が通路になっています。

DSCF2762.jpg


 それにしても、ほとんど鉛直の急傾斜の壁面に多数の恐竜の足跡があるのを見ていると、恐竜が闊歩していた当時を想像させてくれます。一緒に行った同僚が、「なぜ、足跡が垂直な壁に残っているのだろう」と、どこまで本気か分からないことを言っているので、「昔の恐竜は、壁を垂直に登っていたからこんな足跡が残ったんだよ。子ども恐竜たちが滑り台で遊んだ跡もあるし」と言ってあげました。

DSCF2765.jpg


 この恐竜のサイズがいかに大きいか、分かりますよね。この恐竜の模型を建設している写真がありますが、なんと鉄筋コンクリート製です。日本ならプラスチック製だと思いますが。

DSCF2770.jpg


このジオラマのような、というか実物大ジオラマの写真が気に入っています。

DSCF2778.jpg


 若い子たちが恐竜の真似をしていたのでパチリ。スクレの女の子たちは皆、美形です。

DSCF2792.jpg


 有名なティラノサウルス・レックスです。こんなのが現代にいたら恐ろしいです。

DSCF2793.jpg


DSCF2801.jpg


DSCF2812.jpg


DSCF2818.jpg


石灰岩採掘場跡地の全景写真

 これが恐竜の足跡の残っている石灰岩採掘場跡地の全景写真です。

DSCF2723_stitch.jpg


 恐竜の足跡が残っている採掘場の壁は、長さ1.5Km、高さ110m、傾斜角72度です。

DSCF2725.jpg


 ちょっと分かり難いですが、写真中央を上下方向に横断しているのが足跡です。このような足跡が幾重にも交差しています。思ったより小さいです。もっと巨大な足跡かと思ったのですが違いました。

DSCF2776.jpg


 ティラノサウルスなど肉食獣脚類やチタノサウルスなど草食恐竜の足跡が合計5,055個見つかっています。見つかっているのは、白亜紀(1億4000万年前から6500万年前)の終わりに大量絶滅した恐竜の足跡だけではなく、第三紀始新世(Salandian:5870万年前)の化石もあるようです。

DSCF2727.jpg


DSCF2728.jpg


 恐竜が死滅し埋もれた当時の想像図のようです。この絵を見ると、恐竜の直接の死因は、地殻変動のように見えます。死滅した当時は地表面は水平なはずですが。なぜこのような絵なのか不明です。考証して描いているはずなので、やはり地殻変動で死滅したということでしょうか。恐竜は白亜紀の終わり、6500万年前に絶滅しています。ユカタン半島に落下した隕石が原因とする説もありますが。

DSCF2777.jpg


DSCF2846.jpg


 大きな足跡は、壁面から剥がして、博物館のガラスケースに収まっています。

DSCF2843.jpg


DSCF2880.jpg


 園内は、恐竜の鳴き声がスピーカーから聞こえ、臨場感があります。恐竜毎に鳴き声も変えていて、恐竜に近づくと、その恐竜の鳴き声を聴くことができます。

年表


1949年 FANCESA設立
1959年 マグネシウムの含有率が高いため採掘を中止
1985年 地質技師Heymannが、恐竜の足跡の存在を指摘し注意を促す。
1994年 地質技師Paredesが恐竜の足跡の化石であることを確認。
1994-1995年:地質学者、古生物学者のチームが調査、測量を実施
1995-1998年:SOCIUPAが採掘場およびその周辺で探査
1998年:古生物学者Meyer率いるチームが科学的調査を実施
2003年:Dr.Meyer及びGEOTEST社が、足跡保護のための予算を積算
2006年:世界遺産登録書類を作成

 1959年に、たまたま良質の石灰岩の地層が尽きたために放置されたことが幸いして、足跡が保全されたことが分かります。

追記

 この足跡が、崩れ落ちたというショッキングにニュースについても、この後の記事でご紹介しています。合わせてご覧ください。


posted by ネコ師 at 15:52| Comment(2) | 世界遺産 スクレ市 | 更新情報をチェックする

2010年01月30日

WORDの不具合が直りました


 カンクンへの旅行中、WORDの入力画面でカーソルが反応しなくなると言う不具合が発生。長い記事を書くときは、一旦、Wordで書いたものをいろいろ校正して、ブログに貼り付けていましたが、カーソルが動かないので、そもそも校正作業ができず、へんてこな文章のままアップしていました。

 スクレに戻り、今日、やっと不具合を解消しました。Office 2007を再インストールしても直らないという恐ろしいエラーで、一時はVISTAのクリーンインストールを考えたのですが、なんとか修復できました。直し方は「なんでも保管庫」にアップしました。また、同じような不具合が起きるかも知れないので。

 やっと本来の環境に戻りましたので、カンクンで書いた記事を修正していきたいと思います。

posted by ネコ師 at 14:10| Comment(0) | ネコ師の独り言 | 更新情報をチェックする

2010年01月29日

マヤ文明 コバ遺跡に行きました! 


 今日は、メキシコのマヤ文明のコバ遺跡です。写真と現地案内板に書かれていたことを中心にご紹介します。

位置

 コバ遺跡の位置は、下のGoogle Mapでご確認ください。トゥルム遺跡の北西です。


大きな地図で見る  (Source Google Map)

 コバは、70Km2の範囲を持ち、主要な建物群は、コバ湖とマカンソック(Macanxoc)の周辺に集中しています。これらは、「白い道(sacbeoob)」と呼ばれる長さの異なる重要なネットワークで接続されています。このネットワークは、スペイン人による侵略以前の集落や他の建物群ともつながっていました。

 最も特徴的なものとしては、Sacbé 1と呼ばれる道路で、その延長は100Kmに及び、YaxunáやChichén Itzáの近くまで延びていました。大部分の道路は、紀元後600年から800年までの間に建設されたものと考えられています。

 これらは、支配階級の基本的な出来事が登録された彫刻された石碑で、主要ゾーンから外れた郊外の一般階級住民は含まれていません。それらの居住は近代のマヤ族によって居住されたものとあまり異なっていませんでした。

 コバの人口は、8世紀には、約55,000人であったと想定されています。紀元後800年から1100年の間、建築はピークを迎えます。コバの伝統的な建築様式は、北部ユカタン半島のものよりグアテマラのペテン低地で見られる「ペテン様式」に類似しています。

ポスト古典期までに、コバは衰退し、Tulum、Xcaret、Tankah、El Reyなどのカリブ海沿岸の都市が栄えました。

Nohoch Mul Group

 このグループは、2,400m2の広さがあり、自然の高台に造られました。これは北部ユカタン半島の中でも最も高く、42mの高さがある。この建造物は、Nohoch Mul(1)として知られている。Nohochとはマヤ語で「大きい」、Mulは「塚」を意味します。

 Nohochは、南の側の丸コーナおよび2つの階段を備えた7つの身体で構成されます。

 上部の寺院は、後古典期(1100年-1450年)に建造されたもので、
 The temple corresponds to the Post-Classic period and in the niches of the facede one can observe a descending god.
寺院はポスト古典期間に相当し、ファサードもののスキ間の中で下へ向かって行く神を観察することができます。

 コバで最も多量の構造物であるGrand Platform(2)は、明らかに未完成である。建物x(3) The Building, stands Stele 30, the best preserved of all those found in Coba to date.

石碑30を立つ建物x(3)は、コバで現在まで見つけられたすべて耐もののなかで最もよく保存されており、紀元後780年11月30日の日付けが刻まれた石碑が見られます。

 以上、現地案内板の翻訳です。変な日本語なのはご勘弁を。

マヤ道

 『マヤ道』です。この道がチチェン・イッツァの近くまでつながっていたそうです。
Camino_Maya.jpg


 かつても『マヤ道』も今は草木に埋もれてしまい、ガイドに言われるまで全く気づかなかったです。

IMG_0224.jpg


ピラミッド

 コバ遺跡の入口からすぐの所にあるピラミッド。ユカタン半島のマヤ遺跡のピラミッドは、ほとんどが登ることができません。以前は、チチェン・イッツァのピラミッドにも登ることができたそうですが、5年ほど前、観光客のマナーがあまりにも悪いため禁止されました。
 そうした中で、コバのピラミッドは登ることができると期待して来たのですが、・・・・。登頂禁止です。

Coba2_1.jpg


 球技場です。チチェン・イッツァの球技場はとても大きいのですが、ここの球技場はこじんまりとしています。このような球技場がこの遺跡だけで3カ所ありました。リーグ戦でもしていたのでしょうか。ゴールのリングが低く、その下が傾斜がついているのがチチェン・イッツァとは違います。

Coba2_8.jpg


 別の球技場です。サイズも形もほとんど同じ。なぜ3つもあるのか分かりません。もしかしたら4つあるのかも知れませんが未確認です。

Coba2_30.jpg


 最初のピラミッドの階段部分は、このように通路になっています。

Coba2_13.jpg


 登りたい! という気持ちを抑えて、写真だけです。

Coba2_15.jpg


 遺跡の内部には、このような神殿か寺院か分かりませんが、建物の跡がたくさんあります。

Coba2_19.jpg


Coba2_31.jpg


ピラミッドに登る!

 コバのピラミッドも登れないのかと半ば諦めかけていたら、登れるピラミッドがありましたわーい(嬉しい顔)  コバ最大のピラミッドです。ついにピラミッド登頂ができます。感動です揺れるハート

 このピラミッドは、とても急な傾斜で、スクレで高地トレーニング済みのネコ師でも息が切れます。単に年のせいかも。

Coba2_40.jpg


Coba2_43.jpg


 観光客が皆、「へっぴり腰」なのを見れば、ここがいかに急傾斜かわかると思います。

Coba2_44.jpg


Coba2_45.jpg


 下から登ってくる女性たちは、一緒のツアーの子たちです。水色の縞の子はロスから、その下の茶色の服の子はロンドンからだそうです。二人とも美人でした。

Coba2_46.jpg


Coba2_47.jpg


 前回の記事で書きましたように、ユカタン半島は基本的に平坦です。このピラミッドから360度見渡すことができます。この風景を見ていると、地球が丸いのだとはっきり分かります。マヤの人たちが地球が丸いと知っていたのは明らかです。

Coba2_48.jpg


 頂上の神殿です。

Coba2_55.jpg


禁断のピラミッドの裏側

 進入禁止のロープを乗り越え、こっそりとピラミッド頂上の裏側がどうなっているのか見てみました。

 切り立った断崖です。やはり、この時代のマヤの人たちは、ピラミッドの正面の加工だけに関心があったようです。
Coba2_58.jpg


 ピラミッドの階段の横の写真です。カープを描いた複層的なデザインで構成されているのが分かります。
IMG_0214.jpg


 ピラミッドの階段部分を横から撮影したものです。
 この写真から、何を想像しますか? なぜ直線的なのでしょうか?
 私も分かりません。でも、ピラミッドを形作るひとつひとつの構造、デザインには意味があるはずです。

IMG_0215.jpg


IMG_0218.jpg


IMG_0219.jpg


 この遺跡は、見張り台だったそうです。でも、ピラミッドに登れば360度見渡すことができるので、この見張り台の存在意義が今ひとつ理解できませんが。宗教施設と軍事施設の違いでしょうか。
IMG_0223.jpg


 せっかくカンクーンまで来たのだから、マヤの遺跡をいろいろ回ろうかと思ったのですが、私の関心のあった部分を見たので、チチェン・イッツァ、トゥルム、コバだけにしました。

 私の関心とは、石材をつなぐ糊材です。これを知るため、遺跡の発見当時の状態に関心がありました。どこまでがユネスコによる修復で、どこまでがオリジナルかということです。これが前々回の記事で遺跡発見当時の古い写真をアップしている理由です。

 結論から言うと、マヤ文明の遺跡には『漆喰』が使われているということです。セメントと漆喰は同じ石灰から作られますが、硬化のメカニズムが全く違います。セメントは水硬性ですが、漆喰は気硬性です。エジプトのクフ王のピラミッドにはこのような糊材が一切使われていません。クスコやマチュピチュなどのインカの遺跡も石組みだけで構造物を造り上げています。このため、マヤの遺跡は漆喰が使われているのが特徴だと思いました。

 チチェン・イッツァのククルカンのピラミッドが発見当時、ほぼ原型を保っていたのは、漆喰の効果です。18世紀の写真を見ると、ピラミッド表面の飾り石は剥離していましたが、その下の基材部分はほとんど崩壊していないことが分かります。前々回の記事をご覧ください。マチュピチュの写真は、「なんでも保管庫」に移動しましたので、そちらでご覧ください。ネコ師の関心がどこにあるのかがわかると思います。ついでに、フク王のピラミッドの記事も合わせてご覧ください。

 これに関連する詳しい解説は、そのうちまとめてしたいと思います。 
Wordがおかしくなり動かないのでメモ帳で書いているので、なんか変な文章があちこちにありますが、そのうち直したいと思います。
  
posted by ネコ師 at 11:12| Comment(0) | メキシコ編 | 更新情報をチェックする

2010年01月27日

マヤ文明 トゥルム遺跡に行ってきました


 メキシコのユカタン半島のカリブ海側にあるマヤの遺跡、トゥルム(Tulum)遺跡とコバ(Coba)遺跡に行ってきました。どちらもマヤ古典期の遺跡です。


大きな地図で見る  Source: Google Mpa

 トゥルムの遺跡は、チチェン・イッツァよりも古く、紀元前4世紀~紀元前3世紀ごろに造られたと考えられています。
 
 1519年2月、スペイン人侵略者コルテスの船団は、ユカタン半島コスメル島に上陸します。ここで、漂着していた二人のスペイン人生存者アギラールとゲレロに会うことになります。彼らがいたのが、ここトゥルムだったようです。コスメル島は、トゥルム遺跡の目と鼻の先です(この辺の話は、過去記事「テオティワカン」シリーズに書いています)。

 ここは非常に風光明媚な場所で地上の楽園といった感じです。ゲレロがコルテス軍に合流せずに、ここに留まった理由が分かる気がします。

 ユカタン半島には、マヤ語の地名がたくさん残っています。
 カンクン(Cancún)とは、蛇(Can)の巣(cun)という意味です。

 トゥルム(Tulum)とは、「城壁の町」と言われていますが、オリジナル名はZamaと言い、日の出を意味するそうです。

 また、コバ(Coba)は、Cob - há と発音し、Agua turbia(たぶん沼地の水と訳すのでは)という意味だそうです。

トゥルム


Tulum024


トゥルム遺跡


Tulum045


Tulum056_stitch


Tulum070


Tulum89


Tulum123


 コバやチチェン・イッツァの遺跡で共通してあるのがボール・ゲームの球技場です。これは、サッカーとバスケットボールを合わせたようなもので、コートの大きさによって人数は変わったようですが、1チーム3人から7人で試合をしたようです。手は使わず、足、膝、尻、肩でボールを運び、リングの中を通すと得点になるというゲームです。ボールは、ゴムの木から採取した「生ゴム」で作られ、重さは3Kgから8Kgもあったようです。メキシコシティの人類博物館に現物が保管されているとか。

 紀元前1500年頃、マヤ人は村をつくり、トウモロコシや豆などの栽培を中心とした農業を始めました。紀元後200年頃には、集団墓地の建設をはじめ、寺院、ピラミッド、宮殿、ボールゲーム競技場、広場などで構成される都市づくりが始まりました。古代マヤでは、大量の石材を用いて建築が行われ、石材の切り出しには、ガラス質溶岩が使われました。農業は基本的には焼き畑による粗放なものでしたが、一方で、灌漑やテラスなどの先進的な技術も使われていました。

 初期のマヤ文化は、初期オルメカ文化の影響が見られます。
 マヤ文化の最盛期には、40以上の都市があり、それぞれの都市に5,000~50,000人の住民が暮らしていました。中心的な都市は、Tikal、Uaxactún、Copán、Bonampak、Palenque、Río Becuなどでした。

 マヤの人口は、ビーク時には2百万人に達しました。紀元後900年頃から、マヤ文化は、突然衰退し、巨大な都市や集団墓地が放棄され、植物で覆われジャングルに戻っていきます。この理由として、研究者は武力闘争や農地の劣化による生産力の衰退を挙げています。900年頃から1519年までの間、ユカタン半島では、チチェン・イッツァ、ウシュマル、マヤパンのような都市は、他のマヤの都市が衰退する中で、何世紀かの間、繁栄し続けました。カリブ海沿岸のコスメル島はスペイン人がこの地域を侵略した時には、交易で栄えていたようです。

 マヤの古代都市郡は突然衰退し、歴史から忘れられていきますが、その理由の一つとして考えられているのが、13カトゥン(260年)毎に拠点を放棄して 移住したという暦の周期説です。実際、集落レベルでも52年毎に家屋を焼き払い、移住そうです。気候が温暖なため、家の構造も簡単なため、造り替えも容易だったとか。

 次回は、コバ遺跡です。メキシコはマヤ遺跡の宝庫です。

posted by ネコ師 at 05:22| Comment(0) | メキシコ編 | 更新情報をチェックする

2010年01月26日

Cat Photo Gallery 『セサール』 Youtube版


 セサールの写真を加工して、GIFアニメ、フラッシュなど様々なファイルにしてきましたが、今回、これらをまとめてスライドショーにしてみました。最近のものが多いので、見たことがある方も多いのでは。

 ひとつにまとめてみると、一つ一つの写真を加工したときのことを思い出し、懐かしくなります。GIFアニメでアップしたものも結構ありますが、1枚の画像として見るとまた違った感じがします。

 音楽は、今回もHEEFOOさんの曲を使っています。音楽が豪華なので、セサールも高貴な感じがします(笑)。

 ブログにアップするときは、ファイルサイズを気にして、どうしても小さなサイズにしてしまい、画質も落ちますが、Youtubeだとファイルのサイズをあまり気にしなくても良いので、高画質版の写真を使うことができます。

 ただし、縦横比がオリジナルと異なるため、上下が切れてしまうのが欠点です。

 オリジナルはすごくきれいなのですが、Youtubeにアップすると画質が落ちるようです。Youtubeにアップするのも結構難しいです。



posted by ネコ師 at 11:40| Comment(0) | | 更新情報をチェックする

▲ このページのTOPへ戻る

MIX洋猫と世界遺産ランキングに参加しています。
このバナーは「セサールの酔猫バナー」という名前です。
この酔っぱらいのような猫のことをもっと知りたい方は
猫カテゴリーからご覧下さい。

にほんブムグ村洋猫へのリンク


Copyright Ⓒ Nekoshi, 2007-2017 All Rights Reserved.