ボリビアでは、今年が「アメリカにおける自由独立の最初の叫び二百年」という節目の年にあたることから、様々なイベントが行われています。
ボリビアの独立は、1825年8月6日ですので、独立200周年はまだ先の話です。
どちらも首都スクレが舞台になります。ボリビアの憲法上の首都は、最高裁判所の置かれているスクレで、ラ・パスではありません。
昨日、この二百周年を記念して地元のサン・フランシスコ・ハビエル大学が刊行した「BICENTENARIO DEL PRIMERA GRITO DE LIBERTAD EN AMERICA, 25 DE MAYO DE 1809- 2009」という本をパラパラ読んでいて、思わず引き込まれてしまいました。まるで推理小説、冒険小説のようです。
この本は、南米地域で最初のスペインからの独立運動の火ぶたを切った1809年5月25日のスクレにおける独立・自由化運動を中心に、その前後の国際情勢を踏まえた歴史を記載した書籍です。
最初に目を引いたのは、『シャンゼリゼにおけるアタウアルパとフェルナンド7世との対話(DIÁLOGO ENTR ATAHULPA Y FERNANDO VII. EN LOS CAMPOS ELISEOS)』という項目でした。なにやら、二人の会話の議事録が掲載されています。
アタウアルパは、(実質的な)最後のインカ帝国皇帝として有名ですが、スペインの侵略により、クスコで1533年に殺害されたはず。時代が合わない。それに、フェルナンド7世って誰? シャンゼリゼってパリ?
もちろん、フェルナンド7世はスペイン国王です。在位は1808年、1813年~1833年でした。
以下、上記の本の翻訳(ネコ師翻訳)を掲載しますが、標記方法はスペイン語読みになります。日本語の書物ではなく、ボリビアの学者が自国の歴史と世界の歴史をどのように捉え、歴史上の出来事に重点を置いているのか、興味深いと思います。
ネコ師は、(過去ログをご覧になれば分かるように)日本で紹介されている一部の研究者の書籍に依拠した情報ではなく、現地の情報を大切にしたいと思っています。
【いきなり脱線】
(スペイン語の読みは、日本人にとってローマ字発音とほぼ同じです。確か、過去記事で書いています)
パリのシャンゼリゼ大通り(Champs Élysées)をスペイン語では、Campos Elíseosと書きます。シャンゼリゼとは、「極楽のような」という意味です。このため、地名に使われるようです。ちなみに、ベートーベンの『エリーゼのために』のエリーゼはスペイン語ではElisa(エリサ)です。おめでたい名前です。
以下、本の翻訳(P12)です。( )はネコ師の注釈です。分かりやすいように箇条書きにし、意訳しています。
シャンゼリゼにおけるアタウアルパとフェルナンド7世との対話
本テキストは、スペイン王室に関係する「1809年5月25日の歴史」を作り上げた人々の思想を反映している。それは、フランスの侵攻に対しスペイン国内で生じた思想と類似性があり、また、(アメリカ大陸での)反乱と自由化運動に対する十分な根拠付けとなっている。
・ 1792年 ヨーロッパの他の君主制の国々と共にルイ16世殺害行為に対する報復としてフランスに対し宣戦布告(フランス国王ルイ16世とその后マリー・アントワネットは1793年1月、パリで斬首)。
・ 1795年 スペインはフランスとバーゼル和平協定調印。これにより、イギリスに対しフランスと協調して対抗することになった。スペインとイギリスの軍事競争(revalidad militar)は経済力に関係していた。イギリスは当時、産業革命の最中にあり、アメリカ大陸のスペイン植民地はイギリス商人にとって欲しいものだった。イギリスとの戦争は、スペインからその植民地を分断し、スペインは軍備を維持し、また、商品を供給するための植民地からの経済的収入を失った。同様に、戦争による支出は、スペインに深刻な経済危機を招き、その後長きにわたりこの状況が続くことになった。
・ イギリスへの対抗策の一環として、フランス皇帝ナポレオン・ボナパルテは、大陸封鎖を宣言。これは、イギリス商人がヨーロッパ大陸で商売ができないように監視地域を設けるというものだった。イギリスを完全に孤立させるため、ナポレオンは、ヨーロッパの中でイギリス商船に対して支援を行っていたポルトガルを征服する必要があった。このため、ナポレオンは、スペインに対して、ポルトガル侵攻のために自国の軍隊がスペイン領土を通過する許可を求め、宰相マヌエル・ゴドイ(Manuel Godoy)によりその要請は承認された。
・ 1808年3月、アランフエスの反乱(Motín de Aranjuez)が発生。この結果として、(スペイン宰相。カルロス4世の王妃の愛人といわれている)ゴドイは罷免され、カルロス4世(Carlos IV)は退位し息子に王位を譲る。彼はフェルナンド7世(Fernando VII)としてスペイン王位に就いた。その数日後、フランスがポルトガルへ侵攻するためスペイン領土に入ったとき、フランスは、フェルナンド7世の即位を認めなかった。このため、スペイン国王と王室一家は、ナポレオンと会ってその承認を得るためフランスとスペインの国境にあるバイヨーナ(Bayona)に引っ越した。バイヨーナでの会合で、ナポレオンはスペインに対する要求を明らかにした。それは、1700年からスペインに君臨しているブルボン王朝(dinastía borbónica reina)は腐敗しきった王朝であると考えており、自分の家族の中から適任者を王位につけたいというものだった。これに対し、何ら反抗することなく、フェルナンド7世は無条件にスペイン王を退位する文書に署名した。そして、彼の父、カルロス4世はナポレオンに引き渡され、スペイン王位は、ナポレオンの兄であるホセ(José)が任命される。スペインはこのようにしてフランスの手中に入った。
・ 1808年5月2日、大規模な暴動がマドリッドで起こった。マドリッド市民は、フランスの軍隊に対し蜂起したが、すぐに鎮圧される。しかし市民による蜂起はスペイン国中に広がり、フランス支配の弱い地域へと広がっていった。多くの村や町が自治的評議会を組織し、後世の歴史家が革命評議会(Juntas de Revolucionarias)と呼ぶ組織が作られていった。フェルナンド7世はこのような運動における戦いのシンボルとしての役割を果たした。
・ 1808年9月、フェルナンド7世の名の下に統治を図る王室中央革命評議会が組織された。 評議会の目的はフランスに対する戦いを統合することだった。
以上翻訳
今日は、ここまでです。
これまで、スペインという国は、盤石の国家だと思っていたけれど、こうしてみると中身はぼろぼろだったことが分かります。1809年当時、スペイン国内がかなりひどい状態だったことを知りました。中南米諸国の独立と支配国スペイン本国の状況は、常にリンクして見る必要があるように思います。
この本を読んで、ナポレオンがここで登場するのか、って驚きもしました。
歴史は、視角が違うと、全く別のものに見えてきます。
ちなみに、この3年前の1806年、ジブラルタル海峡の西でのトラファルガーの海戦において、ネルソン提督率いるイギリス海軍がフランス、スペイン連合艦隊を壊滅させています。この時の開戦の状況図はWEBで調べればわかります。
この続きは、また、そのうち。
「アタウアルパとフェルナンド7世との対話」の背景を理解するには、もう少し時間がかかりますね。
(この記事は、ずっと非公開のままになっていました。なぜ、非公開にしたのか覚えていないのですが、特に問題なさそうなので公開します。この続編を書いてからと考えていたのかも知れません。未だに続きは書いていません。)
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